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運休そのまま廃止という事態は避けられたが・・・・・・京福電鉄永平寺線
■不幸な事故
その事故は、平成12(2000)年も押し迫った12月17日に起こった。京福電鉄永平寺線の電車が終着駅の東古市を通過して越前本線に入りこみ、対向列車と正面衝突した。原因はブレーキ故障説が有力で、まだ確定されてはいないが、おそらく間違いないだろう。事故で亡くなられた運転士は、電車を停めるために最後まで努力されていたという。まことに痛ましい限りである。その努力の甲斐もなく事故は起こり、乗り合わせた利用者の方々はそれぞれ怪我を負われた。
事故の原因として、車両の旧さが挙げられていた。台車の製造年次が昭和 3(1928)年というから、確かに旧い。古稀を超える高齢車である。鉄道趣味の世界では旧きをもって尊しとなす風潮も見受けられるが、しかしその大前提として、充分な安全を確保する必要があることはいうまでもない。
例えば、鶴見線のクモハ12が大川支線から出て本線運用に充てられた際にも、この車両の経年を根拠に不安視する向きがあった。結果として事故は起きず、不安は杞憂であったわけだが、車両など施設の老朽化が原因で発生した事故は決して絶無ではない。例えば、関東鉄道常総線の取手衝突事故(平成 3(1991)年)の原因のひとつとして、車両の老朽化を挙げる声もあった。
鉄道車両はただ旧きゆえに尊いのではない。事故など起こさないよう整備を施されて、はじめて尊いといえる。旧い施設は、どうしても故障が多い。だから、旧きゆえに尊ぶという価値判断は、むしろ空想の中でこそ成立しうるものに近く、現実に立ち向かう実務者にとっては危うさが感じられる概念といえる。
結論めいたことを記してしまったが、実はこれが本題ではない。事故その後の経過を、話題としてとりあげてみたい。
■事故その後
事故原因の究明、被害者への賠償などは、当然ながら進められなければならない。とはいえ、事故は事故であって、日常の営業も継続されなければならない。だから、永平寺線の営業は続けられているものと、筆者は思いこんでいた。
ところが、実際には永平寺線の営業は休止されていた。週刊文春 2月 1日号のグラビアを見ると、永平寺駅は深い雪に埋没している。
この事態はどのように理解すればいいのだろうか。永平寺線全ての営業を止めなければならないほど深刻な原因が、かの事故に内在していたというのだろうか。
例えば信楽高原鐵道の正面衝突事故の場合、同鉄道は事故後しばらく全面運休となったが、これは信号系統の不具合が事故原因のひとつと考えられた影響が大きい。また、実際問題として、保有車両の多くが事故のため再起不能の損傷を受け、ダイヤを構成できなくなっていたということもある。
してみると、京福電鉄永平寺線における事故後の対応は、システムに不安を抱えているためか、あるいは予備車もないほど保有車両が少ないためなのか。
おそらくそうではあるまい。少なくとも、ひと月も運休を続けるほど念を入れなければならない事故とは考えにくい。多くの鉄道において事故後の復旧が急がれるのは、運休による利益の逸失、代替輸送の費用などが大きいためである。京福電鉄が永平寺線の営業を再開しようとしないのは、運休していた方がメリットが大きいからにほかならない。
京福電鉄が永平寺線及び越前本線東古市−勝山間営業廃止の意向を持っていることは、既に広く知られている。事故を契機として、営業休止の既成事実をつくろうとの意図が、そこはかとなく透けて見える。
営業休止の名目は、どのように掲げられているだろう。筆者は寡聞にして知らないが、「事故原因究明のため」「お客様の安全確保に万全を期すため」といった類の内容であれば、不誠実である。かような名目を貫き通すためには、永平寺線のみならず京福電鉄全線の営業を止めなければならない。
ここではむしろ、正直さがほしい。「お客様の安全確保に必要な投資は当社の財政状況からはできない」とでも宣言した方が、よほど明快である。
永平寺線及び越前本線東古市−勝山間の営業廃止は、長年に渡る懸案となっているが、京福電鉄と沿線自治体は未だ合意に達していない。当然といえば当然ながら、沿線自治体は廃止反対の立場を貫いている。近年になり運営費補助が出されるようになったが、営業継続の意欲を喚起するに充分な内容とはいいにくい。京福電鉄はしかたなく妥協している恰好である。そして、需給調整規制が撤廃された今日においても、鉄道の営業廃止は簡単に実現できるわけではない。
京福電鉄が既成事実を構成したくなる事情は、理解できる。現在までの沿線自治体側の姿勢には、現状を冷静に認識しているのか、疑わせる面が多く見受けられた。京福電鉄の苦渋は充分に察せられる。しかし、だからといって事故後の対応が上記のごとしでは如何なものだろうか。
否、問題は京福電鉄の姿勢にあるとはいえない。京福電鉄がかような姿勢をとらざるをえないならば、その背景にこそ、問題の根源がひそんでいるはずである。
■ローカル線の営業を続けるには
事故や災害の後、どのような対応をとるかは、事業者によって大きく異なる。
例えば蒲原鉄道の場合、昭和40年代に2度に渡って水害に見舞われたが、いずれも復旧した。当時の営業成績は既に低迷しており、不通即廃止と見られていたにも関わらず、である。結果的に蒲原鉄道は全廃に至るが、2度の水害を乗り越えたという事実は強く記憶された。
例えば鹿児島交通の場合、水害を被り、南薩線の築堤が流出した。復旧にさしたる費用も時間もかからないほどの被害であったが、鹿児島交通は復旧に手をつけなかった。被災箇所を含む加世田−枕崎間に列車が走ることは、鹿児島交通全廃までついになかった。
以上の事例では、事業者の経営姿勢がそれぞれ明瞭に現れている。蒲原鉄道は盛業ならずとはいえ、営業を続けるだけの意欲あるいは責任感があった。鹿児島交通は鉄道事業の衰微著しく、その営業を継続するほどの意欲は失われていた。
現代においては、「市場に委ねよ」との主旨の発言がよく見られる。これは資本主義を基礎とする経済活動においては、市場が合理的判断をくだす社会的機構と前提してのものであろう。しかし、上記2例を比べてみると、市場の合理性よりもむしろ当事者の意志が濃厚に表現されているように思える。経済活動とは当事者の個性を反映するものにして、一種の彫像の如き作品とみなせるのではないか。
京福電鉄永平寺線の例も、おそらく同然であろう。行動が当事者の意志を顕現したものであるならば、命運は既に自明である。営業休止にどのような名目が掲げられていようと、京福電鉄には同線を経営する意欲が失われていることは間違いない。
筆者は京福電鉄の姿勢を批判するつもりはない。むしろ同情の念さえ覚える。老朽車を使っていたというのも、より新しい車両を投入するほど財政状況に余裕がないことを端的に示している。かような苦しい状況のなか、とにもかくにも今まで営業を続けてきた事実は、賞賛されてしかるべきである。事故を起こした責任と営業継続の功績とは、べつものと理解されなければならない。
考えてみるに、ローカル線を公共交通機関と認定するのであれば、その経営を一企業に委ねることじたいに無理があるのではないか。時代はそのような局面にまで達していると、思われてならない。ローカル輸送を担う鉄道はじめ公共交通機関を維持していくためには、一企業に全てを背負わせていては荷が重くなるばかりで、各企業の意欲は削がれこそすれ高まることはないだろう。
事故は局地的なものながら、問題の根は日本全国に汎く共通するといえる。なんらかの新しい枠組を構築していかないと、ローカルの公共輸送は傾く一方どころか、壊滅に至りかねない。その現状が的確に認識されていないことが、実は最大の問題なのかもしれない。
■事故その後々
平成13(2001)年 2月26日付交通新聞に次のような記事が載った。
「京福永平寺線が運転再開−−国土交通省が安全性を確認
京福電鉄正面衝突事故で、国土交通省中部運輸局は22日、同電鉄から検査態勢の見直しなど改善策を盛り込んだ報告書の提出を受け、安全性の最終確認をした。これを受け、昨年12月17日の事故以来、運転を休止していた永平寺線は、23日始発から68日ぶりに再開された」
永平寺線が長期運休となった理由の分析は、先の記述では独断に走りすぎていることを認めなければならない。しかし、それでもあえて撤回はしない。なぜなら、この記事からでは、永平寺線運休が運輸省→国土交通省からの指示なのか、京福電鉄の自発的意図なのか、読みとれないからである。
もう一つ、腑に落ちない点も残っている。例えば首都圏の路線で新しい信号システムを導入したところ、そのシステムに欠陥が見つかったとしよう。その路線は全面運休されるだろうか。答はおそらく「否」である。代用手信号を使うなりして、本数を間引くことはあっても、全面運休にはしないはずである。例えば新車に技術的欠陥が見つかったとしても、予備車を投入して時間を稼ぎ、その間に欠陥を修正するはずである。
ブレーキ故障などによる(正面)衝突事故は、近年決して少なくない。ここ10年の範囲ですぐ思いつく事故のみを挙げても、関東鉄道常総線、島原鉄道、弘南鉄道の3件がある。これら事故にはそれぞれ個別の問題が控えているわけだが、しかし長期運休という措置が採られなかった点では共通している。
永平寺線は、なぜ68日間の長きに渡って全面運休とされたのか。この一点はどうしても疑問として残るのである。この件に関する情報が少ないこともあるが、筆者は今でも疑問に思っている。沿線利用者の多くも、おそらく同様であろう。
運転再開により、京福電鉄は永平寺線の営業に責任を持つ姿勢を示したといえる。とはいえ、この長い運休期間は、京福電鉄の熱意の薄さを端的に表すものである、とみなしても穿ちすぎではあるまい。ただし、問題の根源は既に整理したとおりであり、筆者は京福電鉄を責めるつもりはない。
休止そのまま廃止という事態は回避されたが、熾火がなお残ったような趣である。
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