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  8月17日(土)

家…川口−秋葉原−千葉−干潟=叔父宅=海(九十九里浜)=宅(泊)

 母と妹との3人で母の姉と母方の祖父母との家に遊びに行く。東京や錦糸町での乗り換えが面倒だと言うことで千葉まで“黄色い電車”で行かされる。叔父の家に行くと叔父の娘の娘(私の従姉の娘)が二人遊びに来ていた。その後、海に行って、その二人が水遊びをしていた。私は福島から水着を持っていくのを忘れていたので、波打ち際で水につかっていた。

 19時前ぐらいに子供らの夕飯が始まったのだが、“SーラーMーン”を見せないよと言って、必死にご飯を食べさせていた。やはり子どもにとって、“SーラーMーン”は特別な物らしい。

 8月18日(日)

宅=干潟−千葉−錦糸町−秋葉原−川口…家…川口−東京−(車中泊)−

 今日の夜には夜行に乗らなくてはならないので、10時頃叔父の家を出る。千葉までの電車は寝ていたような気がする(覚えていない)。千葉で総武線快速に乗り換えた(座れなかった気がする)。次は錦糸町というあたりで車窓から見ていたら、“黄色い電車”が見えたので錦糸町で走ってみる。まにあった。秋葉原での乗り換えもスムーズに行き、3時間弱で叔父の家から帰って来ることができた。昔は丸4時間掛かっていた気がする。

 家で身支度をしてのんびりテレビを見ていたら2230分を過ぎていた。2250分頃の京浜に乗れればいいやと思っていたのだが、53分のは行ってしまった。03分ぐらいの京浜に乗り、2330分頃東京駅に着いた。某副会長Kが待っていると言っていたので、悪いことをしたなと、チョッとだけ思ったが、“ムーンライトながら”の入線には間にあったので良しとしよう。

 6泊、うち車中泊4泊の旅は、“川口→680円区間”で始まった。

  8月19日(月)

−大垣−大阪…大阪中央〒他14…大阪−神戸…神戸中央〒他5…貿易センター+南公園…〒他1…北埠頭+三宮…元町−三ノ宮−大阪…天満−(天王寺)−大阪−(車中泊)−

 以前の“大垣夜行”と比べて席はガラガラだった。全席指定と言うこともあって途中の駅からも気軽に乗れるようになったからだろう。今じゃ夜行では当然の“リクライニングシート”だし。“ムーンライトえちご”よりも座り心地は良かった。東京を出てしばらくは、某副会長Kとも久しぶりに会ったので、1ヶ月間のことや明日の予定をお互い聞いたりしてすごしていた。

 あまり熟睡しきれなかったが、名古屋に着いた。臨時大垣夜行の方が先に大垣に着くので乗り換えた人もいたようだ。私らはあくまで“ムーンライトながら”完乗にこだわったのでそのまま乗っていた。大垣で、乗り換えたときは、そのせいか混んでいた。何とかボックスに二人掛けの女の子のとなりに空席を見つけた。彼女たちはヒマだから甲子園に行くそうだ。何処に住んでいるのかは知らないが、こんなところからヒマだからだけで行くもんだろうか、と考えてしまった。

 米原になり某副会長Kは長浜に行くと言うことで乗り換えた。私は何も考えていなかったが、とりあえず京都にでも行くかと思いながら眠りについた。だが京都が近づくとやはり荷物は大阪に置いておこうと思い大阪まで行くことにした。大阪で夜の乗車券と急行券とを購入して、荷物をロッカーにしまい、“街の探検”へと出かけた。

 大阪での変わった〒は、大阪関電ビル内だろうか。その名の通り関電ビル内にあるのだが、入るときに、「何処行くの」「郵便局に」「ここに書いて」と入り口にあるノートに「〒」と書かされたのだ。それと大阪市役所はかなり立派な建物であった。

 1230分過ぎに大阪駅で何か食べようと思ったのだが、新快速が45分にあったので、それで神戸へと向かった。仕方がないので、車内でビスケットを食べていた。

 神戸の駅から海岸線沿いに三宮まで歩くこととした。ハーバーランド内に〒があると言うことなので、行ってみた。この建物がいつ頃立てられたのか知らないが、かなり立派な建物に見えた。が、中央・海岸通と寄って行くと道の至る所に亀裂が入っていた。神戸港〒もまだ仮局舎での営業だった。しかし、神戸市役所はもう復旧していたし、所々で復旧しているようだ。

 神戸で驚いたのは、“神戸商工貿易ビル内〒”が普通〒だったことと、ポートアイランド内にある北埠頭駅前にあるローソンの中には自動販売機があったことである。

 神戸をあとにして、大阪で夕飯、入浴、そしてウィスキーの小瓶を買って、大阪駅に向かった。21時頃に、誰もいないと思っていたのに、ポッツーンと某旅行係Iがベンチに座っていた。

 その後某副会長Kと某4年生Oとも集まってきて、22時30分頃まで急行だいせんが来るのを待ち、乗り込んだ。指定券を取らないという暴挙に出たが、4人で2ブロック占領でき、心地よい眠りにつけた(ただ、某4年生Oは眠れなかったらしい)。

  8月20日(火)

−鳥取=砂丘東口…砂丘+砂丘センター=鳥取…鳥取中央〒…鳥取−米子…米子駅前〒…米子−松江…松江中央〒…宿(松江シティホテル)…松江白潟本町〒…松江城…小泉八雲記念館…武家屋敷…宿(泊)

 熟睡していたところをたたき起こされて、鳥取駅に着いた。やはり4時

10分着というのは暴挙だったか?タウンページでレストランを探すが24時間営業していそうな所はなかった。が、駅前にコンビニがあり待合室が開く5時まで時間をつぶす。5時からは待合室で3人で寝た(このあいだ某旅行係Iは乗りつぶしに行ってたらしい)。7時30分が過ぎそろそろ残りの人たちが来るだろうという時間になったが、彼らは朝食を食べる時間がないだろうということで、おにぎりとお茶とを買って待つこととした。

 7時50分過ぎに“出雲組”4人が着き、鳥取に泊まっていた某1年生Kとあわせて、9人でのサークル旅行が始まった。

 砂丘はホントに砂ばっか。でも砂だけの世界がこんなに面白いとは思わなかった。

 松江では、駅前の松江中央〒で用を済ませた後、みんなを追いかけたらすごい汗がでてきてたので、チェックインしてなおかつシャワーを浴び、そして着替えまでできてよかった。それと松江城の天守閣からの眺めは良かった(バカと煙は……って言うし)。

 宿に戻り、飯を食べに行き、その後0時頃まで話をしていた。

  8月21日(水)

宿…松江温泉+川跡+出雲大社前…大社神門簡易〒…出雲大社=日御碕=出雲大社…大社〒…大社荒木〒…旧大社駅…出雲大社前+川跡+電鉄出雲市…出雲駅前〒…宿(梅の家・泊)

 朝、一畑電鉄に乗るとき松江温泉駅の前で女性が倒れて頭から血を出していた。彼女は大丈夫だったのだろうか?

 出雲大社前駅でタクシーの運ちゃんにソバ屋を紹介される。怪しいとは思いながらも荷物を置かせてもらえると言うのでお世話になる。そこまでの道すがら大社神門簡易〒を見つける。ここでは7種類のゴム印があった。私は、7種類すべて押してもらった(¥100×7の入金)。

 日御碕の灯台からの眺めも良かった(やはりバカと煙は……)。ただ海の他には殆ど見るモノがなかった。

 大社に戻って先ほどのソバ屋で遅い昼食にする。私一人だけ“鶏ソバ”だったので、もしかしたら“野菜ラーメン”の再来かと恐れたが、そんなことはなかった。

 旧JR大社駅は、昔ながらの駅舎が残っていたのだが、線路の先には幅の広い道路が続いていて、少し寂しかった。

 電鉄出雲市駅に1550過ぎに着いたのだが、私は出雲駅前〒に突っ込んだ。しかしその後、皆とはぐれ焦ってしまった。ここの〒にもゴム印が何種類かあった。

 夜は結局、5時まで起きていた。

  8月22日(木)

宿…出雲市−浜田−益田−山口…山口中央〒…山口−小郡−下関−門司…(門司〒)…門司−博多…(博多〒)…博多−(車中泊)−

 前日の酒がたたり、朝になってもつらい。しかし今日からは一つの野望“博多ラーメン”を食べるために九州に上陸しなくてはならない。

 9人いて9人ともバラバラになってしまった帰路で、4人は先に帰っていた。私は某副会長K・某1年生I・某1年生K・某4年生Oとともに駅へと向かった。

 それぞれに予定していた時間が来て、列車に乗った。私は、山陰本線をずっと下る予定にしていた。しかし乗り込んでしばらくすると、二日酔いが気動車の振動により拡幅していった。だがこの気動車にはトイレはないので、自分をだましながら寝ることにした。

 途中浜田で乗り換えをした。その後時刻表を見直すと山口線経由でも博多着に大差無く、かつ山口駅で20分程度時間ができる事に気づく(山陰本線経由だとホントに乗り換え時間しかない)。元気なときであれば停車のたびにホームあるいは改札まで出るのだが、それもできないほど辛かったので、益田での乗り換え待ちが増えたのも嬉しかった。

 益田で購入したポカリスウェットが利いたのか、山口線に入ると幾分楽になったが、やはり寝ていた。益田からは高校生がいっぱい乗っていたが、途中のよくわからない駅で、殆どが降りていった。津和野の辺りでちょうど目が覚めた。家並みは同じような雰囲気で統一され、屋根瓦がピカピカ光っていた。垣間見ただけだったが、きれいな町並みだった。

 山口に着いた。制限時間20分、片道1Km.。荷物を改札前のベンチに邪魔にならないように積み重ね、走ることにした。駅前の道沿いにはいろいろな店が並んでいたが、古本屋が多くあった。寄りたかったが時間がない。700mぐらいいくと左側にスーパーらしき建物があった。川を越え左に曲がると、山口中央〒があった。人数待ちも無く10分かからずに事を終えることができた。その後裏道を通って駅に向かい、15分程度で帰ってくることができた。

 小郡までの電車は高校生が多かったが、車両も長かったため、それほど込んでいなかった。また、下関から門司に行く電車にも高校生が乗っていて、驚いた。もしそうなら、彼女たちは毎日海を越えて(くぐって?)学校に行ってるのだろうか。

 門司に着いた。初めての九州上陸である。が、門司はあまり見る時間がなかった。〒に寄りカードでお金をおろした。門司から快速列車で博多へと向かう。JR九州特有のカラフルな座席。通勤客。そんな雰囲気に包まれ、ホントに九州にいるのだが頭の中でパニックになっていた。

 博多に着き、ロッカーに荷物をしまい、街へでた。駅前の道をまっすぐに行くと“キャナルシティー”に着いた。ここは今年できたショッピングモールで、博多中心街の人の呼び戻しに効果があったそうである。建物は地上4階・地下2階程度で、ダイエーバンドール(残念ながら休店日だった)を核テナントとして作られている。そして何よりも通路に当たる部分は、最近の道を作るときに歩行者を飽きさせない作りとされているジグザグで、各階から地下1階の催し物(この日はパントマイムを演っていた)が見えるようになっている。この建物を見たとき、私は身震いがした。これはサンシャインよりもはるかにすごい建物だと思った(一つ難点があるとすれば、サンシャイン程多くの人が入れない点だろうか)。

 その後、しばらく迷ったがあるラーメン屋でラーメン定食を食べた。テーブルの上には“辛子たかな”が置いてあったので、おそるおそる食べた。しかしこれが、なかなかなもんで病みつきになった。

 その後いろいろと土産を買い、“ムーンライト九州”に乗った。ムーンライト九州はシュプール号用の車両ということで、更衣室が付いていた。夜行ではできるだけ身軽かつ風邪を引かない格好に着替えたいので、うれしかった。

 私は窓際だったのだが、こんな時隣が女の人にならないかなと思うのは男の常である。が、しかし現実になってみると(しかも若い!)こっちが恐縮して、暇さえあれば席を離れる私が窓際で小さくなっているしかなかった。そして知らないうちに熟睡していた。

  8月23日(金)

−京都…(京都中央〒)…京都−山科…京阪山科+蹴上…南禅寺…知恩院…京都月見町〒…清水寺…六波羅密寺…東山〒…七条京阪前?=京都−米原−岐阜…(岐阜中央〒)…岐阜−(車中泊)−

 気づいたらもうすぐ京都だった。着替えてから降りようと思ったのだがそんな時間は無かった。地下街のトイレで着替え、友人と待ち合わせをしている山科へ向かった。ホントは一度大津まで行くはずだったが時間が無くなってしまった。

 そこから京阪京津線に乗り蹴上に着いた。その後南禅寺・南禅院に寄り、知恩院にも寄った。知恩院から出るときに通った階段は100段程度あり、かつ急だった。

 その後、清水寺にいった。そこで“旅行お守り”というのを買ったのだが、“TRAVEL”と書いたデザインがとてもナイスだった。そして、初めて“凶”のおみくじを引いた(ワーイ!!)。

 六波羅密寺は空也上人立像と平清盛坐像があるところで、私はこれらにみいってしまった。空也上人立像には3分位見入ってたし、平清盛坐像には5分くらい見入ってたかもしれない。清盛の目が本物のように見え、ものすごい形相でにらみ、今にも襲いかかってきそうだった。方広寺にも行きたかったが、時間が無くあきらめた。

 その後、岐阜へ行き味噌カツを食べた。

 23時過ぎに岐阜駅に着き、ホームで臨時東京夜行を見ていると、おじさんが一人、停車時間中にジュースを買ってて乗り遅れてしまった。その後ムーンライトながらに小さくなって乗っていた(時刻表を見ると名古屋で追いついていたが……)。

  8月24日(土)

−東京−大宮−南浦和−東浦和−南浦和−川口…家…川口−浦和−黒磯−福島…家

 上りのムーンライトながらでは、岐阜から乗ったせいか、検札が遅かった。私がもう来ないだろうと思って、ぐっすりと眠りに入っているときに検札が来た。隣の友人に起こされ、切符を見せた途端、また寝てしまった。

 気づいたらもう東京で、そのあと京浜東北線で大宮まで寝てから家路についた。

 家に帰ってからは、とりあえず寝て、昼頃に博多土産の明太子でご飯を食べた。本来ならここで一泊してから帰るのだろうが、18切符が無くなったのと、月曜日から集中があるので日曜日にグダグダするために、福島着21:31となる乗り換え経路で福島へと向かった。

     《文責:行政社会学部3年  高田 忠》


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