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忘れぬうちにやってきた!





■長周期振動を感じる

 最初はめまいかと思った。地震だ、と気づいたのは数秒後。平成19(2007)年 7月16日、午前10時18分頃のこと。都内の筆者自宅では、長い周期でゆっくり揺れた。高層ビル上層階で感じるような、船酔いになりそうな揺れである。まさか一階でそんな揺れに遭うとは、まったく考えられない事態ではなかったか。いやな予感が、ふとよぎる。

 娘は食卓の下にもぐりこんだ。息子は窓を開けた。なんとも基本に忠実な連中である。筆者が心配したのはさらに大きな揺れに発展するかどうかであったが、数秒も経つとその心配が薄いことがわかった。そうなると心配は、どこが震源であるかだ。テレビをつけてみる。佐渡島を中心として日本海側に津波情報が出ていた。遠い距離からこれほど揺れるのだから、間違いなく大地震だ。被害に関する報道はまだない時間帯であったが、相当な被害が出るのではないか、と直感した。





■崩れ続ける大地

 昼のニュースで状況がそれなりに見えてきた。一階部分が潰れ、瓦屋根が地面に接している家屋が何軒もあり、相当な人的被害が出るのではないかと危惧された(実際のところ 7月19日現在で10名の方が亡くなられている)。

 鉄道はといえば、まず目に入ったのは柏崎駅構内で(脱線というよりむしろ)擱座した電車の映像である。停車していたというのに、線路から振り払われてしまったのだから、よほど強い揺れに遭遇したのであろう。あるいは、その車両部分だけ局地的に地盤条件が悪かったのか。

 夕刻のニュースになると、青海川駅の地すべりの映像が流されるようになった。これには驚いた。鉄道側の被害も甚大であるが、崖上の住宅も危うい状況ではないか。強い雨が降ったり余震があったりすれば、被害がさらに拡大しかねない。

 日本とはこういう国なのだ、と改めて痛感せざるをえない。大地は動く。しかも崩れる。堅固な岩盤など、日本には少ないのだ。可住地の多くは年代が新しく脆い地層からなる。そんな不安定な基盤の上に、われわれの文明生活は築かれているのだ。





■人間の矮小さ

 さらにいえば、いわゆる耐震設計はなんの役に立つものか、とも感じてしまう。たとえ家が無事であろうとも、家具が倒れてくれば、中の食器や本が飛び出してくれば、怪我は免れえないし、場合によっては死に至る。家の隅々までコントロールしなければ、大地震に備えることは困難だ。そんな完璧な人間がどれだけいるというのか。

 人間は自然を克服してきた。自然の理(ことわり)を解明してもきた。しかしながら、そんな小智など、大地震のような大変動の前には無力であるようにも思えてしまう。技術者としてはあるまじきことながら、被災地のこわれ方、建物よりむしろ大地のこわれ方を見るにつけ、釈迦掌上の孫悟空の如き絶望感にとらわれてしまう。大地震が首都圏に襲来したら、いったいどんな惨状になるのだろう。不安に苛まれてしまう。





■動き続ける大地

 さらに後日の報道によれば、中越沖地震による被災地域の地盤の隆起・沈降には激しいものがあったと伝えられている。柏崎市椎内では、にわかに信じがたいことだが、35cmもの隆起があったという。これだけの変位があれば、たとえ振動の加速度がゼロに近くとも、建物や道路などが壊れないわけがない。

 地球の巨きさに比べれば、人間が住む領域など薄皮にも届かないか細さであろう。人間にとっては大災害であっても、地球にとっては軽く咳払いしたようなものかもしれない。高温で流動する核を中心に蔵する地球は、太陽的規模で見れば一種の生物に近い存在だ。顕微鏡的に小さないきものにすぎない人間は、寄親たる地球の「生命活動」に翻弄されるしかないというのか。





■交通論的着目点(1)

 震災が起これば全国からボランティアが集結するのが近年の趨勢となっている。中越沖地震もその例外ではない。ところが、ボランティアが自家用車で乗りこんでくるために、道路渋滞が悪化している状況があるらしい。

 そこで、ボランティア用の駐車場が用意され、集合場所までの間をバス連絡するという方法が採られることになった、という報道が見られた。これは誰がどう考えてもパーク&ライドの一変形である。

 たいへんな難事に直面ながらも、極めて短い時間で準備ができるほど、パーク&ライドの概念が一般化してきたといえる。あるいは現場における工夫の一環なのかもしれないが、時代は変わったものだと実感する。





■交通論的着目点(2)

 中越沖地震により、柏崎市内に立地する自動車部品メーカーのリケンが操業不能に追いこまれた。これに連動しピストンリングなどエンジン回りの部品供給が停まり、日本国内の自動車メーカーの多くで生産ラインが停止したという。

 災害はさまざまな形で起こりうるものだが、局地的被害が意外な広範囲に波及することがありうる。たった一部分が被災しただけでも、代わりがきかない性質のものであれば、全体が停まらざるをえない。日本の自動車産業において、柏崎のリケン一社といういわばピンポイントに与えられた打撃が全国に影響を及ぼそうとは、いったい誰が予想できたであろうか。

 大抵のことには代わりがきく。たとえA社が潰れようとも、B社製品で代替できることが多い。他をもって代えがたいとは、まさに企業価値そのものである一方、社会全体から見れば、なんらか支障があった際に八方塞がりとなる両刃の剣でもある。隆盛を誇る日本の自動車産業にも、今まで表に出なかった脆弱点があったものだ。

トワイライト・エクスプレス
函館の側線に待機するトワイライト・エクスプレス



 以上の意味において、日本の鉄道には脆弱点だらけである。新幹線・在来線を問わず、一区間が不通になっただけでもネットワーク全体が麻痺してしまう。自動車交通のように不通区間を迂回するという芸当が、日本の鉄道においてはなぜかできない。端的にいえば、日本の鉄道にはネットワークとしての実質が備わっておらず、有事における迂回ルートが存在しないのだ。

 それゆえ青海川ほかが不通となった現状は、在来線ネットワークの寸断を意味し、特に貨物列車に甚大な影響を与えた。……ようにも思えるが、これについては既に明確な答が出てしまっている。平成16(2004)年の中越地震調査団に参加された方から伺ったところでは、貨物列車が運休になっても、すばやく他モードによる代替輸送に切り替わったので、特段の問題とするに当たらなかったのだそうだ。

 JR貨物という会社にとっては確かに打撃であるのかもしれない。しかしながら、不通区間が生じるというのは、全国規模で見渡してみれば茶飯事にすぎない。かようないわば「日常的な」異常に即応するため、他モード代替が容易にできるように準備されているといわれている。JR貨物は独自の顧客を抱えているというよりもむしろ、ロジスティック大手企業の強い影響下に置かれているという説さえある。JR貨物はロジスティック大手が選択しうるまさに「ロジスティック」の一つにすぎない、というわけだ。

 それが幸なのか不幸なのか、筆者には判断できない。それでも、貨物列車の運休が社会問題化していない以上、全体としては幸なのであろう。「鉄道ナショナリスト」としては悲しむべき状況であり、函館に孤立したトワイライト・エクスプレスの画像を掲げてその意図を表現してみたものの、地震による被害の大きさは、そんな詰まらぬ感傷など許してくれそうもない。



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※本稿はリンク先「交通総合フォーラム」とのシェアコンテンツです。





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