このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください





重大事故の再発は防止された
——それでも安全確保に終わりはない——





■朝日新聞平成27(2015)年8月5日付記事より


急停車 車内に悲鳴
JR架線事故「真っ暗で蒸し暑く」


 (本文略)





■神奈川新聞平成27(2015)年8月6日付記事より


架線トラブル 停車ミスし切断か
JR東「指導徹底努める」


 (本文略)









■コメント

 平成27(2015)年 8月 4日、根岸線横浜−桜木町間で架線切断事故が発生し、長時間にわたる運休が生じた。時あたかも横浜港での花火大会などで人出が多い時間帯での事故となり、混乱が他線にも波及し、たいへんな一夜となったようだ。

 事故の原因はさまざま推測されていたが、エアセクションにパンタグラフが当たるよう列車を停めてしまったのが原因、とJR東日本は発表した。すなわち、平成19(2007)年 6月に発生した、東北本線さいたま新都心−大宮間で発生した事故と同様の原因、ということになる。

 ……であるのに何故この表題なのか、訝る読者諸賢も多いことだろう。エアセクション停車事故の再発に関しては、他にも論じる方が多いであろうことを見越し、筆者は敢えて別の断面を論じたい。「重大事故の再発は防止された」のだ、と。

 当該事故のTV報道のなかには、まさに事故発生時、盛大な火花を散らしている列車の映像を流したものがあった。いったい誰が録画したのだろうか。事故の実状を記録するという意味において、貴重な映像といわなければなるまい。

 筆者がこの映像から真っ先に連想したのは、昭和26(1951)年 4月24日の桜木町事故である。桜木町事故は、当該事故とは様態がやや異なるものの、架線事故が原因という点では共通しており、先頭のモハ63756 が全焼、続くサハ78144 が半焼、乗客 106名が死亡、92名が負傷という、鉄道史に残る大事故になった。

 当時はまだ、戦後の荒廃が色濃く残っていた時期にあたる。特に全焼したモハ63は戦時設計のため安全対策の不備があまりにも多すぎた。そんな車両が多数運行されていた時期が、日本には遠からぬ昔にあったのだ。

 当該事故において、車両が 233系でなくモハ63756 だったならばどうだったか。屋根が木製のモハ63756 には着火した可能性が高い。その一方で、 233系は車体の一部が焦げるにとどまった。

 今年は戦後70年。桜木町事故から数えれば64年が経過する。歳月の積み重ねよりも安全にかける努力の積み重ねがまさり、桜木町事故の再発防止に寄与した、といってもよいのではなかろうか。日本の鉄道技術者の功績の一つ、と評価することもできよう。

 さは然りながら、当該事故が免責されるわけではないから、安全確保の道は長く厳しく苦しいものだ。当該事故で車中に長時間閉じこめられた乗客の方々に「第二の桜木町事故とならず幸運でしたね」と言ったところで、納得してもらえるはずもない。

 時代が進むにつれて、求められる安全のレベルもまた上がっているから、まさに終わりがない道のりとなっている。日本の鉄道技術者は、今までの功績を胸に秘めつつも、それを誇るよりむしろ、遠く長く厳しい道に臨む気力を奮い立たせなければならないのである。





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