このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

涙の利尻島

      ───この出来事は、'95サークル夏旅行の最終日、

                                8月25日(金)のことである。

 前日、利尻島での観光を終え、夜も夜とで、懲りずに騒いで、でも朝はバスの都合で早起きと、いかにもサークル旅行らしい日程を終え、朝、雨の中フェリーターミナルでそれぞれ土産物を買ったあとである。9:10頃稚内発のフェリーが入船し、9:30頃我々は乗船した。

 荷物を二等船室に置いたあと、私はデッキに上がった。「埼玉の女はたいてい『海を見に行こう』で落ちる」という神話が神奈川にあるという(by Bバージンtake6)。そう、私にも海は特別なものらしい。

 船尾からぼうーっと海を見ていた。すると、ふと、“かけ声”らしいものが聞こえたかと思うと“歌声”に変わった。おもしろうそうだったので、野次馬根性丸出しで見に行くと“利尻の観光歌”のような歌を歌っていた。某旅行係が「旅館の人の見送りかな。それにしても盛大だな」と行っていたので「そうだなぁ」と思いながら見ていた。あまり憶えていないが、──あれが一緒の時を過ごした姫沼──のような歌詞があり、──利尻(セイ)利尻(セイ)──と合いの手が入り──男が燃える──だの──女も燃える──だのという歌詞だった。この曲が終わったあとで、ギターを持った人が遅れて港にやってきた。

 次が、確か『落陽』(吉田拓郎)だった。昔、私もよく歌った曲だ。──苫小牧発仙台行フェリー──のところが──鴛泊発稚内行フェリー──になっていたのは面白いと思った。このあとも2〜3曲続いたと思うが、曲名を忘れた。

 そして、最後の曲は『心の旅』(チューリップ)だった。──あぁ、だから今夜だけは 君を抱いていたい あぁ、明日の今頃は 僕は船の中──もうこの頃の僕には歌詞を変えて歌うことには動じなかった。

 しかし、この歌の時にその場の空気が一転してきたのである。同様に野次馬根性丸出しで見ていた集団(某旅行同好会の人たちのみ)の人たち数人もこの頃はただ歌を歌っているだけかと言うようになり、あまり見なくなっていて、真剣に見ていたのは私と某OB連絡係だけだったと思う。この歌は乗船がほとんど終わった9:50頃に歌っていたと思う。最後の──ラ……──の部分がやたら何度も繰り返されていたと思った。というより、なにかをごまかすために声が大きくなってきたのだと思う。

 歌の終わり近くに船は動きだし、歌い終わると見送りの人5人くらいが均等に横に並んで「いってらっしゃい」と大声を出した。「いってきます」。デッキの下の通路の7人くらいが大声を出す。「いってらっしゃい」「いってきます」「いつ帰って来るの」「9月1日(正確には、船の汽笛で聞こえなかったが、私はこう言ったと思っている)」「元気でね」「いってきます」……。このやりとりが何度となく繰り返された。この時見てて気づいたのが言葉が変わるときも「セーノ」しか言っていないのだ。そう、これはただの旅館の見送りではなかったらしい。おそらく、中学校の同級生だと思われる。

 利尻島は周囲5060km程度で人口1万人余り。しかも高齢者人口比率が高く人口は激減している。小学校は約10校あるが、全校で10人程度だと言っていた。つまり、3歳から15歳くらいまでの12年間、あるいはそれ以上を共に過ごすのだ。それも普通のサークルよりも少人数で……。そうした状況で絆が強くならないわけはないだろう。

 そして、場所は利尻島である。私たちも同様に行動したからわかると思うが、朝9:50のフェリーで稚内に着くのは11:30。稚内駅より急行が出るのだが、12:56で、札幌に着くのが18:47である。利尻島から札幌に出るのでも丸1日かかるのである。つまり我々のようにあまり気軽に実家に帰ることもできないのである。

 また、彼らも子供の頃は札幌や東京などで働くことが夢だったのではないだろうか。単純にモノがあふれている場所への憧れ。また、金銭的にも裕福な生活への憧れ。しかし、大きくなっていくと家の都合で島を離れられない人、逆に家の都合で島を離れなくてはならない人、いろいろな人が出てくるだろう。そして、島に残った人々にとってはいつまでも島のこと、自分たちのことを忘れてほしくないと思うだろう。

 これらさまざまや要素が絡まると何気ない別れも特別なものになると思う。なんと言っても普段ドラマや映画を見ても泣かない(涙を流さない)私が泣いたのである。これには自分でも驚いた。

 この感動をしばらく味わって船室にこのことを伝えようとすると、某会長は、「いいでしょ、オレンジカード買ったんだー」。また、某副会長は「ねぇねぇ、スタンプあったよ。押さないのー」。

 私は素晴らしい人に囲まれていると思った……。

おまけ

 帰りの急行サロベツの車内で、彼らとおぼしき集団がいた。途中でひまだったため、1号車(私は2号車だった)にいる某前会長・某前副会長の様子を見に行った。そのときは2人とも寝ていたので仕方なくそのまま戻った。その時ちょうど「和寒(わっさむ)」に着いていた(駅の表示盤が平仮名でなかったら読めなかった)。デッキを歩いていたら「ここはどこですか」とその集団の女の子の一人が言った。「和寒です」と言うや否や「降ります」。もうかなり時間が経っていたので扉がが閉まるのも時間の問題だったため私は急いで扉に挟まった。2、3度背中が押されたが、無事降りることができた。私はこの一瞬、彼らと知り合いになれた気がした。

《注意》この文章は事実に筆者独自の解釈を加え

    感動38%で書き下ろされたものです。

──☆──★──☆──★──☆──★──☆──★──☆──★──☆──

《筆者より》

 この文章は『PLATFORM vol.12』(1996.5.15発行)に掲載された文章をそのまま載せたものです。人名等は当時の役職により書かれています(従って旅行係はcomet君ではありません)。また、文章も読みづらいですが、そのまま書きました(それにしても、ひっでぇ日本語ばっか)。


文責:高田忠 プラットフォーム11号所蔵
旅行記コレクションへ戻る


Thanks to Visiting  あなたは

人目のお客様です。

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください