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青春18きっぷ消化旅行2 

−私の三都物語−

1.プロローグ   −東北大陸から ハート&アクション−

 12月のある日、何気なく時刻表を見ていたら急に旅に出たくなった。で、どこに行こうかなあと考えていたら思いついたのは近畿地方の三都(注:JR西日本の観光キャンペーン『三都物語』から。三都とはもちろん京都・大阪・神戸のことである)だった。そのうち京都は昨年の春に行っているのでとりあえず除外し、残る大阪と神戸に行くことにした。早速プランを練ったら、1月10日の大垣夜行で大阪に入り、大阪市内を観光して姫路で1泊し、翌日は神戸を廻り名古屋から急行ちくまに乗って長野に出て福島に戻ってくるという大胆かつ無謀なプランでまとまった。

 いつもならば計画だけで満足して終わるのだが、今回は違う。今回は「思い立ったが吉日」とばかりにまずはびゅうプラザに行き姫路市内のホテルの予約をした。次はみどりの窓口に行き、長野行きの急行ちくまの指定席を確保しようとしたら…何と座席も寝台も満席だった。考えてみたら1月12日は成人の日が絡んだ連休を前にした金曜日だった。「さて、どうしたものか」と考えながら『青春18きっぷ』を買った。とりあえずこれがなければ私の旅は始まらない…。

 …翌日、断腸の思いで『ちくま』に乗るのを諦めた。でも、長野に行くのまで諦めたわけではなく、急遽実家に帰省することにもなったので大垣夜行で早朝に東京に着いた後、長野に行ってゆっくりと観光して松本から千葉行きのあずさ号に乗って帰るというプランにまとまった。また、大阪までのアクセスも品川発の大垣夜行には乗らずにアルバイトの日時を変更してもらって10日の朝1番に金谷川を出発することにした。

 .本編(1996年1月10日〜1月13日)

 1月10日(水曜日)   −The LaunchGO WEST!

 全く眠れずに出発の朝を迎えた。カップラーメンをすすりながらニュースと天気予報を見ると関東地方を除いて全国的に大荒れの天気が続き、通過予定地も東京近辺を除いて雪か雨の予報が出ていた。続いて大雪の名古屋や彦根の映像も写し出された。「こりゃ、波乱含みの旅行になるぞ」と思いながら身仕度を済ませ、金谷川駅に向かった。外はまだ暗く、月が出ていた。

 金谷川駅はまだ照明がついていなかったが、シャッターは開いていたので中に入ると、真っ暗な待合室には保線掛のおっちゃんがいた。「早いね」と声を掛けられたので「始発電車で出掛けますんで」と答えると、「仙台でポイント故障があったらしいけんど今度の電車は福島発だから定刻に来るよ」と教えてくれた。時間になったのでホームに降りると、おっちゃんの言う通り6時7分発の電車は定刻にやってきた。ここから820.4km彼方の大阪に向けて約15時間にもわたる長い長い旅が始まった。二本松を過ぎた頃、自分が今やろうとしていることがだんだんと恐ろしくなってきて途中で引き返そうとさえ思ったがいまさら遅い。覚悟を決めてそのまま乗り続けた。外はいつの間にか雪に変わり、少しふぶき始めた。

 電車は郡山を過ぎると高校生がたくさん乗って来た。考えてみたら今日は平日だ。段々とダイヤも遅れ始め、黒磯には5分遅れで到着して宇都宮行きの電車に走って乗り換える羽目になった。宇都宮からはロングシートの上野行き快速ラビットに乗る。「こりゃ米原までロングシートかな」などと下らないことを考えているうちに寝てしまい、気がついたら川口を過ぎて東京都に入っていた。終点上野で山手線に乗り換え東京に着いたときには11時を廻っていた。

 東京には少々早く着いたので暫くの間電車をぼーっと見ていた。九州方面からのブルートレインが次々と遅れて到着した。ここでも西日本の天気の荒れ具合を実感した。

 そして、快速アクティーが回送で入線してきた。普段この電車はオール2階建て電車が使用されているのだが、この期間だけは在来車で運転されているのでどんな車両が来るのだろうと待っていたら鮮やかな湘南色の電車がやってきた。幸いボックスシートだ。すぐに乗り込み海側の席を確保したのち、宇都宮で買った弁当を広げた。都心を抜け、横浜を抜け、小田原を過ぎると相模湾が眼下に広がり、旅の疲れを癒してくれた。そして快速アクティーは定刻に熱海に到着した。

 熱海から島田行きの普通電車に乗り換えた。沼津を過ぎると富士山がとてもよく見えた。このあたりで今日の旅程の半分を過ぎたが、まだ半分も残っているのかという絶望感とだんだん東京から離れていく不安を感じながら景色を眺めていた。静岡からはオールロングシートの浜松行きに乗り換えた。ここからは静岡名物の茶畑が丘陵地帯に広がるが、ロングシートなので見ることが出来ずにそのまま寝てしまった。目が覚めたときには左側にヤマハの資材置場が見えており、しばらくして浜松に到着した

 浜松からは快速米原行きに乗った。今度は『東海ライナー』タイプの転換クロスシートだ。浜松を出てしばらくすると浜名湖が眼下に広がった。その雄大な景色を見ながら鰻弁当を食べようと思ったのだが、あいにく売り切れだった。豊橋を過ぎてから段々と辺りは暗くなってきて、気がついたらもう真っ暗だった。時間を見るともう夕方ラッシュの時間帯で金山や名古屋からたくさんの人が乗ってきた。そして岐阜県に入ると突然雪景色になった。大垣を過ぎると更に雪は深くなり、東海道本線最大の難所であり豪雪地帯でもある関ヶ原が近いことを思わせる。乗客も減って再び静かな車内になった。関ヶ原を過ぎると滋賀県−近畿地方−に入るのだが、雪は相変わらず強く降り続いている。そんな中、私の前列の席に座った2人連れが江州弁(注:滋賀県で使われている関西弁)で話し始めた。雪国の車内での会話は東北弁(というよりは福島弁)という勝手な固定観念ができあがっていたので、頭の中が混乱してしまった。そうこうしているうちに電車は5分遅れで米原に到着した。米原1921分発姫路行き新快速に最後の乗り換えをした。

 新快速は米原を出ると彦根、能登川、近江八幡と停車しながら120km/hでぶっ飛ばした。途中の通過駅も猛スピードで通過して行く。95km/hに慣れた体には恐怖さえ感じるスピードである。この頃になると精神的・肉体的疲労もピークに達し、思考回路がだんだんおかしくなっていくのが自分でもわかった。新快速は暗闇に包まれた近江路を爆走していく。京都でたくさんの人を乗せて新大阪までの長いノンストップののち2045分、長い長い旅路の末に大阪駅に到着した。「思えば遠くに来たもんだ…」と口ずさみながら梅田の地下街で夕食の弁当を買ってこの日の宿にチェックインした。時計は既に21時を廻っていた。鏡を見ると目が充血し、意識も朦朧としていた。ビールを飲みながらテレビを見ていたらJR西日本のCMに西田ひかるが出ていた。どーでもいいことだが他のJR各社は誰がCMに出ているのだろうか、どうして加藤紀子のCMは東北地方ではあまり放送しないのだろうか、そして小泉今日子は再びJR東日本のCMに登場することはあるのだろうか?などと考える暇もなく寝た。

 1月11日(木曜日)   −芸術は爆発だ!頭も爆発だ!−

 この日は朝7時に目が覚めたが、また寝てしまい起床したのは7時50分だった。朝食を食べに行く前に身仕度をしようと鏡を見ると髪の毛が寝癖で爆発していた。慌てて整髪料で寝癖を直してレストランに行って朝食をとったのち9時にチェックアウトして、大阪駅に向かった。その大阪駅に向かう途中、人を避けようとして誤ってビルの作業用境界ロープの内側に入ってしまったら、通勤途中のサラリーマンに「上から消火器が落ちてきたら危ないで」と注意され思わず噴き出しそうになった。

 コインロッカーに荷物を預けた後、各駅停車に乗り茨木で下車してバスに乗り万博記念公園で下車した。平日の午前中なのでさすがに人はあまりいない。停留所はJリーグガンバ“吹田”のホームグラウンド、万博記念競技場の前にあった。先ずは昔から行きたかった国立民俗学博物館に行った。ここには世界各地のさまざまな民族の儀式や生活に使う道具が展示してあった。また見学客は私だけだったのでゆっくりと見ることができた。

 ミュージアムショップで比較文化論 のレポートの参考文献とナイル川で採れたパピルスで出来たしおりを買って民俗学博物館を後にし、モノレールの駅に向かいながら万博記念公園内を散歩した。万博公園のシンボルと言えば大阪万博が開かれたときのシンボルでもあった『太陽の塔』である。民俗学博物館に向かうときからその後ろ姿は見えていたのだが、近くで、しかも正面から見ると非常に大きかった。なんでも約70mの高さがあるらしい。その大きさに圧倒されると同時にこれを製作した岡本太郎の偉大さを思い知らされた。私が旅立つ数日前に岡本太郎は亡くなっているので故人を偲びながら万博記念公園からモノレールに乗った。

 千里中央から北大阪急行に乗り江坂に出た。昼食を食べた後、近くにあるホビーセンターKに行こうとしたが道がわからなかった。そこで近所を歩いている人に道を聞いたらその人は不動産屋で住居地図を見せてくれながら場所を教えてくれたおかげでなんとか辿り着いた。東京の店に比べたらとても狭かったが、商品は結構豊富だった。そこで蒸気機関車やパンタグラフを買って店を出た。

 再び江坂駅前に戻り、近くの銀行でお金を下ろそうとしたがATMが受け付けてくれない。そこの銀行の人や福島銀行に電話で問い合わせても要領を得ない。ただ目茶苦茶テレカを消耗しただけだった。お金を下ろすのを諦め地下鉄御堂筋線で梅田に戻った。結局お金は大阪駅前にある別の銀行で下ろすことが出来た。

 大阪から関西国際空港を見に行こうと京橋回りの大阪環状線に乗り天王寺に行ったが、とても疲れていたので行くのを止めて西九条回りで大阪に戻ろうとたまたま停車していた『大和路快速 大阪環状線』と書かれた新快速と同じタイプの電車に乗った。てっきり西九条回りだと思ってボックスシートに座って発車時刻が来るのを待っていた。ところが天王寺を出ると西九条方面ではなく京橋に向かって走り出した。そして案内のLEDスクロールも『大阪環状線』がいつの間にか『加茂行き』になっていた。転換式クロスシートに騙された自分を情けなく思いながら再び京橋回りで大阪駅に戻った。

 駅前にある大阪中央郵便局でさらに軍資金を下ろし記念はがきを買ってから、コインロッカーから荷物を引き取り姫路行きの新快速に乗った。夕方だったので混雑が非常に激しく、暫く立ち続けた。神戸で座ることが出来たが、疲れのあまり姫路に着くまでの間ほとんど寝ていた。

 17時頃にホテルにチェックインし友人らに手紙を書いた後、夕食を食べに出掛けた。その前に駅のみどりの窓口でダメもとで長野行きの急行ちくま号の指定券を問い合わせたところ、なんと寝台席が1つ残っていた!私は迷わず寝台券を取り、意気揚々と商店街へと繰り出した。これで大垣夜行に乗らなくてもすむ。

 食事を終え、コンビニで買い物をした後ホテルに戻り、テレビをつけると橋本龍太郎内閣の組閣の様子を中継していたが、すぐに若田光一さんの乗ったスペースシャトルがまさに打ち上げられようとしている映像が出た。すぐに映画APOLLO 13』のサントラの打ち上げシーンの音楽を再生し、それを聴きながらエンジン点火、そして打ち上げの瞬間を迎えた。宇宙に向かって飛んで行くスペースシャトルの映像を見ながら「どうかアポロ13号のような事故(注:月に向かって飛行中に燃料タンクが爆発して一時は生還が危ぶまれた事故)が起きませんように」と心の中で祈った。この晩は久保恵子よりもかわいいと(個人的に)思っている栗原由佳が出ている『プロ野球ニュース』を見てから寝た。

  1月12日(金曜日)   −がんばろう KOBE−

 朝7時きっかりに目が覚めた。朝食をとった後チェックアウトして最初の目的地である姫路城に向かった。朝の清々しい空気の中、高校生が自転車に乗って学校に向かっている中を一人寂しくお城に向かう。この姫路城は「白鷺城」という別称までもつとても優雅な城で最近世界文化遺産にも指定された。そして、『暴れん坊将軍』では江戸城としても使われているらしい。時間の都合で天守閣には入らずに城郭を回っただけで駅に戻り、新快速で神戸へと向かった。途中の新長田や鷹取付近では更地が目立つ。そして震災の後遺症か、高架区間に入ると揺れが激しくなる。

 コインロッカーに荷物を預けた後、まずはハーバーランドに行った。この近辺は見た目には震災の影響はなさそうに見えたが、実際に歩いてみると液状化現象が起きた跡が至る所にあり、児童相談所は建物が傾いていて立入禁止になっていた。歩道も凸凹していて所々で補修をしていた。また、真上の阪神高速も復旧工事中で車は全く通っていなかった。センターモールを歩いた後、モザイクに行って暫く海を眺めていた。入り江を隔てて向こう側にはメリケンパークがあり、ポートタワーがそびえ立っていた。同じ港町でも横浜や函館とは明らかに違う雰囲気だった。

 本当は被災地の現状を見に行こうなどと考えていたのだったが、半日の間にそれが浅はかな考えだということがわかった。震災の爪痕は電車の車窓や比較的被害の少なかったハーバーランド内だけでも十分認識することが出来たし、これ以上深入りする勇気もなかったので普通の観光に徹することにした。

 次にポートアイランドに移動し、神戸市青少年科学館に行った。ここですっかりはまってしまい、3時間を過ごした。近くにあるUCC本社内の喫茶店で遅い昼食をとった後、UCCコーヒー博物館を見学した。展示によると神戸港は日本で1番コーヒーを輸入している港だそうだが阪神大震災で神戸港も壊滅的な被害を受けた今はどうなっているのだろうと考えてしまった。話は変わるが、この近辺にはUCCのみならずモロゾフやユーハイムなど洋菓子メーカーの本社や倉庫がずらりと並んでいた。

 次に昨年のプロ野球を大いに沸かせたオリックスの本拠地、グリーンスタジアム神戸を見に行くことにした。グリーンスタジアム神戸はユニバーシアード大会が開かれた総合運動公園内にあり、ユニバーシアード競技場も近くにある。ここに来て驚いたことは、この辺りは神戸でも郊外だから北区だと思っていたら何と須磨区や西区にもかかっているらしい。イチローや仰木監督はもちろん、オリックスナインもいないことは分かっていながら誰かに逢わないかなあと思いながら自分は西武ファンだということを忘れて球場を一周し、再び地下鉄に乗って次の目的地を目指した。ちょうど女子高生の下校時間とぶつかって私の乗った車両はフェロモンが充満した。

 夕方になったので夕陽を見ようと須磨に行った。地下鉄からJRに乗り換える時、新長田駅前をチラリと見たが更地に残っていた瓦礫の山が痛々しかった。

 須磨で降りると目の前はもう海岸だった。しかし、期待はすぐに失望へと変わった。「源氏物語」で出てきた優雅な風情はなく、沖合は埋め立て工事の真っ最中でなんだか来て損をしたと思った(注:本当に美しい海岸は須磨ではなく隣の舞子にあるらしいことが後にわかった)。悔しいから少々自棄になって隣の塩屋駅まで海岸を歩くことにしたが、それが間違いのもとだった。波消しブロックなど障害物があったりして砂浜は思ったよりも歩きにくいばかりでなく、国道2号の歩道に上がろうにも防波堤が高すぎて登ることが出来なかった。須磨海づり公園の辺りでやっと国道2号に出ることが出来たが捻挫の古傷を痛めてしまったらしく、右足をひきずりながらひたすら歩いた。1時間ほど歩いてやっと塩屋駅が見えてきたときにはうれしかった。この辺りになると夕陽の向こうに明石海峡大橋と淡路島、それに四国もはっきりと見えたので疲れも一気に吹っ飛んだ。

 各駅停車に乗り再び神戸に戻り、夕食をとった。時間があったので再びハーバーランド・モザイクに行った。夜のハーバーランドは100万ドルの夜景が目の前に広がって更に魅力たっぷりだった。でも周りはカップルやグループばかりだったのでちょっと惨めな気持ちになった…。

 神戸の夜景を十分に堪能した後、混雑している新快速を避けて各駅停車で大阪に戻った。六甲山麓に広がる芦屋や西宮の夜景や向かい側に座っていた女性に見とれているうちに大阪に到着した。それでも時間があったのでちょいと福島に行って戻ってきた。福島といっても我々のいる()福島ではなく()福島(注:大阪市福島区の大阪環状線にある駅。大阪駅のすぐとなり)である。本当は()郡山(注:奈良県大和郡山市の大和路線にある駅。奈良駅のすぐとなり)にも行きたかったのだが、これはそのうちに行くことにしよう。

 鳥取から来た『スーパーはくと』や富山行きの『スーパー雷鳥(サンダーバード)』を見送っているうちに長野に向かう急行ちくまは発車10分前に入線してきた。指定された車両にはディーゼルエンジンの発電機がぶら下がっていて車内はとてもうるさかったが、そんな贅沢も言っていられないほど自由席も指定席も満席でかなり混雑していた。乗客の殆どは信州方面へスキーに行く連中で、車内にはスキー板が散乱していた。発車してから暫くは話し声やらが賑やかだったが米原を過ぎると静かになって寝れるかと思ったら岐阜からとんでもない奴が乗ってきた。私の寝台の斜め下に乗り込み、携帯電話で「明日迎えに来てや」などと禁煙車で煙草を吸いながら話し、挙げ句の果てにはいびきをかく始末である。よほど鼻をつまんでから濡れタオルで口を押さえてやろうか(注:これをやると呼吸が出来なくなってその人はもがくらしい。修学旅行のお約束の1つだが、一歩間違えるとキケン!)と思ったが私も名古屋をでると寝てしまった。明日はいよいよ信州、旅行の全日程の最終日だ…。

 1月13日(土曜日)   −旅の終わりはあずさ72号−

 松本到着のアナウンスとともに目が覚めた。向かい側にいた女性も真下の青年もそれぞれ下車した後だったが、携帯電話野郎はまだいびきをかいている。松本では10分ほど停車するらしいのでホームに降りて背伸びをした。その他の乗客たちもホームに降りて煙草を吸っていたり新宿から信濃大町に向かう急行アルプス号の待ち合わせをしていた。

 今日はいよいよ旅行の最終日だ。実はこの長野での行動予定は善光寺に行く以外は何も決めていなかったので、長野に着くまでの間時刻表と『るるぶ』をにらめっこしながら考えたが、なかなかまとまらない。結局善光寺詣でをした後小海線に乗ってあずさ72号までの時間を潰すことにした。

 朝5時24分、急行ちくまは長野に到着した。到着した後も携帯電話野郎はまだいびきをかいて眠っていた。ざまあ見ろと思いながら身仕度をして列車を降りた。

 駅前にはスキーバスがたくさん停車していた。バス乗り場の前では松明が焚かれ、地元の観光協会の人々が汁物を振舞っていた。当初は長野電鉄で善光寺に行こうと思ったが、まだ始発までかなり時間があり、かと言って歩いていくには少々距離があったのでタクシーに乗った。なかなか感じのいい運転手で川中島の古戦場など観光地を教えてくれた。おまけにメーターがあがる前に止めてくれたのでうれしかった。

 タクシーを降り参拝客が誰もいない善光寺で少々遅い初詣を済まし、歩いて駅まで戻った。あまりに寒くて耳がちぎれそうだったがコンビニで暖をとりながら何とか長野駅まで戻った。長野といえば1998年の冬季オリンピックをひかえて急激な変化を遂げている。善光寺を模した長野駅舎も北陸新幹線開業にあわせて改築されるとか…。小諸行きの普通電車に乗って先程買ったあんバタ(注:コッペパンにあんことバターを塗ったもの)を食べながらまだ薄暗い長野を後にした。

 小諸では約30分の待ち合わせで小海線に乗り換えた。小海線自体には小海町にある祖母の家に行くときに何度か乗っているが最近は小淵沢から乗っていたので小諸から乗るのは久しぶりである。今日はなんだか問題集を持った人たちが目立つ。考えてみたらセンター試験の日だ。中込辺りで受験するのだろうか?ディーゼルカーはそんな人たちを乗せて小諸を定刻に出発した。ここから小海までの間は佐久平を走る。途中で工事中の北陸新幹線をまたいだ。この区間の大半は疲れが溜まっていたのか寝てしまったが、小海に着く手前で不思議と目がぱっと覚めた。小海を出るといよいよ高原鉄道の本領発揮である。次の祖母の家への最寄り駅である松原湖では八ヶ岳に登ると思われる登山者が多数降り立った。この辺りの標高は優に1000mを超える。千曲川沿いの勾配をくねくねと登っていく。車窓にはシラカバ林や雄大な八ヶ岳のパノラマが広がる。標高1345.67mの野辺山駅や1375mのJR最高地点を過ぎ、大きなカーブを曲がって1052分に小淵沢に到着した。立ち食いスタンドでほうとう(注:山梨県の郷土料理。寒い日に食べると体が暖まる)を食べながら次に乗る長野行きの普通電車を待った。

 本当はこの長野行きで岡谷まで乗って辰野経由で塩尻に出る予定だったが、お風呂に入りたかったので上諏訪で途中下車した。上諏訪には有名な駅の露天風呂があるが、そちらではなく、駅前のデパートの中にある温泉に入った。前日と今日の午前中の汗が流せてとても気持ち良かった。これで着替えがあれば最高だったのに…。温泉に入ったついでに諏訪湖と間欠泉を見に行くことにした。

 諏訪湖は見事なまでに凍っていてスケートやワカサギ釣りでもできそうだが、立て看板には「氷の上に立ってはいけません」と注意書きがあった。冬の諏訪湖といえば御神渡りが有名だが、ここ数年暖冬で御神渡りはおろか諏訪湖の完全氷結すらなかったらしいが、今年の冬はとても寒いので5年ぶりの完全氷結と御神渡りの期待がかかっていると聞く。もう1つ諏訪といえば忘れてはならないのは諏訪大社の御柱祭である。こちらは2年後の1998年(オリンピックイヤー!)までないが、この祭りは毎回死傷者が出るほど激しい祭りらしい。また、NHKの朝の連続ドラマ『かりん』もここ諏訪が舞台になっている。

 諏訪の紹介はここまでにして話を先に進めると、諏訪湖の周辺を散策した後、ほとりにある諏訪湖間欠泉センターに行った。チケットを購入し、中に入ろうとしたらそこの職員に「15分後に間欠泉が出ますよ」といわれた。聞くところによると間欠泉は約30分おきに噴出しているらしい。間欠泉センター内の展示物を見ていると「まもなく間欠泉が噴き出します」というアナウンスがあり、展望室に行って間欠泉を見た。膨大な量の熱水が空に向かって勢いよく噴き出す様はまさに感動ものだった。

 間欠泉を見た後上諏訪から辰野経由で松本に行き、山菜そばを食べた後1717分発のあずさ72号を待った。松本に着いた時間では1本前の『スーパーあずさ』にも充分間に合うのになぜ普通の『あずさ』なのかというと、このあずさ72号は千葉行きで、船橋での楽な乗り換えだけで済むというただそれだけの理由である。そのあずさ号が南小谷からやってきた。指定された席は通路側だった。通路側になったときはいつも窓側は若い美人の女性でありますようにと願うのだが、今回は大当たりだった。おまけに彼女はリクライニングをしようと真中の肘掛けを引っ張ったりその下にある座席回転レバーを引っ張ったりと大ボケまでかましてくれた。おかげで私も一緒に回ってしまった。

 あずさ号は暗闇の甲斐路を疾走し、あっという間に新宿に到着した。そこで隣席の女性を始め乗客の大半が降りて賑やかだった車内も静かになった。そして秋葉原、錦糸町と停車をして船橋に着き、続いてやってくる快速に乗り換えて2045分に津田沼に到着した。奇しくも10日に大阪に着いたのと同じ時間だった。残った1枚も()福島に戻るときに使い、無事に青春18きっぷ1冊5枚セットを使い果たした。

3.エピローグ     −旅を終えて−

 実は私にとってこの旅行は自分でセッティングしたものとしては初めて宿泊を伴う旅行でいろいろな不安もあったが、なんとか無事に全日程をこなせて大成功だったと思う。でもプランそのものに多少無理があったので、廻り残したところも多かった。

 また、今回は緻密に計画を立てるタイプの私にしてはかなり行き当たりばったりの旅だったと思う。しかしこの行き当たりばったりの旅は青春18きっぷを含めた各種フリーきっぷにのみ許される特権なのだ。そうは言ってもやはりある程度しっかりしたプランを立てておいたほうが時間の無駄がないということをちょっぴり感じた。

 話は変わるが、今回神戸に行ってみて、瓦礫の山や壊れた建物は片づけや修復が進み交通機関も一部を除いて半年以上前にほぼ復旧して、街が徐々に復興していく様子が肌で感じられた。しかし今もなお避難所や仮設住宅で生活している人もいるなど問題がまだたくさん残っているのも事実である。少々話が堅苦しくなってしまったがそんなことを改めて考えさせられてしまった。機会があったらもう一度神戸に行きたいと思う。その時は今回見れなかった風見鶏の館など異人館街や関西国際空港もじっくりと見たいと思う。また、北海道・岩手県に次いで広い長野県についても今回は長野・佐久・諏訪しか行かなかったので木曽・飯田・伊那地方もできればオリンピックの年に行ってみたいと思う。すっかり長くなってしまったので、この辺でお開きにしたいと思う。

《名古屋、じゃなかった。終わり(お粗末!)》

作:C葉県のT君こと、行政社会学部3年 寺村 宏幸

P.S:THUNDERBIRDと聞いて人形劇ではなく昨年登場した『スーパー雷鳥(サンダーバード)』を想像する私はやはり鉄だろうか…。

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文責:寺村宏幸(行政社会学部)「platform11号」

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