このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください





東海道新幹線での業火









■文字にしたくない事件

 平成27(2015)年 6月30日という日付は、今後東海道新幹線史、または鉄道史における一大事があった日として刻まれることになるのではないか。

 この一大事に巻き込まれ亡くなられた方には、お悔やみ申し上げ、冥福を祈ることしか筆者にはできない。そして、かような一大事を惹起した「犯人」——と敢えて記す——を筆者は厳しく指弾する。

 現時点では断片的な情報しかなく、そもそも文字にすることすらおぞましい事件なのだが、「犯人」には甘えと残虐が同居しているように思えてならない。しかも、甘えの心はごく強いのではないか。すぐ身元が割れる証憑を身に着けていたのは、承認欲求の極致である。周囲の乗客に声をかけたのは、自分には思いやりがあると誇示する自己喧伝である。陋劣で卑しく、心根が醜い、唾棄すべき小人、と決めつけなければなるまい。

 どんな事情があろうとも、他者を巻き込む犯罪は正当化できない。まして通り魔殺人やテロ行為にも匹敵しうる今回の事件を起こしたとなると、酌量の余地はない。





■対策はあるのか?

 このような事件に対して、鉄道側に防御策はありうるか、まず考えてみよう。

 現状では極めて厳しい、と考えざるをえない。航空なみの手荷物検査をするにあたり、新幹線に限らず日本の鉄道には空間が乏しすぎる。手荷物検査の場所そのものだけでなく、検査を待つ利用者の待機場所が決定的に足りない。東京駅や品川駅などは、コンコースに利用者があふれ機能が麻痺してしまうだろう。

 だからといって、無策で良い、と割り切れるかどうか、悩ましい面がある。公共交通への放火事件は、ごく稀ながら前例が存在している。更には、本事件の報道がアナウンスや広告塔となる可能性もある。現状で最大の脅威は、模倣犯の登場である。

 現下の世界情勢を見渡しても、人心が安定しているとは到底いえない。しかも、宗教はあくまでも仮託されているだけ、と筆者は見ている。三国志における「黄巾の乱」の如く、宗教への帰依を装いながら、現体制への不満が顕在化する断面が世界中にあらわれているのではないか。

 本事件の「犯人」がこれに連なっているかどうかまではわからない。さりながら、もし模倣犯が登場しうるならば、こちらは確実に世界情勢と根を同じくするはずだ。

 新幹線を含む公共交通機関において同種の模倣犯が続くか否かは、日本と世界の近未来を占うバロメーターとなるだろう。万一模倣犯が続く事態におちいるならば、利便性放棄の弥縫策とはなるが、手荷物検査導入もやむなしであろう。人心が安定しなければ、利便性を追求するような社会は存在しえないからだ。



 新幹線や鉄道だけでなく、公共交通は、本事件のような犯罪行為に対し無防備に近い。それでも公共交通での犯罪行為が滅多に起こらないのは、公共交通はまさに『公共』の場であるからだろう。新幹線で本事件に類する犯罪が今まで起こらなかったのは、新幹線という場においてその種の行為をすべきでない、との認識が広く共有されていたからにほかならない。かくも高度な社会性があって初めて、公共交通は成立しうるのだ。

 新幹線は無防備、という指摘までは正しくとも、無防備であることが存在の本質である点は考慮されてよいはずだ。

 しかるに「犯人」は無意識下において、新幹線という空間を『汚してもかまわない場』と認定している。新幹線のいわば神聖性——公共交通という空間が備えるべき特質としての——は、本事件により泥を塗られた感がある。新幹線に対し、という論点にとどまらず、今まで積み重ねてきた高度な社会性を無に帰しかねないという意味において、「犯人」の罪はきわめて重い。





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