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雑・音楽回想録② 

古 事 記  (上)


— マインドミュージックに蘇る古代神話 —


 日本のレコードショップではあまり見掛けないが、海外の店では、“New age Music”とか“Mind Music”というジャンルに分類されたレコードの一群がある。そしてその一群の中に必ず入っているのが『KITARO』のディスクである。我々中高年にとって、思い出深いテレビ番組のひとつ「シルクロード」は1980年から5年間も続いたドキュメンタリー番組であり、そのテーマ音楽はいまだに鮮烈な記憶に残っている。作曲演奏を担当したのが彼、喜多郎である。シンセサイザーという極めて現代的な電子楽器を使いながら、まるで天地創造の始めから存在し続けてきた自然界の音のように聴く人の心の扉を開く不思議な作品であった。風の音や虫の声、鳥のさえずり、川のせせらぎ等自然界に存在する音は雑多な音ではあるが美しく、心に優しく伝わる。それらには生命がある。誰の心にも染み透ってくる。学問的には“1/f ゆらぎ”といわれる周期性が不特定な性格の音であるのだが、そのランダム性が聴く人のα波を触発し、情感に心地よい刺激を及ぼす。喜多郎のサウンドには、このような自然の音と同じように、心で音を聴く境地へ誘う魅力がある。
 農村に生まれ育ち、自然界の荒々しさや優しさ、暖かさや冷酷さなどから受け取る感情をイマジネーションに反映させた彼の作品を欲したのは高度成長期の真っ只中にいた日本人より、むしろアメリカ人であった。ヴェトナム戦争の行き詰まりの頃から根を生やした反戦思想の担い手であるヒッピーやヤッピー達はドラッグへの逃避、ヘヴィメタルなど激しいリズムの音楽へ傾注する若者ばかりではなく、仏教や儒教など「心を癒す」思想やJ・ウィンストンやJ・ケージなどに代表される「マインド・ミュージック」を歓迎する知識人も数多く生まれた。 1985年に契約した「GEFIN RECORD」からリリースされた喜多郎の6枚のアルバムはそれまでのファンを魅了するだけでなく多くの新たなKitaro Funを育てることになった。住まいは富士山麓の古い農家で日々自然と対峙して暮らす喜多郎だが、その暮らしの中で生まれるイマジネーションを一つの作品に仕上げる仕事場は米国の西海岸の音楽スタジオに移っていくこととなる。1986年に「天空」を、’87には生命・死・復活を探求した「The Light of Spirit」を発表、これを皮切りに全米でのツアーコンサートを実施、米国での知名度を不動のものにするに至った。 米国人の目に映る喜多郎は、その姿からも、作品からも東洋の哲人であったろうと想像するに難くない。だが、多くのアメリカ人は「日本の文化即ち仏教文化」という認識である。現代では日本人でさえそう思いこんでいる人も少なくない。我々が学校教育で覚えた仏教伝来は六世紀前半であり、それ以降日本の生活、文化に浸透した仏教思想が少なからずであることは紛れもないのだが、それ以前に文化は存在しなかったわけではない。日本人の心の根底に流れるオリジナルな文化の原点を喜多郎は『古事記』に求めた。そうして生まれたのが壮大なスケールのシンフォニー『KOJIKI』である。時恰も、20世紀を余す10年となった1990の春であった。後にこの作品のCDはビルボード誌のアルバムチャートで8週間にわたり1位をキープすることになるのだが、レコード化する以前にワールドツアーコンサート開催の企画が生まれた。 
 この作品を世界の人びとに聴かせたい。日本人の心を理解してもらいたい…という彼の強い想いには鬼気迫るが如き迫力であった。当時喜多郎が契約していたA音楽事務所所属アーティストのレコード化権はレコード界名門のV社が所有しており、その親会社でオーディオ事業の企画を担当していた私は、CDステレオやCDラジカセのシェアアップに躍起になっていた。市場競争が激しく事業利益の得にくい時期であったが事業責任者の支持を得て、米国、欧州、日本(東京、大阪)地区での公演に限ってとの条件付きでスポンサーを引き受けることになった。スポンサーフィーは確か◎億円だった。  コンサートのキックオフは4月上旬にロスアンゼルスで行われ、南部を廻って、月末のニューヨーク公演で米国ツアーを打ち上げ、5月は欧州各地、7月に日本…という基本スケジュールが組まれた。 スポンサー企業としては、投資効果を最大限にすべく様々なプランを綿密に組み立てる。コンサートを成功させるためにTVコマーシャルを流す等の告知活動、コンサート開催地区ではチケットをプレミアムに利用した販売促進キャンペーンを展開する…等である。そんな仕事で、肝心のキックオフには立ち会うことが出来ず日々日本でのばたばた仕事に追われてしまった。だが、ゴールデンウィークに引っかかるNY公演には行こうとの目論みはあった。当の喜多郎は、日中、舞台装置一式を積んだ数台のコンテナトレーラーと共にハイウェイをひた走り、次の公演先でセッテイング、リハーサルそして本番、終了後には撤収作業しまた次の公演地へ移動というハードスケジュール。しかも、共演者もスタッフもすべて現地(米国)人だけという状況で、意志の疎通にも不自由して食事も喉を通らぬほどストレスの多いツアーだった様子。各地の公演はすべて大盛況続きであったが、米国公演の最後を飾るNYを残すのみとなったアトランタ(だったと思う)の公演で、こともあろうに小指を大怪我したとの連絡が入ってきた。 『KOJIKI』の演奏のクライマックスは直径六尺余も有る和太鼓を喜多郎が打ち鳴らすシーンである。本来なら櫓を組んで大太鼓を据え付けるところであろうが、連日の公演、長距離移動、公演の過密スケジュールのため、鉄パイプ製のフレームに大太鼓を固定したままの状態を続けており、連日「ばち」を打つ勢いと共にフレーム上の太鼓がずれていて、思わず手をフレームに打ちつけてしまったらしいとの情報であった。

 「NY公演は無理だ、いや本人はナンとしてもやるといっている…」等々現地からのFax情報は刻々に変化するが日本では如何ともし難い。「病院で応急処置を受けニューヨークまでは入った」との連絡を受けて、成田を飛び立ったのはゴールデンウィーク連休に入る前日の金曜日であった。到着してみると、本人のたっての希望もあってコンサートは強行するとのことでほっと胸をなでおろした。翌土曜日の夕方会場のラジオシティホールに行くと、入り口は着飾った聴衆が長蛇の列をなしている。日本ではコンサートへ出掛ける際、どちらかと言えばくつろいだスタイルであるが、白人も黒人もびっくりする程フォーマルなファッションで来る。開場後のロビーでイブニングドレスやタキシード姿がカクテルを手にコンサートへの期待を込めて談笑する風景は富豪のパーティでも見るようで、ビジネス・スーツ姿の自分にいささか気が引ける思いであった。
Photo at Radio-Cty Hallalbum jacket of KOJIKI
N.Y.のラジオシティーホール
「Kitaro」ポスター前で関係者と
古事記のCDジャケット
(DJCP-50013)

 コンサートは満場のスタンディングオーベーションの中に幕を下ろした。通常ならばアンコールに応えて再登場すべき主演者、喜多郎は舞台を降りると病院へ直行してしまった。怪我は複雑骨折で、予想以上に症状は重く当面絶対安静、全治2ヶ月とのこと。本来なら盛大になるはずの「米国ツアー打ち上げパーティ」もそこそこに、音楽事務所、広告代理店、スポンサー企業の3社による会議が持たれた。後に控える欧州公演の善後策が問題である。既に多額の投資をしてTV宣伝を打ち、コンサートのチケットも完売している。たとえ公演を延期するにせよ、相当額の損害が発生する。その責任と負担をどうするか…と言った議論である。会社の代表は広報担当役員だが、こういう不測の事態を迎えると大企業の役員という輩は実に弱い。如何に自社の不利益を回避するかしか考えない。すったもんだの議論の果て、不可抗力の事故ゆえ「三方一両損」という結論に達して一件落着となった。会議の結論を聞いて、同行した本社ソフト事業企画担当のE氏と二人でカウンターバーに入り自棄酒を飲みはじめたのは真夜中を過ぎていた。総論は良しとしても、善後策の各論を片付ける仕事は山ほどある。連休明けを思いやっての酒は苦かった。が酔いが廻るにつれ、どちらからともなく「一番悩んでいるのは、喜多郎本人じゃないか」「そうだ、彼を見舞ってやらねば…」ということになった。そこは日本人。病人を見舞うには花束か、果物の盛籠だ、という単純発想しか頭に浮かばない。飲み屋を飛び出すとイエローキャブを捉まえて、深夜のマンハッタンを右往左往するに及んだのである。
 「フルーツショップだ、フラワーショップだ」と後部座席で喚く酔っ払いのジャップ二人を乗せたタクシードライバーはなかなか気の利く若者で、とある終夜営業のコンビニエンス・ストアへ案内してくれた。そこは、韓国系米人の経営する店であった。NYでこういう商売人が決まって中国系か韓国系、というのは彼等民族の勤勉性の故であろうか。ともあれ店に飛び込んだのだが、「果物の盛籠」のイメージが東洋人なら判ってくれると思ったら大間違いで意志伝達に一苦労。何しろ、酔っ払っている上に、「籠に盛った色とりどりの果物、セロファン紙でカバーをしてリボンを掛けた見舞い品」の幻想で凝り固まっているのだから始末が悪い。身振り手振りでようやくにして、作り上げてもらったのは、底の浅いダンボール箱にグレープフルーツやら、メロンやら、さくらんぼなどを山盛りにし、上から透明ラップを掛けた代物。頭にある「果物の盛籠」のイメージとは大分違うが何とか格好はついた。こうなるともはや自己満足の世界である。翌朝早く、「盛り籠」ならぬ、「盛り箱」を携えて、病院を訪ねた。相変わらずの面会謝絶で本人に会うことは出来なかったが、メッセージを託すと、やるだけのことはやったという思いで、二人は何やら晴れ晴れした心で初夏の日差しに満ちた5番街へと足を向けた。

 この頃のマンハッタンは、廃墟のようにすさんだひと頃の姿からすっかり立ち直り、新進気鋭の市長の英断で始まった浄化施策と再開発計画が効を奏し街路は広く、綺麗になり、治安もそれなりに保たれはじめていた。大勢のお上りツーリストの人ごみに揉まれながら高級ブティックのウィンドウショッピングを楽しみつつ歩いていると、古めかしくも、荘厳な教会の前に出た。それは「セント・パトリック教会」、かのJ・F・ケネディの葬儀ミサが行われた教会である。将にこれから日曜日のミサが始ろうとしていた矢先であった。 「おい、喜多郎の為に祈ろうじゃないか」とまたしても旅の恥は…の発想で、ノコノコと聖堂の中にもぐりこんだ二人であったが、元来クリスチャンではない二人だから大変。司祭(?)の説教の後、集まった信者ひとり一人に聖水をふりかける儀式が始まったのであるが、悲しいかなその受け方のルールが判らない。自分たちの席の3列程前までに迫った時、ついにいたたまれず互いの袖を引きあって中腰のまま、逃げ出すはめになってしまった。
 それにしてもあの外見は荘厳な聖堂にも拘わらず司祭の説教はマイクロフォンを通したものだったのは何故だろう。ヨーロッパでもいくつかの教会を覗いたことがある。いずれも天井が高く設計されており、司祭の説教や、聖歌が恰も天から降ってくるようになっている。説教の中身だけで無知無学な民人を折伏するのは容易ではない。それが天の声であるようにして民衆の心を魅せるのが教会建築の王道であろうに…等と首をかしげながらヤジキタコンビは帰国の途に着いたのであった。
 ('99.08.12)
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