このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

青春18きっぷ消化旅行3

−追う立場最後の追いコン旅行&オプション−

 

1.プロローグ        −言い出しっぺの責任−

 97年3月の旅行同好会追いコン旅行の行き先を巡って近いところで北陸だ、寒いところは嫌だから四国だ九州だと紛糾していたある日、私はぼそりととある4年生の先輩に「伊勢・志摩は行ったことありますか?」と訪ねた。これが全ての出来事の始まりだった。その方を含めた方々の賛同を得てしまい、多数決をとったら圧倒的多数で追いコン旅行の行き先は伊勢志摩に決まってしまったのだった。自分の中で「こりゃ、行かねばなるめいな」と変な強迫観念が生じてしまった。こういうときは大抵ろくなことが起きないのである。例えば、昨年の新歓旅行では寝不足なのにビール園に行って気分が悪くなったり、学祭の打ち上げコンパも疲れが残っている中でコンパ係最後の仕事だというのと、この日の飲み代を預かっていたために行かねばならなくて行ったらしこたま飲まされてサークルコンパでは初めて気分を悪くした(いずれも酒絡みの話という噂もあるが…)。

 てな訳で今回のサークル旅行はどんな旅行になるかは本編を読んでのお楽しみというわけだが、今回初めてサークル旅行に青春18きっぷを使用して参加することと相成った。ちなみに95年夏旅行は北海道ワイド周遊券、96年追いコン旅行は帰省も兼ねていたので東京ミニ周遊券+大島航路の乗船券+周遊券のエリア外になる熱海〜藤沢間の乗車券だった。更に95年追いコン旅行は実家から行ったこともあって自動券売機でオレンジカードを使って買い、自動改札を通してきた切符で参加した。

 前置きがすっかり長くなってしまい、収拾がつかなくなりそうなのでここまでにしておく。では、本編をじっくりとお楽しみください。

 

2.本編

 1回目…3月8日(土曜日) −FAIRWAY Keep−

 【金谷川−郡山−黒磯−赤羽−東京−津田沼】

 本来は、福島の寮から実家までの帰省の過程については書く予定はなかったが、ちょっと書いてみることにした。

 本当は朝7時41分発の黒磯行きに乗る予定だったが、いったん起きてからまた微睡んでしまい、起きたのは昼近くだった。そこで取り急ぎ準備をして一旦は出発したが、忘れ物をしたことに気づいて戻ったら電車に乗り逃した。1時間の後、再び金谷川駅に行って郡山行きの電車に乗った。そして郡山で猛烈に混んだ黒磯行きのワンマンカーに乗り換えた。我が物顔に傍若無人に振舞う小学生どもにやや青筋を立てながらワンマンカーを降りた。

 ところで、黒磯からの接続を時刻表で調べているとなんと、土・日・休日運転の新宿行き臨時快速『フェアーウェイ』に間に合うことがわかった。1本前に出る上野行きよりも早く戻ることが出来るので乗りたかったが、なにぶんにも持っていたのが古い時刻表だったので運転しているか不安だったが、黒磯駅の窓口で『フェアーウェイ』の指定券を買っている人がいたので私も赤羽まで買うことにした。

 ホームでしばらく待っていると『フェアーウェイ』は9両編成で入線してきた。私は1号車の指定を受けたのだが、この車両は他の車両と違って座席がいいやつだった。少し喜びながらジュースを買い込んで着席するとまもなく黒磯駅を静かに出発した。

 この『フェアーウェイ』は新宿から新潟を経て村上に至る夜行快速『ムーンライトえちご』の車両が使われている。ただの『ムーンライト』だった頃にこの列車に乗ったことがあったが、この時は座り心地の悪い古いグリーン車の使い古しの座席で腰が痛くなったが、今回は前述の通り座席が改善されていてとても快適だった。

 さて、電車のほうは黒磯を出て那須塩原、西那須野…と停車していくにつれて乗客が次々と乗ってきて静かだった車内も段々と賑やかになってきた。宇都宮からはこの電車の本来の目的の客であるゴルフ帰りのおやじなどで一気に満席となった。そしてあちらこちらで持ち込みのビールやお酒でささやかな打ち上げ会が始まり、「お疲れ様でした」「乾杯!」の声が響き渡った。そして煙草やお酒、つまみの匂いが車内に充満した。こんな状況が暫く続いたが、小山を出るとその大半が疲れと酒がまわったためか寝てしまい、車内には大声で政治や経済の状況を議論するおやじ達の声のみが響いていた。幸い私のとなりの席は黒磯から乗っているゴルフとは縁のなさそうな人で、雑誌を読みながら寝ていた。そして大宮を出るとかなり大粒の雨が列車を叩き付けた

 赤羽からは東京まで京浜東北線に乗った。『フェアーウェイ』など池袋・新宿方面の電車が発着するホームと京浜東北線のホームは同じ高架ホームにあるのだが、乗り換えるときは一旦地上の上野発の電車が着くホームに降り、さらにその下のコンコースまで下って初めて京浜東北線のホームに上れるという何とも面倒くさい乗り換えだった。雨はここでも激しく降り続いていたため私の乗った京浜東北線の電車は駅を出るときには空回り、停車するときはスリップと乗っていて可哀想になるくらいな状況だった。JRになってから作られた車両によく見られる現象だ。しかし、東京から乗った電車は京浜東北線の新型電車と同じ時期に作られた電車だが、雨はほぼ止んでいたせいもあってこちらはそんなにひどくはなかった。そして、津田沼駅に着く頃には雨も上がっていた。

 

 2回目…3月11日(火曜日) −怒りの東海道線−

 【津田沼−東京−鴨宮−熱海−浜松−豊橋−名古屋−河原田//津−伊勢市】

 この『青春18きっぷ消化旅行3』のメインにもなっている96年度サークル追いコン旅行に参加するために伊勢に向けて出発する日である。朝起きて朝食を食べながらニュースを見ていると「東海道線は根府川付近の強風のため、ダイヤが乱れています」との気になる情報が…。準備ができ次第すぐに出発して、予定より早い電車に乗って東京駅に着いた。

 しかし、東海道線のホームに上がってみると電車のダイヤは相当乱れていて、駅員も混乱していたようだ。それは私がホームに上がってすぐに入線してきた電車はホームの掲示板では『回送』になっていたのだが、案内放送では「この電車は折り返し熱海行きになります」と言ったかと思えば業務放送で「折り返し小田原行きです」と言ったりしてそれに合わせて電車の行先表示幕も『熱海』や『小田原』ところころしたが、結局回送になって引き上げていった。

 本来私は9時41分発の沼津行きに乗る予定だったが、こんな状況ではいつ来るかわからないのですぐ入線してきた熱海行きに乗った。小田原からの美しい海岸線を見るために窓側のボックス席をいつものようにキープした。電車は約30分遅れで東京駅を出発した。

 電車は遅れを取り戻そうと必死になって走っている様にも思えたがここまで乱れたら取り敢えず熱海に行けたらどうでも良い感じになった。しかし、増結編製を切り放すために平塚で少し停車したとき、駅のアナウンスが「この電車は小田原行きです」などと言いやがった。一瞬我が耳を疑ったが、平塚出発後の放送で「この電車は熱海行きでしたが、都合により小田原行きになりました」と言うではないか!一瞬目の前が真暗になったが、ここで挫折してもしょうがない。平塚で見掛けた後発の伊東行きに乗ることにした。しかし小田原から乗ったのでは混んで座れないかも知れないので1つ前の鴨宮で乗り換えた。鴨宮から乗ったので座ることはできたが、オールロングシートだったので海岸線をゆっくり見ることができなかった。更にこの電車も小田原出発の時の駅のアナウンスが「熱海行きです」と言ってたような気がしたが今度は小田原出発後に案内はなかったが、この混乱の原因を作った根府川付近で「只今連絡がありまして、熱海止まりとさせていただきます」と言った。私にはもはや関係ないことだが、伊豆方面に旅行に行く予定だった人には相当ショッキングな情報だったろう。そのことを知ってか知らぬか車掌はしきりに「本日は電車が遅れまして大変申し訳ございませんでした」とまるで自分が悪いかの様に謝っていた。やっとのことで熱海に到着し、5分の接続で浜松行きの電車に乗り換えた。この電車はトイレなしの3両編成だった。このことが後に第2の問題となるのだが…。

 丹那トンネルを抜け、沼津に到着した頃から落ち着いたのか少々便意を催した。しかし、前述の通りこの電車にはトイレがない。時刻表を見ても浜松までの間長時間停車する駅は1つもない。我慢できないほどではなかったが、気が遠くなるのと同時にトイレ無しの電車を平気で運用しているJR東海に対して怒りがだんだん込み上げてきた。でも、ここで怒ったからといってトイレが出てくるわけはないので耐え忍ぶことにした。おかげで三保ノ松原も、茶畑もゆっくりと見ることはできなかった。我慢すること約2時間半、やっと浜松に到着した。

 浜松から3分の接続で大垣行きの普通列車があったのだが、覗いてみるとまたトイレのない編成だった。「JR東海は何を考えているのだ 」と怒りながらこの電車を諦めてトイレ休憩をとることにした。でも、予定より1本早い電車で移動していたので、この休憩で予定通りの電車に乗ることになったのだった。トイレを済ませて富士からの豊橋行きに乗った。この電車はオールロングシートだったので浜名湖の雄大な景色をよく見ることはできなかったが、少し見えた浜名湖大橋はいつ見ても雄大だ。

 豊橋からは新快速に名古屋まで乗った。いつもこの付近を通過するときは米原まで行く関係もあって快速しか乗ったことがなかったが、初めて乗った新快速はとっても速かった。しかし、大阪の新快速に比べて少々物足りない気がした。

 名古屋で鳥羽行きの『快速みえ』に乗り換えた。新快速で行くと名古屋での接続は僅か5分にも満たないので予め指定券を確保しておいた。でも、実際乗ってみると指定席は僅かしか埋まっていなくて、自由席も比較的空いていた。ちょっと悔しいなあと思っているうちに『快速みえ』は静かに名古屋駅を出発した。途中で交換待ちや信号停止などで何回も動いたり止まったりを繰り返しながら関西本線を下っていき、いつのまにか三重県に入り最初の停車駅、桑名に到着した。桑名を過ぎると複線が中心となり、段々とスピードが上がってきた。四日市を過ぎ、河原田から伊勢鉄道に入るとまるで水を得た魚の如く猛スピードで走り出した。伊勢鉄道に入ってすぐに鈴鹿に停車した。鈴鹿と言えば鈴鹿サーキットが有名であるが、こちらの最寄り駅は少し先の鈴鹿サーキット稲生である。快速みえも鈴鹿8耐やF1の時は停車するが、普段は通過する。この駅を通過する際、今は亡きアイルトン・セナを始め、アラン・プロストジャン・アレジゲルハルト・ベルガーミヒャエル・シューマッハデーモン・ヒルジャック・ヴィルヌーヴ中嶋悟片山右京加藤紀子(?!)など鈴鹿サーキットを駆け抜けていった様々な人を思い浮かべた。それにしてもものすごいスピードで快速みえは走っている。まるでシューマッハかヴィルヌーヴが運転しているのではないかと思えるくらいの猛スピードで伊勢鉄道を抜けて津に到着した。津からは牛と商人で有名な松阪、紀勢本線と参宮線の分岐駅の多気に停車して伊勢市に到着した。実は私、伊勢市駅に誰か迎えに来ていないか密かに期待していたのだが、改札を抜けて降りてみると…誰もいない!せっかくボケまで考えていたのに…。おまけに旅行案内には電話番号は載っていても住所や地図は載っていない(団体行動が基本だからそりゃあ当然だが…)。ニッチモサッチモ行かなくなって駅前をうろついているとタクシーの運ちゃんに話しかけられて宿の場所を教えてほしいと訪ねると本当にすぐ近くだった。早速宿に行くが、確かに福島大学旅行同好会のメンバーはチェックインしたが、出掛けたっきりまだ帰ってきていないとのこと。取り敢えず部屋に上げてもらい、待たせてもらうことに。私よりもさらに後に着くみゆきさんを除くみんなが帰ってきたのは30分後のことだった。『快速みえ』に閉じ込められた方々は本当にご苦労さんな事で、もとから遅れて到着する予定の私のピッチや参加しない忠のベルにまで「遅れるから先に行ってていいよ」というメッセージを入れていらっしゃったのでその混乱ぶりと焦りようが手に取るようにわかっておもしろかった。その晩は食事の後、お約束の飲み会となったのだが、忠とWちゃんがいないので通夜の後のような静けさだった。

 

※ここでは一寸『旅行記』っぽいものを載せます。

 翌日、みんなで参宮線に乗り鳥羽に行った。目的地はミキモト真珠島と二見シーパラダイスで、その晩は二見浦の宿に泊まる予定であった。この日のことは誰かが書いてくれるはずなので省略するが、鳥羽は鳥羽一郎と山川豊が一本釣り漁船に乗って現れそうな街並だった(どんな街並や?)。ここでは二見シーパラダイスに行かずにみゆきさんと行った伊勢神宮巡りについて書きたいと思う。

 鳥羽駅で他のメンバーと別れ、みゆきさんと一緒に近鉄に乗って伊勢市に戻った。駅のコインロッカーに荷物を預け、まずは徒歩で外宮に行った。私の知っている神社仏閣は江戸時代以降の建築様式のものが殆どだが、この伊勢神宮は次に行った内宮とともに古代の雰囲気をそのまま伝える建物ばかりでなんだかタイムスリップした気分だった。さらにここは皇族や政府要人も訪れることもある神社なので警備員ではなく警察官が境内の警備にあたっていた。

 外宮を後にして次はバスで内宮に移動した。門前町『おかげ横町』にある寳来亭で松阪牛を使った牛丼のセットを食べたあと、内宮を参拝した。内宮は外宮に比べて庶民的な感じがしたが、やはり荘厳な雰囲気は変わらない。さらにここには天皇しか参拝できない拝殿があるということで立入可能な場所から覗いてみたが、それはそれは言葉には表わせないほど質素ながら荘厳な建物だった。参拝者休憩所でお茶を飲んだ後、おかげ横町を通って猿田彦神社近くのお伊勢参り資料館に行くことにしたが、途中で私のリクエストで赤福本店に寄ることにした。

 本店でお茶を飲みながらできたての赤福を食べているとみゆきさんが「食べている姿を写真にとってあげる」とおっしゃるのでリュックに入れたはずのカメラを取り出そうとしたが、ない!ひょっとしたら参拝者休憩所に忘れてきたのではと思い、

慌てて走って戻った。休憩所は閉まっていたが、お札販売所が開いていたので「カメラ忘れちゃったんですけど…」と尋ねたら、あった。父親のお気に入りのカメラを借りてきたのでなくしたらえらいことだったから嬉しかった。伊勢神宮の神々に感謝しながら再び赤福本店に戻り残りの赤福を食べた。もちろん写真も撮ってもらった。赤福本店を出た後、お伊勢参り資料館に行く予定だったが、この一件で時間がなくなったことがわかりこの日の宿に向かうことにした。内宮から二見浦まで直行のバスがあるのだが、荷物を取りに行く関係で一旦伊勢市駅に戻りJRで二見浦に行くつもりだったが、列車がなくてどうしようかなどと話しているうちに伊勢市駅に到着した。トイレに行き、ついでに二見浦方面のバスの時間を調べたら、あと5分でバスが出ることがわかり、慌てて荷物を取りに行き、みゆきさんに知らせてバス停まで走ったら、なんとか間に合った。バスに間に合ったはいいが、宿までどう行ったらいいかわからない。たまたま私の持っていたガイドブックに地図が載っていたが、どうもよくわからない。そこでみゆきさんは携帯電話で(※伊勢・志摩でピッチは一切使用不能だった)某Tさんに道を尋ねたようだが、どうもよくわからない。しかし、たまたま乗り合わせたおばさんが親切にも道を教えて下さったので感謝しつつ言われた通りの道を進んで行ったら、あった。しかも想像よりも立派な旅館だった。同志社大学の某サークルと同宿というおまけまでついた。この辺のことについてもきっと誰かが書いてくれるはずなのでここでは省略するが、晩御飯が2日連続で同じようなメニューだったのは文句はないが2日連続で『柚子ってる』ものがなかったのは残念だった。

 

3回目…3月13日(木曜日)    −Jスルー

 【二見浦−津//河原田−四日市−亀山−加茂−奈良−郡山−弁天町−新今宮

               −JR難波−京橋−尼崎−神戸−米原−名古屋−】

 追いコン旅行の最終日、とは言ってもただ宿を出るだけである。岩下志麻のポスターが強烈な志摩スペイン村に行く田口さん、みゆきさん、及川、大槻を見送った後、松本さん、私、K君、祐介、和美、旅行係Kの6人は二見浦駅から快速みえに乗った。紀伊半島を一周するK君は松阪で、伊勢鉄道の運賃を払うのを極端に嫌っていた旅行係のKは津で下車した。そして私は亀山方面の普通列車の接続や関西本線完乗を果たす関係で四日市で関西本線普通列車に乗り換えた。この亀山行きの普通列車にもトイレがなかった。JR東海の愚行に頭に来ながら亀山に到着した。

 亀山からはJR西日本に入るのだが加茂までは非電化で、ワンマンカーの登場となる。西日本のワンマンカーはレールバスをそのまんま使っているので格好は悪いが、パワーはあった。しかしJR東海の普通列車同様トイレがない。この車両は関西本線のみならず山陰や北陸のローカル線に次々と導入されているので、こちらを旅する人たちには堪らないだろう。亀山を出た列車は、急にローカル色を増した伊賀路を僅か1両に満員の人を乗せて鈴鹿の急勾配や伊賀忍者の里であり東北にも縁のある松尾芭蕉生誕の地でもある伊賀上野、春になれば桜が美しい笠置山を通り抜け終点加茂に到着した。

 加茂からは大阪行きの大和路快速に乗り換えた。接続時間は僅か2分だったにも関わらず、ホームが隣だったのですぐに乗り換える事が出来た。この電車は新快速と同じ電車が使われているのでとても快適だった。奈良を出て次は郡山に着くのだが、当然東北・山形・秋田新幹線や磐越東線、磐越西線、水郡線の乗り換えの案内はなかった。ただ、こちらの郡山駅は最近橋上駅になったとかでお祝いをしていた。この辺りからは山奥から大阪のベッドタウンという感じが強くなってきた。王寺から天王寺までのノンストップの後、大阪環状線に入った。三重から奈良経由で大阪に入るとどうも近畿地方に入った気がしない。大正では今年できたばかりの大阪ドームがよく見えた。弁天町で下車して数年前にリニューアルされた交通科学博物館に行った。交通科学博物館は昭和40年代前半そのままだった内装と比べてとても近代的になっていた。思わず童心に返って模型の運転やシミュレーションを楽しんでしまった。

 弁天町からJR難波に行こうと環状線に乗ったら、車内放送の声が女の人の声だった。JR西日本は進んでいるなあと思いながら今宮で降りて、どんな人かなあと電車を見送ったら女性車掌の姿はなかった。果たして甲高い声の男性車掌だったのかどうかは今もって謎である。今宮からは大和路線に乗ってJR難波に行った。これで名古屋〜JR難波間の関西本線(加茂〜JR難波間は大和路線)完乗を果たした。JR難波が昔湊町と名乗っていた頃、確か地上の行止り式の駅だったような気がするが、今回行ってみると地下駅になっていて、更に線路が伸びているような感じの作りだった。

 JR難波から天王寺に引き返し、何故か西九条回り(即ち来た道)を戻り福島〜大阪経由で京橋まで乗った。福島では阪神電車の乗り換えの案内はあったが、郡山同様新幹線と山形線、福島交通飯坂線に阿武隈急行線の乗換案内は無かった(←シツコイヨ)。京橋からは3月8日に開業したばかりのJR東西線に乗った。JR東西線は計画段階では『片福連絡線』と呼ばれていた線でその名の通り片町線(学研都市線)と福知山線(JR宝塚線)を直結する線である。開業後は学研都市線と尼崎からJR宝塚線、JR神戸線(東海道・山陽緩行線)が相互乗り入れしている。私はJR宝塚線直通快速新三田行きを見送り、1本後のJR神戸線直通西明石行きに乗った。

 JR東西線は京橋を出るとすぐに地下に潜り尼崎の前まで地下を走る。まだ新しい線だからだろうか、夕方だったにも関わらず乗客は少なかった。駅はとってもきれいで気持ちが良かった。途中下車しなかったので分からなかったが、駅は全て自動改札になっているらしい。酒井美紀の『Jスルー』のポスターが至るところに張り出されていた。来年度には首都圏や名古屋圏と同様に大阪圏(アーバンネットワーク)も全て自動改札になる予定らしい。ちょっと寂しい様な気がしながら尼崎を過ぎた。そのままこの電車に乗って神戸に行った。

 1年3ヶ月ぶりに訪れたハーバーランドは奇麗になっていた。液状化現象で波打っていた歩道や道路はすっかりたいらになり、傾いて立入禁止になっていた神戸市児童相談所も復旧して明かりが灯っていた。しかしモザイクは相変わらずカップルどもで溢れかえっていた。モザイクをしばらくぶらぶらして時間を潰した後、地下街で夕食を食べ、駅構内の淡路屋で翌朝の朝食にするすき焼き弁当を買って1時間ほどで新快速長浜行きに乗って神戸を後にした。

 新快速は夕方のラッシュで非常に混んでいたが、運良く三ノ宮で座ることができたので良かった。段々と夕闇迫る阪神間を新快速は猛スピードで駆け抜けていく。昔よりも停車駅が増えてやや不満だが、それでも西日本の新快速はすごい。あっという間に大阪を過ぎ、京都を過ぎ、滋賀に入り、米原に到着した。ここで次の快速まで時間があったのでピッチで忠や田口さんと話した。田口さんには事務的な連絡だったが、ちょうど名古屋からの夜行バスに乗る前にうまく捕まって良かったと思う。やがて降りたホームに入線してきた快速豊橋行きに乗り、名古屋に行った。

 

4回目その1 …3月14日(金曜日) −Moonlight Serenade−

 【ムーンライトながら(名古屋〜東京)】

 名古屋では『ムーンライトながら』が来るまで相当時間があったのでコンビニを探して買い物でもしようかと思ったが、無い。再び一人孤独に枕を濡らしていると思われる忠に電話をしてやった。しかしピッチの電波の状況がとても悪く、電波が跡絶えて何度も話の腰を折られた。忠の相手をしてやった後、キオスクで実家へのお土産を買って再びホームに戻ると体調を崩して新幹線&スーパーひたちでいわきに戻ったはずの祐介の姿が見えた。「幻覚か?」私は一瞬弱気になったが、幻覚ではなさそうだ(※一部O槻君の文章を無断転載)。祐介に「どうしたの?」と訪ねると「急に体調が良くなりました」とのたまう。お互いの1日の行動を話した後、私は缶コーヒーを買って自分の乗る乗り場に並んだ。

 やがて『ムーンライトながら』が現れた。私は熱海から自由席になる8号車に乗った。隣はビジネスマン風の男性だ。東京まで出張かなあと思いきや、岡崎でおりた。この電車はホームライナー的役割も果たしているようだ。名古屋発車時点で満席だった座席も豊橋出発時点では空席が目立っていた。私のとなりの席もそのまま空席になった。ここからは浜松、静岡、富士、沼津、熱海、小田原、大船…と停車駅が少なくなる。豊橋を出て車内放送が横浜まで中断になったが、かつての大垣夜行のように照明が暗くならない。車内検札に来た車掌に「暗くならないんですか」と苦情を言ったが車掌は「防犯上問題があるのでは、と苦情があったから申し訳ないけど暗くできないんですよ」と『18きっぷ』に翌日の日付を書きながら申し訳なさそうに言った。確かに理解はできるが、照明が明るすぎて眠れなかった。静岡でばばあが「ここ開いてる?」などと空席になっていた私のとなりに座りそうになったので適当に返事していると「金払えばどこでも座れるのに」などと捨て台詞を残して別の席を漁りに行った。ばばあ1匹撃退した。夜中に車掌が検札に来るわけはないのであわよくばただで指定席に座ろうとしたばばあに対して当然の処置である。でも若い女性だったらどう反応したか分からない…。私はその後、ビジネスマンが残した新聞を隣の席において誰も座れないようにした。やがて熱海に到着して自由席になると、思ったよりたくさんの人が乗ってきた。私も断る理由が無くなったので新聞をどけると隣におじさんが座った。その一方でちょっと恐いおじさん達が座れなくてデッキで文句を言っていた。さらに海坊主みたいな男が隣の席に荷物をおいて寝ていた少年をたたき起こして因縁をつけてその席に座った。私はいつ彼らが切れるか冷や冷やしていたが、何事もなくほっとした。やがて品川を過ぎた頃、祐介がやってきた。急いで荷物をまとめて空いている席に2人で座った。そして4時42分に東京駅に到着するや否や2人は2分接続の山手線に乗るべく3番ホームに向かって走った。

 

 4回目その2…3月14日(金曜日)  −加藤紀子が…−

 【→東京−上野−高崎−小諸−小淵沢−猿橋−豊田−中野//(地下鉄東西線経由)西船橋−津田沼】

 東京駅では2人とも全速力で3番線目掛けて走った。しかし私は残り階段1段で力尽き、倒れた。私は「俺はもう駄目だ!」と言うと、祐介は「あっ、そうですか」と言ってさっさと行ってしまった、と言うのは嘘だが、つまづいて転んだのは本当だ。とっても恥ずかしかったのと同時に自分の体力の限界を感じてしまった。

 結局山手線には余裕で間に合い、上野に到着した。山手線のホームでいわきに帰る祐介と別れて私は5時13分発の高崎行き普通電車に乗り換えた。

 大宮からはいつも乗り慣れた宇都宮線と別れて高崎線に入った。窓からJR大宮工場が見えたが通勤型電車が廃車になって解体途中の姿で留置されている姿が痛々しかった。高崎線沿線は宇都宮線に比べて田畑が多くて開発の余地がまだまだありそうだ。そんなことを思っているうちに熊谷を過ぎた。熊谷には結婚したいとこが住んでいるが、元気で暮らしているだろうか。そんなことはどうでもいいが、なんだか異様にスキー板を持ったグループが多い。嫌な予感がしたが、高崎で上越線とも接続しているのを思い出して安心する。そうこうしているうちに高崎に到着した。

 高崎からは碓氷峠を越える1日7本のうちの始発の長野行きに乗った。コンコースに出て長野行きの出るホームに行くと予想以上にたくさんの人が並んでいる。そこにはスキー板やスノボを抱えた奴らもたくさんいた。でも列の前のほうに並んでいたので何とかいい席を確保した。ボックスシートに身を沈め、だんだん山並みが迫ってくる風景を眺めながら…何も感じていなかった。とにかく『ムーンライトながら』で一睡もできなかったため、とても眠くて頭がぼーっとしていた。でも、なんとか我慢しているうちに横川に到着した。

 横川では碓氷峠を越えるため後ろに電気機関車2両を連結した。その時はホームに数人のカメラを持った鉄が降りて写真を撮っていた。私は釜飯を探してホームを彷徨ったが、釜飯屋の姿が見当たらなかったので仕方なくカメラを持って電気機関車を写真に納めた(私は鉄ではない!)。時間になったので再び電車に乗った。この区間は機関車が押し上げる形になるのだが、まったくショック無く横川駅を発車した。発車してすぐ見えた横川運転所にはイベント用に茶色に塗られた電気機関車が2両停車していた。ただ辺りには機関車の力強いモーターの音が響いているだけである。その力強さは急勾配に差しかかっても変わらなかった。車窓には険しい山や谷が見えてきた、と同時に線路ぎわでカメラを構える鉄も2人ほどいた。2人とも車で乗り付けていたのだが、ナンバーを見ると山形と品川だった。車内でも若干1名鉄がいて線路沿いに信号所や変電所の跡が見えたり対行列車がやってくる度に窓を開けて写真を撮っていた(私じゃないってば!)。相席のおばあさんに迷惑じゃないのと思いながら見ていた。でもこの日見た限りではマナーやモラルに反する行動をしていたのは特にいなかった。これで碓氷峠も見納めだなあと思いながらいくつものトンネルをくぐり、碓氷峠を廃止に追い込んだ北陸新幹線の線路を左に見ながら軽井沢に到着した。軽井沢では鉄と思しき人やスキーヤーが大挙して降りた。これで車内はとても静かになった。私は本当は長野まで行き、レンタカーを借りてドライブでもしようかなあと思っていたのだが、時間と予算の関係で断念して小諸から小海線に乗って中央線経由で実家に戻ることにした。

 軽井沢を出てから車窓の右側には雪をかぶった浅間山がとても良く見えた。おばさんたち数人がドアの所に立って浅間山の写真を撮っているとちょうど車掌がやってきておばさんたちに「このカーブを曲がり切ったらもっと良く見えますよ」などとよく見えるポイントに近づく度に教えていた。この車掌さんはとても親切でサービス精神旺盛な人なんだなあと思った。小海線に乗り換えるため、小諸でこの電車を降りた。

 小諸では約10分の接続で小海線小淵沢行きが発車した。3日連続でJR3社の新型気動車の乗り比べをしたことになったが、JR東日本の気動車が一番加速や変速の時のショックが大きかった。しかし、ワンマン用気動車であるにもかかわらずトイレが付いているのが良いと思う。小海線に乗った途端、1年3ヶ月前と同じように急に睡魔に襲われ、清里まで寝たり起きたりを繰り返していた。途中で記憶があるのは中込と小海、それになぜか海尻と信濃川上のみである。北陸新幹線との立体交差やJR最高地点も記憶が無い。さて、この列車は中込からワンマンカーになったのだが、何故か運転士以外にももう1人乗っていた。この小海線の時は小淵沢に荷物を運ぶための人だったが、後日東北本線のワンマンカーに乗ったときは運転士が2人乗っていてそのうちの1人が無人駅での切符の回収や乗客への案内をしていた。更に昔乗った水郡線では途中からだったが車掌が乗ってきてワンマンカーなのに車内精算をしていた事もあった。

 話がだいぶ脇道にそれてしまったが、話を元に戻そう。11時前に小淵沢に到着した後、少々早い昼飯を食べる事にする予定で、立ち食いそばやでほうとうでも食べようと思っていたが、何を血迷ったのか駅弁を買ってしまった。御飯は冷たく、おまけにレモンの種をサラダの具と間違って食べてしまい、とても最悪だった。

 小淵沢で甲府行きを見送って小淵沢始発の八王子行きに乗った。電車は6両編成で、車内はとても空いていてのどかな雰囲気だった。車窓には信越本線とは違って甲府盆地と遠くに見える山や裾野の扇状地などが広がっていた。甲府で特急の通過待ちをしている間にMD用の乾電池やジュースを購入した。甲府を出るとぶどう畑が見られるようになり、扇状地も目の前に迫ってきた。そんな景色を眺めながら音楽を聴き、ジュースを飲みながら今までの長い旅を思い出していた。電車はあっという間に甲府盆地を抜け、笹子トンネルを通って大月盆地へと入った。大月を出て次の猿橋駅の看板を見ていると急に猿橋とはどういうものなのか見たくなって降りたくなった。しかしすっかりくつろいでいた体制だったのですぐには降りることが出来なかった。その後も降りるべきか暫く迷っているうちに四方津まで来てしまい、そこでやっと引き返す決心がついて下り電車で猿橋に引き返した。猿橋で途中下車する予定はまったく無かったので資料や地図の類はまったく持ってなく、取り敢えずバスで猿橋に移動することにした。

 猿橋とは日本三大奇橋の1つで、その特異な構造が桂川の渓谷とあいまって美しいとなんかの本で読んだことがある。それ故かなりの期待をしていたのだが、実際に見てみると大したことはなかった。グラビアではとっても奇麗でセクシーな加藤紀子を好きになってアルタで本物を見てみたら(美しさは変わらないが)理想と現実のギャップのあまりの大きさに「騙された!」と叫ぶ人の気持ちがよくわかった

様な気がする。帰りは歩いて猿橋駅に戻り、やってきた電車に豊田まで乗り、さらに三鷹から営団地下鉄東西線経由津田沼行きに乗り、実家に歩いて戻った。

 

 5?回目…3月18日(火曜日)   −福島に戻る−

 【津田沼−秋葉原−上野−宇都宮−黒磯−郡山−金谷川】

 これまた書く予定は無かったが、少しばかり変わったことがあったので書いておく。

今までの旅行で残り1回分となった『18きっぷ』を使い切るため、実家に戻るときよりも多くなった荷物を抱えて津田沼駅に送ってもらい、有人改札を通り抜けようとしたときだ。普段と同じように駅員に『18きっぷ』を渡し、はんこを押してもらおうとした。駅員は「今回は…回目」などと確認しながら押していたようだが、返してもらったきっぷを見ると4回目に『ムーンライトながら』で車掌が手書きで記入した日付の上に思いっきり重ねてはんこを押していた。1回分得をしたと喜ぶこともできるが、その得をした分を使って後でトラブルになったら厄介なので使わないことにする。 上野から『快速ラビット』に乗り、宇都宮まで行った。途中小金井でなんと新型ジョイフルトレインを見てしまったのだ!確か名前は『華』だったような気がする。形は『宴』に似ているがより一層渋さが増したようだった。あんまり書くと『禁鉄』倫理委員会に怒られるのでここまでにしておく。実家を出たのが9時過ぎだったので福島に着いたのは15時過ぎだった。あまりの疲れから部屋に戻って暫く死んでいた…。

 

 .エピローグ         −真実(TRUTH)−

 サークル追いコン旅行を含む今回の『青春18きっぷ消化旅行』は、本当に楽しく、それでいて刺激的な旅行だった。ただ1つ悔いが残るとしたら、『HARMONY』やF1中継のオープニング曲『TRUTH』がある『F1 GRAND PRIX』などT−SQUAREのアルバムを収録したMDを持っていくのを忘れたことだった。折角鈴鹿で聴こうかと思ったのに…。仕方なく鈴鹿サーキットのある三重県鈴鹿市出身である加藤紀子の『TRUTH』で我慢した(これ本当の話…)。もうちょっと手に入れるのが早ければPUFFYの『サーキットの娘』も持っていきたかった。でもさすがに鳥羽一郎の『兄弟船』や古文でお馴染みの『伊勢物語』は持っていこうとは思わなかった…。

 今年は4年生ということで卒業と就職が懸かっているため、当分旅行に行くことが出来ない。今度旅行に行くときは両方が片づいてからということになるはずだが、すでに時刻表や『るるぶ』とにらめっこしている自分が非常に悲しい…。

              (終わり)

 

                作:行政社会学部応用社会学科4年 寺村 宏幸

 

※この話は基本的にノンフィクションですが、一部筆者の感情移入などが激しいため、作り話になっている部分があります。筆者の性格を想像しながら読んでみるときっとわかるでしょう。


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