このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「竜馬がゆく」を読んで その1

ちょっとしたきっかけで、また司馬遼太郎の「竜馬がゆく」(文庫版全8冊)を手にとることになった。
私が最初にこの作品を手に取ったときは18歳。
この作品が実際に書かれたのは1960年代前半で、奇しくも私が生まれた1967年のNHK大河ドラマがこの作品を原作に作られたというからかなり古い作品ではある。
この間に折に触れて何度も読み返してきたものである。
 初めて読んだときの感想は「竜馬はえらいやつじゃ」と思った。
いささか単純に過ぎるが、実のところ子供の頃に読んだ伝記に書かれた「薩長連合の大立者」という程度の認識しかなかったせいであろう。
「竜馬がゆく」の中でこんなくだりが出てくる。
 —竜馬と中岡慎太郎の奔走で桂小五郎(長州)と西郷隆盛(薩摩)がそれぞれに両藩の秘密連合に同意したことから、京都の薩摩藩邸で交渉が持たれた。
しかし、両者とも自藩の面子にこだわり、同盟の話が始まらない。
遅れて京都に入った竜馬は桂に事情を聞き、西郷を説き伏せて、薩摩側から口火を切らせることで同盟を締結させることに成功した。
 この話、近年の研究で、実は竜馬が京都に入ったのは同盟の交渉が終わったあとだった、ということがわかってきたという。
ということは、西郷を怒鳴りつけたという場面は史実にはないということになるのだろうが、取るに足らないことで、竜馬が同盟の仲介をしたという事実は変わらない。
桂が薩長同盟の盟約書への裏書を竜馬に求め、それに応じて竜馬が朱書きで裏書を書いている(これは盟約書自体が現存する)ことからもはっきりしている。
以上余談。
 私もこの歳になって初めて冷静に竜馬の思考の推移を理解することができた。
よくこの幕末の時期には「尊皇攘夷」と「佐幕」というのがこの国の知識層の中での思想的色分けだったといわれる。
ところが、この色分けはかなり後の話であり、ペリーが黒船でやってきた頃には攘夷か開国かという議論に特化され、幕府をどうするかというような政体論までには至らなかった。
「竜馬がゆく」はこの頃から話が始まり、竜馬も一時的には単純攘夷主義に染まることになるが(意外にさめてはいたのだが)、幕臣・勝海舟との出会いで開化主義に転向、海援隊設立へと向かう。
面白いのは、竜馬はこの過程で2度脱藩をしている。
1度目は土佐藩全体を勤皇色に塗り替えようとした武市半平太(後に事実上の藩主・山内容堂の命により切腹)と袂を分けたとき。
脱藩行為というのは今で言えば密出国にあたるが、捕縛されれば切腹は必至という重罪であった。
しかし、この脱藩は勝と福井藩主・松平春嶽が直接容堂にとりなして赦免される。
2度目は勤皇派の一大勢力だった長州藩が蛤御門の変(禁門の変ともいう)で京都政界から駆逐されると同時に容堂は土佐藩の藩外活動分子の捕縛を命ずる。
その差紙は竜馬の元にも届いたが、鼻をかんで丸めて捨ててしまっている。
 いずれにせよ、作者も述べているとおり、竜馬は「(幕末という)この時代をたった1人で収拾してしまった」のである。坂本竜馬をひとことで言えば何になるのか。剣術の達人でもあったし、革命家でもあるし、稀代の政治家でもある。
それゆえに暗殺という最期を迎えることになるのだが、多かれ少なかれ傑出した人物の最期ということになろう(少しぼかした文章になったのは、この幕末の時代は官設暗殺団ともいうべき新撰組や見廻組が京都を中心に跋扈した時期で、これらの餌食になったものにはかなり不貞のものも含まれていたからである。
それだけ異常な時期だったということも言えるし、日本の歴史上で同種の時期というのはなかったのではないか)。
次回以降はもう少し細かく竜馬の行動や考え方に対しての私見を述べてみたいと思う。
(勝手に連載ネタを作ってしまった。BLACKさん、ごめんね)

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