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雑・音楽回想録③   


古 事 記 (下)

— マインドミュージックに蘇る古代神話 —  

  喜多郎の物語音楽『KOJIKI』は、    
  • 太始(Hajimari)…In the Beginning
  • 創造(Sozo)…The Birth of a land
  • 恋慕(Koi)…Love and The Death of Izanami
  • 大蛇(Orochi)…The Eight-Headed Dragon
  • 嘆(Nageki)…Sorrow in a World of Darkness
  • 饗宴(Maturi)…The Festival
  • 黎明(Reimei)…The New dawn
の七楽章からなるスケールの壮大な組曲である。聴衆に配られたプログラムには例えば
 In the beginning, the heavens and the earth were one.
と言ったまるで御伽噺のように易しい英文のストーリーが書かれている。スサノオノミコトは、ただ「Mikoto」であり、その両親であり創世主は「Izanagi」と「Izanami] 、そして天照大神は「Hikaru」と簡略化されていて理解されやすい。
 そのストーリーを楽章ごとに追ってみると、

[太始]:遠い昔、天と地が混沌とし、激しい雷鳴と雨が、気の遠くなるほどの歳月続いたあと初めて、空と地表が分かれ、水辺や泥の中から、まるで草木が芽生える如くに神々が誕生する。

[創造]:カオスの中から最後に生まれた男神「イザナギ」と女神「イザナミ」が高天原の虹の橋上から鉾で海を掻きまわし、引き上げた鉾先から落ちた滴が固まって美しい島国が誕生する。2人の神はその国に下り立ち結婚して、風の神 、海の神、山の神、地の神などの神々を産んだ。

[恋慕]:最後に「火の神」を産んだために「イザナミ」は死んだがその息子である「夜の神ミコト」は母の死を嘆き悲しみ続けるあまりに、ひ弱な神との烙印を圧され追放され、放浪の身となる。そして、「ヤマタノオロチ」に襲われた村に辿りつきそこで「クシナダヒメ」と出会い恋におちる。

[大蛇]:村を破壊し、七人の娘をさらった「ヤマタノオロチ」が、次に狙っているのが「クシナダヒメ」と知って、「ミコト」は戦いを挑み、長い壮絶な戦いを繰り広げてこれを倒す。

[嘆]:神の国を追われた「ミコト」を哀れんだ彼の姉である太陽の神「ヒカル」は「ミコト」を高天原に呼び戻す。気を良くした「ミコト」は有頂天になり暴れる。その乱暴な行動や悪戯に心を傷め「ヒカル」は天岩戸という洞窟に姿を隠してしま う。このため、世の中は真っ暗闇の世界になってしまった。

[饗宴]:「ヒカル」が天岩戸から出てくれるように、「ミコト」は父「イザナギ」の神に祈り続け、他の神々は岩戸の前で饗宴を繰り広げる。何事かと不思議に思った「ヒカル」が岩戸を少し開けて外を覗いたところを力持ちの神が押し開き「ヒカル」を外に連れ出してしまった。

[黎明]:「ヒカル」が岩戸の外に姿を現すと、眩いばかりの光が天地に漲り、あらゆる生命が息を吹き返した。「ヒカル」に祝福されて「ミコト」と「クシナダヒメ」は結婚をし、幸せな門出をむかえた。新しい日本の夜明けの到来である。

 思いがけない主役の怪我で、欧州における『KOJIKI』のコンサートは秋まで延期となり、怪我の回復を待って、日本公演を先んずることになった。その最初の公演は暑い8月、喜多郎の希望によって出雲大社の境内での「奉納コンサート」として開かれた。将に主題に相応しい場である。出雲大社の“権宮司”千家尊司さんはなかなか捌けた人物で、この前の年には、世界的なオーケストラを招いて境内でコンサートを開いている。
 この、出雲大社で演奏される『古事記』を聴き逃してなるものかと、羽田を飛び立ったのは一足早い台風が通りすぎた朝、連れはNY公演に同行したE氏である。しかも出雲の後、中一日置いての大阪公演にも立ち会うという行程であった。
出雲大社は島根県の出雲市ではなく大社町にある。町は日本有数の大社のお膝元とは思えぬほど静かな街並みである。大社でのステージは拝殿であった。巨大な注連縄の下に大太鼓や電子楽器が設えてあり、その拝殿を取り囲むように用意された無数の折りたたみ椅子は、その数六千と聞いた。この小さな片田舎の町で開かれるコンサートの観客席が六千とは…と驚き、半分も埋まらないのではと訝ったのだが、あれよあれよという間に老若男女で埋められ、演奏の始まる頃には空席があるのは恥ずかしながら、スポンサーや音楽事務所等のために用意された「関係者席」のみであった。暮れなずみ行く夕闇のなか、この日に備えて四日間の断食をして臨んだという喜多郎が、純白のブラウスに黒のパンツという清楚ないでたちで奏でるシンセサイザーの神秘的な響きに六千の観客が水を打ったかの如く静まりかえる。ライトに浮かぶ喜多郎の姿に望遠レンズを向けた。NYの会場は勿論、屋内であり、周りの観客に気がねしてシャッターを切ることが出来なかったが、ここは青天井、しかも関係者席という隔離された場所で、フラッシュさえ使わなければ支障は無い。ふと気がつくとその関係者席のまえの玉砂利にしゃがみ込んで聴き入っている浴衣姿のご婦人が二三人居る。一時間余の演奏をあの姿勢では如何にも気の毒と思い、空席の「関係者席」へ誘って、再び撮影にとりくんだ。やがて宵闇が深まり、演奏がクライマックスへと向かう頃、拝殿の背後にある本殿がライトアップされて夜空に浮かび上がった。あの出雲大社の象徴的な社殿が数条のサーチライトにくっきりと鮮やかなシルエットを見せる。心憎いばかりの演出である。
 満場の拍手の中に壮大で感動的な演奏が終わった。先刻席を融通して差し上げたご婦人の一人から「喜多郎の大ファンなので是非写真を送って欲しい」との依頼である。「素人写真でよければ」と安請け合いし、後日ピンボケ写真の中から数葉送ったのであるが、義理堅いのが地方人の特徴と言えようか、著しく達筆な毛筆の礼状を戴くに留まらなかった。こちらがとっくに忘れてしまった翌春頃、「在京の大学生の息子を訪ねたついでに…」と、和服姿のご婦人が菓子折りご持参で会社を訪ねてこられた。応対に出た女子社員や同僚から「飲み屋の掛取りか?」等とあらぬ疑いの眼で見られ、危うくスキャンダルの種にされそうになった。

神殿がステージ
ライティングは心憎い演出東京公演後のパーティー
 
 スキャンダルといえば、喜多郎の日本コンサートが固まりつつあった頃、一部のスポーツ新聞に「喜多郎別居! 離婚か?」といった類の記事が掲載され、それを眼にした宣伝担当の役員から「これが事実なら、スポンサー契約は直ちに解消だから注意するよう」お達しがあった。「何をどう注意せよというのか。プライベート問題に他人の出る幕は無いじゃないか」と思いつつも気にはなっていた。何年か前にオーディオ機器の広告宣伝キャラクターとして、若者に人気の男性ロックグループを起用したことがあった。ところがこのグループの一人が「ドラッグ」を所持していたことが判明し、その為に契約を解消、配布済みの大量の宣材を回収、反古にしたことがあったからである。事ほど左様に企業は「イメージの保全」には気を使う。まして、喜多郎はその夫人がナントカ組組長の縁者であるということで、かって芸能雑誌を賑わせた事があり、本人達の毅然たる姿勢がスキャンダル誌に憑き入る隙を与えず、後に尾をひく事なく自然消滅した経緯もあったとか。
 出雲のコンサートの終了後、例によって、関係者による「打ち上げ」が近郊のワイナリーで開かれた。今度は主演スター喜多郎ご本人も出席し共演のミュージシャンやスタッフ仲間と寛いだひとときを送った。その会場に何と喜多郎夫人が一人息子を連れて慰労に現れたのである。聞けば、まもなく学齢期を迎える息子の為には自然界と対峙する喜多郎の生活は教育上不自由であり、やむを得ず一時的に別居する…というのが真意であった。これなら、サラリーマンの単身赴任と変わりは無い。『別居=離婚=スキャンダル』と短絡的に捉え勝ちなジャーナリズムの軽薄さに改めて憤りを感じると共に、スポンサーとしては内心胸を撫で下ろす気持ちであった。
       
 翌朝、コンサートへの現地支援の御礼言上のため列車で松江市にある販売拠点を訪ねた。出雲空港発の大阪行は午後である。折角訪れた山陰を少しでも余計に回りたいとの気持ちもあった。松江城址などを散策しただけなのに、炎天下の所為か、前夜のワインの所為か、たちどころにへばってしまった。挙句の果て、出雲空港までタクシーを頼る羽目になってしまった。事のついでと宍道湖の北岸を走って観光ガイドをして貰いながら話題が「古事記」になった。さすがに出雲の運チャン、見事な薀蓄を傾けてくれたのである。  それによると、「ヤマタノオロチ」は何を隠そう、宍道湖に注ぐ斐伊川なのである。この川は鉄分を多量に含み川底が血のように赤い。その昔は毎年の如くに洪水を起こし、田畑を荒らした。洪水を神の仕業と恐れた村人は若い娘を人身御供にたてて祈りをささげた。スサオノミコトはその洪水を治める事業をしたのである…。という御託説である。  なるほど、農耕国家の政の基本は「治水」である。第二次大戦後の近代でさえ、毎年訪れる台風に多くの河川が氾濫し数多の犠牲を余儀なくされ続けてきた。国家予算の多くが河川の堤防構築や強化に割かれ、水害による被害が甚少化されたのはほんの最近ではないか。それほど日本の国土における治水は重要であり、その為政者が治水事業の成果を神話化して後世に伝えようとする気持ちはさもありなんと思われる。或いは、荒れ狂う河川を治める「力」への願望が説話になったのかも知れない。そう言えば「クシナダヒメ」は『櫛稲田姫』であり「稲作」の象徴ではないか…。
 帰宅して早速文献(西郷信綱著「古事記の世界」岩波新書)を開いてみた。結構難しい解説書であるが、「大蛇退治の話は、元来出雲地方のある首長の家に伝わる創造神話の一説であり…」くだんの運チャンのような解釈もありうると書かれている。大変勉強になった。出雲空港までのタクシー代は廉い授業料だった。
 翌日の大阪フェスティバルホールでの公演、そして東京公演は二回にわたるNHKホールでのコンサートがいずれも盛況裡に終えて、日本公演はめでたく終焉を迎えた。米国ツアー中のハプニングがあった事がかえってその後の推進力を増し関係者の絆が強まったといえる。TVのドキュメンタリー番組などで『古事記』の曲が効果音楽として、又BGMとしても度々使われるようになり、CDの売れ行きも順調であった。又、米国で発売されたCDがビルード誌のヒットチャート,
“ニューエイジ部門”で連続8週にわたってトップにランクされたこともあって、振り出しに戻った欧州の公演も10月に9都市で開催、これまた大盛況であった。
 
 その歳末、東京港開口50周年行事にリンクして、東京晴海の見本市会場で催す「1991ニューイヤーコンサート」に『古事記』を取上げ、フジTVがライブ中継する話が急ピッチで進んだ。既にNY公演から数えると5回聴いているコンサートだが、聴く度に新たな感動を覚える気がして、またまた出かけることにした。普段の年なら、TVで「紅白歌合戦」を聴き、全国の名刹から中継される除夜の鐘を聴いている大晦日の深夜である。見本市会場のだだっ広い駐車場を埋めた万余の聴衆が、携帯懐炉を懐に、ワンカップ大関を片手に、11時59分30秒からカウントダウンを叫ぶ。計時盤が「0:00」を表示するや、天空を焦がさんばかりの2万発に及ぶ花火と、レーザー光線が煌く中で「古事記」の演奏が始まった。大江戸助六太鼓など和太鼓群、市民コーラスも加わっての一大野外スペクタクルは圧巻で、万余の聴衆を魅了してやまない。
 雪こそ舞ってはいなかったが冷たい海風の吹きすさぶ中、止らぬ「身震い」は、寒さの所為であったろうか、それとも『古事記』と共に明け暮れた1990年への感慨であったろうか…。
('99.10.25) 
NewyearConsert
壮大な花火と共に繰り広げられたニューイヤーコンサート

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