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明治34年6月10日に官設鉄道鹿児島線(鹿児島−国分=現在の隼人)が開業してから今年6月10日で 100年となるのを記念して、鹿児島・重富・加治木・隼人の各駅で記念イベントが開かれ、 臨時列車も運転されました。
[ちょっとお勉強]
鹿児島の鉄道は、この鹿児島−国分で始まったわけですが、国分駅は現在の隼人駅で、いまは、 都城・宮崎へ向かう日豊本線と吉松・人吉方面へ向かう肥薩線の乗換駅です。 明治政府は、全国へ鉄道路線を延ばそうとしており、そのときに、”出来るだけ列車を早く到着させるために、 より短い距離で鉄道を敷く”という条件をつけました。また、当時は軍部の力が強く、その意向を受けて海から軍艦の砲撃を 受けることがないように内陸部に走らせることも付加しました。 こうして、当時八代まで開通していた現在の鹿児島本線を、出水や川内を通る海沿い(現在の鹿児島本線)を 通さず、海沿い経由より7キロ短い内陸に位置する人吉・吉松経由で通すことに決めました。 その後、明治36年に横川(大隅横川)まで延長、明治42年11月20日には吉松まで延伸され全通します。 これが、当時の鹿児島本線の姿でした。翌43年には、住民の熱意によって、政府予算に川内−鹿児島の 鉄道建設予算を組み入れ、八代−川内も予定線(第一期線)にすることを盛り込ませることとなり、 ”鉄道敷設の方針に一革新を観るに至”る(当時の新聞より)こととなりました。 現在の鹿児島本線は、北と南から延伸されて、全通は昭和2年。その間、霧島山系の険しい山々を 嫌って、吉松まで都城から現在の吉都線にあたる路線が日豊本線として宮崎方面から延びてきて、 吉松駅が日豊本線の終点として賑わいを見せました。日豊本線もその後、都城−隼人を 短絡する路線が開通し、隼人駅に乗り入れるようになると(昭和7年)、隼人駅がジャンクションとして にぎわうようになりました。こうして、現在、残存している鹿児島の鉄道路線の骨格が形成されました。
[臨時列車の運転]
鹿児島−隼人に臨時列車”寿百歳”号が、つばめ用車両である787系6連で運転されました。 列車は事前予約制で、229名(新聞による)が乗り込みました。 運転に先立ち、鹿児島駅3・4番ホームでは、9時ごろから、地元放送局が主宰するカルチャースクールに よるフラメンコが披露され、歴代駅長紹介、その方々による鏡割りとクス玉わりと、行事は 進行し、9時8分、4番乗り場に787系が到着しました。 鏡割りのあと、ホームにいたかたがたには、列車と同じ名前である芋焼酎(鹿児島でいうところの”酒”) が、振舞われましたが、列車が発車していった後、樽の中を見たら 結構残っていました。なお、最後部6号車には、西鹿児島から鉄道少年団の面々が、先に乗車していた ようです。
9時15分には、歴代駅長による発車合図で列車が動き出し、隼人へ向けて出発しました。車内では、明治時代の衣装をまとった女性が登場するなどで 注目を集めていましたが、先に報道があったように、100km/hの高速から 開業当時の列車の速度であった25km/hまで減速してその落差を 楽しんでもらう、というアトラクションは、往路ではなく、復路で 行われた模様です。
臨時列車を追うようにして次の列車(6830D)で隼人へ向かうことにしました。 途中、開業当時からあった、重富・加治木の駅には開業百年を祝う横断幕がホームに張られていました (帖佐駅では未確認)。1016に隼人に到着すると、駅本屋前の1番ホームに臨時列車に使われた787系が 鎮座しておりました。しかし、1020過ぎに動きがあり、787系の5両編成が隼人駅東側の側線に入ると、 臨時列車の車両は、鹿児島方向へ向けて出発していきました。
側線に入った5両編成は、ただちに公開のためにドアが開けられましたが、普段6両もしくは7両で 走る787系が5両というのは不思議でしたので、関係者にお聞きしたところ、”検査がほぼ終わって 試運転を兼ねて持ってきた。だから(開いた扉から車内を指差して)こんなふうに床にビニールが 張ってあるんだ。”といった内容の話をされていました。こちらの推定では、運用に余裕が 少なく、必死にやりくりして捻出したのでは?と思われました。夕方までではなく、昼間の 早い段階で公開も終えたようでしたので。 なお、この公開車両の編成は次のとおり
鹿児島方よりクハ786-2 モハ787-15 サハシ787-8 モハ786-302 クロハ787-8
サハがありませんな。写真奥には、派手に飾り付けられた軌道自転車も見えます。
運転室なども公開されており、親子連れで行列でしたので退散し 、外に出ました。(一緒に来た友人は、警笛ペダルを思いっきり踏み、通常鳴らす複音の 電気笛のみならず、ピィッっと甲高い音のする空気笛まで鳴らしたそうですが)。 なお、隣のホームに滑り込む列車も役者ぞろいで、475系国鉄色、485系きりしま&ひゅうがの 3つ並びも実現しました。 1140頃には、帖佐駅に疎開留置されていた臨時列車に使われる787系が戻ってきて、 1203、折り返しで鹿児島へ戻っていきましたが、1番ホームのフェンスの外側では、親子連れが 鈴なりで、関心の高さをうかがわせました。 鹿児島駅には到着は1241で、2番ホームについた一行はフラメンコの出迎えを受け、 解散していったようです。
[その他の行事]
鹿児島駅では、記念として、生け花が改札口近辺の通路に飾られたほか、開業当時の新聞の切り抜きや、 西鹿児島駅に町の中心が移る前の鹿児島駅に滑り込む特急はやぶさ(当時は蒸気機関車)の写真、 昭和30年代ごろの切符のコピー(偶然隣におられた持ち主の方のお話では盗難の恐れがあって現物が 持ってこれなかった、とのこと。そのくらい年代モノでした。)などが改札口そばに飾られました。 また重富駅では絵画の展示などがあったようです。
隼人駅前は、おそらく沿線で最大の賑わいを見せたのではないでしょうか。 駅前広場には所狭しとフリーマーケット、おみやげ物や屋台が並び、踊り(おはら節とは 違うような...。あと、飾り馬も登場)などまで披露されておりました。 しかし、公開用の列車が到着した後は、こちらに人気が集まったようで、昼前にはかなり落ち着きを 取り戻しました(写真)が、それでもなお、三味線の演奏など、駅前広場でのアトラクションは 引きもきらず、かなりの人手でした。 加治木駅でもなにかあったようですが、よく知りませぬ。
この日、隼人駅前で、JR九州もブースを出し、グッズを販売しておりましたが、 この日の目玉商品はこれでした。実物のかもめ(885系車両)の先頭部(鼻先)に付いております、 エンブレムです。レプリカではなく交換した際に取り外したもののようで、走行距離などの 証明書付きでした。しっかし1個15万円では、買った人いたのかな?
車両関係
隼人駅でのつばめ用車両の一般公開のほか、鹿児島駅では1番ホームに2000年3月改正以来 お役御免となって、置かれつづけている485系RED EXPRESSの車両の1両(クモハ485-12)が 開放され、昔の鹿児島を駈けたSLの写真などがパネルとなって展示されていました。 展示方法は、2人掛けの座席を向かい合わせにし、片方にパネルを立てかけたものでしたが、 目を見張ったのは”さようならJNR号””こんにちはJR号”のヘッドマークも置かれていたことでした。
運転室も公開され、普段目にすることが出来ない乗務員区画(区画内にあるせいか、機器室の 扉は施錠がなく、機器室内のMGなども見えた)を見学することが出来ました。 フィルムの残数の関係から撮影しませんでしたが、”オランダ村号と併結する場合は、 ドア開閉スイッチを完全に停止するまで操作しないでください。車両故障の原因となります。”といった 趣旨の注意書きがあって印象に残りました。 この車両は直流設備撤去の車両でしたが、操作パネルの一部が切り取られて固定されているのが分かり、 そこに交流・直流の切り替えスイッチがあった、との説明を受けました。 予備の電球などもそのまま残され、乗務中に切れた場合は、パネルをあけて取り替えることもありましたが、 現在はLED(発光ダイオード)などで切れる心配もほとんどなくなりました、とのこと。 さすがに洗浄水は切れていましたが、空気圧で作動するワイパーも動かしていただき、 現在は自動車と同じ仕組みで、電動式です、とのことでした。電車なので、 左手に見える白い玉状のグリップがついたレバーを回すと列車は走り出し、右手 (ガラスの中にごちゃごちゃしているものの上に付いている部分)のレバー=バーそのものは 外されています-を手前に左回転させるとブレーキがかかります。
その他、JR貨物の入れ換え用であるL型ディーゼル機関車や普段絶対立ち入ることの出来ない 電気機関車であるED76の車内も公開されていました。 ブレーキの込め、緩めの操作を係りの方にしていただきましたが、作動音はかなり騒々しく、 乗務するのも楽ではないな、と感じました。ブレーキはやはり手前に引くと緩み、新幹線の ハンドル配置と同じなので、新幹線のブレーキはどっちにうごかしたらブレーキがかかるのか? と長年疑問だったものが氷解しました。右手にある銀色のレバーを手前に引くと、動き出し、 左手にあるレバー(写真では、取り外されています)を押し込むとブレーキがかかります。
これら、今回の100周年の催し物は、かなりの混雑が見られ、 特に隼人駅前は朝から大混雑しており、関心の高さが伺われました。 しかし、1日中のお祭りではなく、隼人駅や鹿児島駅で行われた車両の 一般公開など、午後のごくごく早い時間帯に店仕舞いしていまい、 時間の短さといった点からは残念に思いました。周知のとおり、鹿児島市街地の 中心は西鹿児島駅周辺に移っており、鹿児島駅という地の利を得ない場所を 中心としての記念イベントだったことも、公開の時間を短くする一因だったと考えられます。
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