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TopページMenuページエッセイの星赤い風車  メッセージコーナー   Musicby[ S.Shikaya ]

雑・音楽回想録①  

赤 い 風 車

—プロフェッショナルな心— 

 心の琴線に触れる音楽は人様々に固有であり、その人の一生忘れ得ぬものとして付き纏う。 あるひとはそれが、モーツアルトであったり、又ある人はジャズであったり、ビートルズであったりという具合で、生まれて間無しに聴く子守唄や学校でおぼえる小学唱歌がそうだという人はあまりいない。 概ね感受性の高い青少年時代に出会った音楽の中のある曲に支配される。私の場合それは、映画音楽である。 愛聴する音楽は歳を経ると共にスタンダードジャズに傾斜していったが、青春時代にラジオなどを通じて 聴きこんだ数々の映画音楽は今でも聴けば涙が流れるほど懐かしい。中でもこの一曲といえば 「ライムライト」に尽きる。高校時代、部活の放送室で出会った一枚のSPレコードが忘れ得ぬ曲となって 私の心に住み着いている。そのレコードは学校の備品ではなかった。 部員の一人であるN君が兄上のライブラリーから持ち出してきたものだったと記憶している。 その曲がC・チャプリンの名作「ライムライト」のテーマであることも、チャプリン自らの作曲であることも、 ずっと後になってから知った。
 サラリーマン時代に知遇を得たM製作所のI.Iさんは、無類のシャンソン・カンツォーネ好きで、東京での単身勤務時代ならともかく、滋賀の事業所へ転勤になった後も定年を迎えて郷里の京都に落ち着いてからも、 しばしばシャンソンやカンツォーネを聴きに上京して来る。その都度「ご一緒しませんか」とお誘いがかかる。 こちらは、この種の音楽に自ら進んでコンサートに出かけたりするほどの熱意は持ち合わせてはいないが、さりとて嫌いという訳ではない。我々の世代、ジャズもシャンソンもタンゴもハワイアンも、スクリーンミュ ージックも全部まとめて“軽音楽”だった。放送が始まって間も無い「民放」やFENにダイヤルを合わせて夢中でむさぼり聴いた。イヴ・モンタンや、イヴェット・ジローなどのシャンソンだって勿論懐かしい。そのI.Iさんに「パリ祭」だからと誘われて新宿の小さなライブハウス「ヴィラージュ」へ出かけたのはまだ梅雨の真最中、激しい雨の降る夜だった。30人ほどで一杯になる店内は中年男女で溢れんばかり。3人のいずれ 劣らぬ美人ヴォーカルの美声に時をわすれて酔いしれたのだが、I.Iさんお目当てのヴォーカリストC.M嬢が「かざぐるまの唄」 と紹介して、歌い出したのがこれまた忘れがたい曲「ムーランルージュ(赤い風車)」だった。 あの「ライムライト」のレコードの裏面に入っていた曲である。甘く情感溢れるM嬢の美声に耳を傾けな がら 私の頭の中には、ライムライトや、チャプリンや、放送部の部室の情景などが目まぐるしく交錯して駆け巡った。 ひょっとするとこの「ムーランルージュ」もチャプリンの曲なのかナ?…ふと思った疑問を、幕間のM嬢にぶっつ けてみると、「さあ、どうでしょう、調べておきましょう」とのこと。2ステージ、飲み放題で\6,500の「パリ祭」は身も心も酔わせて呉れる構構ご機嫌な夜であった。
 翌日、自宅の電子メールにC.M嬢から来店御礼のあいさつが入っていた。彼女は「ヴィラージュ」の専属歌手ではない。フリーの歌手である。だから当然、一人でも多くのファンが欲しい。そのために「今月の出演スケジュール」なる葉書をこまめに発信して来るし、聴きに来て呉れたお客にはこまめに礼状を出す。これがプロの芸人である。  Iさんと私が初めて彼女の唄を聴いたのは四谷の「ウナ・カンツォーネ」という店であった。以来毎月会社宛に葉書を貰っていたのだが、あまり熱心でないファンだった所為か、定年で退職したからか、途絶えてしまっていた。 彼女のメールは「ムーランルージュ」のことには触れてなかったが、質問をした事実を思い出すきっかけにはなった。手持ちのCDのなかにあるかもしれないと600枚強のアルバムをひっくり返して見ると、意外にもすぐに見つかった。かって、カスケード奏法という独特の美しいストリングスで一世を風靡したMantovani Orc.のアルバムに、あの「ライムライト」と共に入っていた。  添付のライナーノーツによると、仏の画家ロートレックの生涯を描いた1952年の英国映画「赤い風車」の主題歌で仏の作曲家ジュルジュ・オーリックの手になる曲とある。「そうか、チャプリンではなかったか」と半ばがっかりしつつ、なるほどチャプリンが名作「ライムライト」を撮ったのも1952年位だから私の高校時代(1955〜)に、同時代の映画音楽が一枚のレコードに組み合わされてリリースされていたんだ…などと改めて納得し、ついでに「赤い風車」という映画も観たくなってきた。そんな感想を含めて、C.M嬢に電子メールを書き送った。
Photo at Vilage
美人歌手M嬢と自称応援団 (新宿ヴィラージュ)

 現役サラリーマン時代なら、これしきのことに拘るなど考えられないのだが、定年後の「自由人」生活。他に急いでやらねばならぬ事もなし、当面の関心事はこれのみと言わんばかりである。「待てよ、ひょっとしたら、ビデオもあるんじゃないかナ」と今度は押し入れの中を家捜し。するとこれが又いとも簡単に見つかったのである。以前、NHK教育TVで「世界名画劇場」というのを放映していたのを片っ端から留守録して、観る暇も無く仕舞い込んでいたのである。さっそく、80インチのスクリーンを引き降ろし、プロジェクターのスイッチを入れる。あの旧い映画特有の震えるようなフィルムトーキーの音で、「ムーランルージュ」は幕を開けた。  意外にもこの作品は、モノクロではなくカラーであった。もっと驚いたのは監督が、あの巨匠J・ヒューストンであったこと。彼もチャプリンと同様、米国の「赤狩り」の犠牲者で英国に逃れて最初に撮ったのがこの作品というのも奇遇である。(チャプリンは「ライムライト」の英国上映にロンドンに向かう船上、米国からの追放を電報で通告されている。)  パリを舞台に名優ホセ・ファラー演じる画家ロートレックは地方貴族の嫡子に生まれながら、少年時代の事故が故に下肢が発育せぬまま成人する。乗馬や、狩などの貴族の生活に適応出来ず、絵画の世界に閉じ篭るが、やがて、何不自由の無い貴族の生活を捨てて、パリに出る。カンカン踊りで有名な「ムーランルージュ」という社交場でコニャック片手にダンサーや客の姿を素描し、孤高を持する。独特のデフォルメや風刺を込めたデッサンは、モデルには不人気であったが、店主に乞われて描いたポスターのお蔭で「ムーランルージュ」は大繁盛する。存命中にその作品をルーブル美術館が取上げるほどの評価を得た、ロートレックだったが、下肢不具であるが故のコンプレックスか、脱ぎ去りきれない貴族の衣の故か、時あたかも世紀末、貴族文化から大衆文化への大きな変革期の波に取り残されて、行きずりの娼婦との恋にも破れ、酒におぼれ、不幸な晩年を送る——。  なかなかに見ごたえのある作品であったが、セリフは何と英語である。英国映画だから当然とは言えあの愛国心旺盛で自国文化への思いこみも桁違いに強いフランスを題材にした作品で舞台は花のパリ、登場人物は全部フランス人でありながらのセリフが…である。これぞ、ジョン・ヒューストン監督のロートレック顔負けの風刺かと感じ入ったのである(たまたま、NHKが放映したフィルムが英語吹き替えヴァージョンであったのかも知れないが、真実のところは不明)。  肝心の主題歌は「ムーランルージュ」の舞台で一度だけ、恋に恋するといった風情の歌手が唄うシーンがある他は、プロローグとエピローグでその旋律が流れる程度。いわば挿入歌といった趣きである。字幕スーパーの訳詞によれば、「春がまた巡ってきた。セーヌの畔でまた、二人で語り会いたい…」といった他愛のないラブソングで、あまり感動的とは言いがたい。あの哀愁のあるメロディーの方が遥かに素晴らしい。 という訳でビデオを観終ってから改めて、マントヴァーニのCDを再び取り出して、C.M嬢の美声を思い浮かべながら、聴くことになった。マントヴァーニ楽団のような音楽ジャンルは今日では「ムード音楽」とか「イージーリスニング」とか称せられるが、代表作の「シャルメーヌ」や「太平洋」など何度聴いても新鮮で感動的である。そう言えば、放送部の部室にあった備品のレコードの一枚に「ユーモレスク」というのがあったが、そのレーベルには「Violin solo Mantovani」とあったのを記憶している。彼自身元々はヴァイオリンのソリストであったのである。勿論「ライムライト」を聴くのも忘れなかった。
 その夕再び、C.M嬢からのEメールが入っていた。前日こちらから発信したメールと行き違いに発信されたもので、『「かざぐるまの唄」の作曲は、Georges Auric, 作詞はJacques Larue, 1952年の作品です。』とあった。彼女は私の気まぐれな質問をしっかりと覚えていて、応えるのを忘れはしなかった。さすがプロフェショナルである。                             
  ('99.7.20)
 

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