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鼠ヶ関駅を海岸側に出てまもなく左折すると、道路左側に県境の標柱がある。その奥に古代鼠ヶ関跡、同関戸生産遺跡の標識を目にする。鼠ヶ関は白河・勿来とともに古代における奥羽三大関所の一つとされている。一帯の調査の結果、10—12世紀の柵列、建物跡のほか製鉄、製塩跡、須恵器釜跡も確認され、鼠ヶ関は軍事・警察機能のみならず、高度な生産施設を伴っていたことが分かる。「義経記」には「念珠の関」とみえ、源義経が兄頼朝の追い討ちを逃れ平泉に向かう途中、弁慶の機転によりこの関所を通過した話がある。
また、駅を出て右折、北へ1キロメートル歩き、国道7号線を横断したところに、「史跡念珠関跡」の標柱がある。ここは、江戸期の関所であるが、移転年代などの詳細は不明である。当時は鼠ヶ関番所と称され、庄内に入る五つの関所の1つであった。建物は坂井氏入部後に創設されたもので、絵図により平屋建て茅葺きのものであったことが知られるが、1872(明治5)年の廃止後建物は地主氏の所有となり、2階建て茅葺きに改築されたが、階下はなお昔の面影をとどめている。
関所跡の南300mほどにある曹源寺(曹洞宗)には、団地性植物ヒサカキ(県天然)の老木2株があり、元旅館村上屋の庭には横枝全長21mの念珠の松(県天然)がある。
鼠ヶ関方面から東へ15キロメートルほど進み、関川集落に入ると道路右側の薬師神社前に「史蹟戊辰の役古戦場跡」が見える。このあたり一帯は戊辰戦争の関川古戦場である。1868(慶応4)年1月に戦端を切った戊辰戦争は、4月に庄内討伐令が発せられた。7月、越後が陥落すると政府軍は大挙北上、庄内に迫り、8月下旬から国境各地で激戦が展開された。鼠ヶ関口ほかにおいては、庄内軍は敵領内に入れなかったが、関川口は庄内にとっても戊辰戦争最後の激戦地であり、唯一的の占拠を許したこと、農家が焼かれ、農民にも犠牲者をだしたこと、そしてこの後数年間関川農民は貧窮の生活を強いられたことなどが伝えられているところである。
また、関川は隣の越沢とともに名峰摩(標高1020メート理)の登山口となっている。繭山頂は旬律する眼法で、古く霊山として登拝されていたが、近世には軍事上の理由で登山が禁止された。そのため変化に富む自然がよく保護されている。繭産経一帯は日本特有の珍獣ヤマネ(国天然)の生息地としても知られている。また、関川にはシナの樹皮で織った古代繊維「香織」が伝わる。
文責:行政社会学部 鈴木みゆき プラットフォーム7号
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