このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

 

「鉄道衰退説」再論

 

 

■「鉄道衰退説」はやはり幻

 名鉄の岐阜600V線区に関していえば、個人的な愛着こそ覚えるものの、名鉄の企業経営戦略からすれば傍流のさらに末端にすぎないという厳しい「現実」を指摘しなければならない。例えば、揖斐線と岐阜市内線の直通運転は、鉄道趣味的な観点からは一大エポックとして扱われている一方で、「名古屋鉄道百年史」においては年表にただ一行事実関係が記されているだけで、それ以外の紙幅は割かれていない。つまり、名鉄にとって揖斐線や岐阜市内線などの位置づけはその程度の軽いものにすぎないわけだ。

 
 モ510+520時代の揖斐線−岐阜市内線直通列車。にわかには信じにくいが、この直通運転は「名古屋鉄道百年史」にたった一行しか記されていない。
 名古屋鉄道岐阜市内線徹明町にて昭和57(1982)年撮影

 名鉄岐阜600V線区、同じく名鉄で近年廃止された路線群、南海貴志川線、旧近鉄北勢線などは、路線の出自からしても、まさに「傍流」の存在といえる。鉄道会社の合併・統合の経緯は複雑で、ひとことで括るのは大雑把すぎるとはいえ、経営不振にあえぐローカル鉄道救済という一面があることはまず間違いない。

 これらローカル路線群は、近鉄湯の山線のような例外を除き、合併先の経営戦略に合致せず、内部補助で細々と存続しているだけという事例が目立つ。もっとも実は「寄親」がしっかりしていればまだ良い部類で、せっかく統合を果たしても、茨城交通や北陸鉄道のように、路線網のほとんど全てが廃止に追いこまれてしまった事例さえ存在する。

 以前 「鉄道衰退説」に対する懐疑的仮説 を呈したことがあるが、これらローカル路線群はそもそも鉄道の特性を充分に発揮できるものが少なく、なぜ成立しえたのか、鉄道路線として開業に至ることができたのか、経緯に謎と疑問点が多い(※)。昭和30年代以降のモータリゼーションの進展、そして需給調整規制が撤廃された今日と、時点に大きな開きがあるとはいえ、基本的には鉄道としての特性を発揮できない零細路線の調整過程でしかないとみなすことも可能である。

 ※これに対して筆者はある仮説を持っているが、確証を持てないため、ここでの紹介は避けておく。

 

 以上のように考えてみると、ローカル路線を抱える大手私鉄で、存廃の選択を迫られている事業者は限られていることがわかる。例えば阪急は能勢電鉄の株式の大半を取得しているが(鉄道統計年報より)、敢えて合併せず、別会社のままとして経営体制を分離している。この措置により、阪急は能勢電鉄に対して内部補助をせずにすみ、まったく別体系の運賃制度を採り、能勢電鉄の経営陣に自助努力を促すことができるなど、一石何鳥ものメリットを得ている。自社の基幹となる経営戦略にそぐわないローカル路線を抱えることは、少なくとも今日の情勢では無理が多いということであろう。

 念のためにいえば、名鉄でも昭和40年代後半にはこのメリットに気づいており、例えば大井川鉄道や北恵那鉄道の事例では合併は得策でないとして回避し、資本参加にとどめている。その結果として、大井川鉄道では保存鉄道として独自の道を歩み始め、北恵那鉄道は昭和53(1978)年という比較的早い段階で廃止に至っている。

 

 

■自ら助く者のみが自らを活かす

 今日において廃止が取り沙汰されているローカル路線群において、沿線地域が抵抗感を示していることじたいは理解できる。沿線地域にとっては貴重な公共交通機関であるし、おそらく路線成立時には沿線から出資が募られたからだ(この考え方は 茨城鉄道の記事 にまとめてあるので参照されたい)。

 しかし、当時の出資者は全てが世を辞しているはずで、しかも合併・統合の経緯のなかで出資の資産価値は極微化していると考えられる。また、合併・統合後の経営は「寄親」である大手私鉄に委ねたままであった経緯を考えるならば、単なる抵抗や反対は説得力を持たない。まして、関西大手私鉄の輸送量減少傾向はまさに底なしの推移をたどっており、その内部補助に甘えられる時代は遠い昔に過ぎ去ってしまった。

 おそらく南海においても、貴志川線の経営分離が検討されたことはあるはずだ。同社には阪堺電軌という分社化の前例がある以上、その選択肢が俎上にのぼらなかったとは考えにくい。しかしながら、分社化は路線廃止の前段階と受け止められ、具体化できなかったのかもしれない。例えば、旧関東鉄道は(現)関東・筑波・鹿島の3社に分割されたが、筑波は廃止され、鹿島も存亡の瀬戸際に追いこまれているという現実がある。現関東鉄道に筑波・鹿島両社を内部補助する体力があるかどうかは措くとして、大手私鉄の内部補助にすがりつつ、ローカル路線の存続を図るという発想はいちおう理解はできる。

 
 軽便鉄道法以降に発起されたローカル私鉄の多くは、沿線地域の零細資本を糾合して成立している。そのため、廃止が具体化すると強い抵抗を受けることは避けられない。
 関東鉄道常総線(当初は常総筑波鉄道)守谷にて平成15(2003)年撮影

 ただし結果論からいえば、上記の発想は「先延ばし」にすぎなかった。需給調整規制が撤廃され、一足飛びに営業廃止する選択も可能になった今日では、ローカル路線の「突然死」が進みつつあるといえる。しかし、それは実は「突然死」でもなんでもなく、歴史的経緯の必然として迎えた結果といえる。大手私鉄ローカル路線群の沿線地域は、交通政策や理念を持たず、大手私鉄の内部補助に甘え無策を貫いてきた格好であるが、その結末が突然(に見える)カタストロフであるならば、代償は大きかったといわなければなるまい。

 詰まるところ、自ら額に汗する者だけが報われるというだけのことであろう。都道府県や政令指定都市はともかく、市町村レベルでは公共交通を所管する部署が存在しないことが多い。即ち、地方行政に(公共)交通政策はなじまないと考えられてきたのだが、そういった発想にとどまっている限り、大手私鉄に存続をお願いする「だけ」しかできないのは自明である。

 

 

■努力すべき主体

 鉄道事業者に問題がないとは決していえない。旧近鉄北勢線の廃止提案にはロジックに無理・飛躍があるとの印象が拭えず、名鉄の岐阜600V線区は車両だけが新しくなったものの(ただし時期遅れ)交通機関としての改善にはまったく手がつけられていない。しかし、鉄道事業者側の問題を全て認めたとしてもなお、今日の事態を招いた主因は、現状維持に安穏としてきた沿線地域側にあると考えるのが妥当である。

 
 近鉄時代の北勢線。近鉄が廃止を提案した論理構成には不明朗さが目立つものの、北大社(または楚原)以北を鉄道で存続させる社会的意義は乏しいといわざるをえない。
 近鉄北勢線北大社にて平成15(2003)年撮影

 NHK「ご近所の底力」では幻想が全国に流布されてしまったが、えちぜん鉄道や万葉線の事例では、地元自治体が多大な努力を払い、衆議に耐えられるだけの論理構成を整え、なおかつ予算措置も講じたからこそ、存続が実現したことを見落としてはならない。特定地方交通線転換線もまた同様で、その沿線自治体はさらに厳しい状況下で、努力に努力を重ねて存続にこぎつけていることを考えれば、大手私鉄ローカル路線の沿線自治体の取り組みはいかにも甘いと評さざるをえない。

 このように記すと、特定地方交通線転換の際には転換交付金が措置されたではないか、との反論を受けそうだが、その考えは一を知って二を知らぬものである。旧国鉄は、公公相互非課税の原則により固定資産税を納付していない。しかしながら、鉄道じたいは収益的事業とみなされていたから、固定資産税見合いの交付金を沿線自治体に拠出していた。この事実はあまり知られていないが、産業に乏しいローカル路線沿線自治体にとっては、安定的な収入を確保していたという意味で極めて重要である。つまり、転換交付金とは、交通政策の一環である一方で、沿線自治体の収入減少をなだらかに誘導するための措置という性格も濃厚にある。かようにぎりぎりの厳しい状況でありながら、敢えて存続を決断した沿線自治体の努力は、たいへんなものだったはずである。

 
 特定地方交通線を鉄道として存続するにあたっては、乏しい財源のなか、厳しい決断と努力が迫られた。
 長良川鉄道美濃市にて平成10(1998)年撮影

 鉄道としての特性を発揮できないローカル路線を残すためには、様々な障害を乗り越え頑張らなければならない。そして、その頑張るべき主体として、かようなローカル路線群が経営戦略に組みこまれていない大手私鉄を擬すのは無理がある。これらローカル路線群が発起された経緯を考えるならば、沿線地域が頑張るのが筋といえるだろう。

 

 

「公共交通の将来を考える」表紙に戻る

「交通総合フォーラム」表紙に戻る

 

 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください