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You are fired !





■平成29(2017)年東京都議会議員選挙

 投票日から一と月以上も経っているため「何を今更」感は伴うものの、いちおう所感を記しておこう。ただし、本題に入るにあたり、五年前に書いた過去記事の一部を引用することを許して貰おう。



・「絶対正義の憂鬱」より(平成24(2012)年 7月21日)


 重要なのは「公立小中学校とその先生は『古くからの住民』を優先しがち」という習性である。筆者は、この公立小中学校の先生の習性を、自分自身と子の二度に渡って実体験する羽目になっている。また学校という場でなくとも「古くからの住民」が世論を主導する場面は、それこそ何度も経験してきた。これに一般性があるかどうかは知らぬ。しかし、筆者は「先生・教師とはそういうもの」と確信している。

 公立小中学校という世界において、「新住民」は「古くからの住民」には抗いがたい。人数によほど大差がつかない限り、「古くからの住民」の発言力は圧倒的に強い。学校・先生が「古くからの住民」を尊重するというのは、学校を穏健に運営する観点からすれば実は理にかなっていたりする。残念ながら「新住民」にとって学校も先生もまったくあてにならない。

 TVで放映された記者会見を見る限り、教育委員会と校長には当事者意識皆無、としか評せない。まして滋賀県である。行政が何もせずとも、人口は増え、産業が根づいてきた経緯がある。世間の荒波に揉まれることなく安穏と過ごしてきた人材に、今日的な有能さを求めても無理というものではないか。

 これは事なかれ主義とも違う。記者会見から感じるのは、教師という職に就いたことで特権階級に封建されたと心得違いし、努力も成長もやめて停滞した、役立たずな無能者の姿である。かくも無為無策な人物を筆者は嫌悪する。





 所謂「大津いじめ事件」について論じた記事である。全体の論旨は筆者含む多くの者が「絶対正義」を掲げる形で“犯人”を断罪する現象を憂いたものである。筆者自身が何度か嫌な目に遭ってきたことから、本旨からは逸脱しているものの、学校・行政への批判の筆致が厳しくなっている。当時の心境を思い返すと、第三者ながら「熱く」なっていたと記憶する。

 おそらく、その「熱さ」は多くの都民にも共有されていたのではないか。引用記事中の「学校」を「都政」に、「先生」を「都職員」に、「教育委員会と校長」を「都議会議員」に、それぞれ置換すれば、今次都議会選挙直前の状況に実によく合致するように思われてならない。  そもそもの状況をいえば、都政や都議会は都民の生活から最も遠い存在である。身近な生活のさまざまなことは区市町村行政・議会と関わりが深い。マスメディアに報道されるような大きな動きは国政・国会マターである。都政・都議会はニッチに置かれているともいえ、都政に関わりあるといえば警察・消防・救急・交通・上下水道・教育……といった線の領域くらいしかすぐには思いつかない。

 ニッチな領域に対する興味・関心は、当然ながらニッチになる。それゆえ都政・都議会の活動は興味・関心の対象にはなっておらず、衆人の目が届いているとはいえなかった。他人の目を意識しない者の服装センスには難が多いのと同様、衆人の目を意識しない都政・都議会の行動原理には前時代的な古さが温存されていた。

 そう、都政・都議会の体質は古い。敢えて筆者の個人的感覚を記すならば、五五年体制なんぞはるか彼方に通り越し、江戸時代の如き古色蒼然を感じることさえある。ごく少数の「古くからの住民」が意志決定を寡占し、圧倒的多数の「新住民」が排除されるばかりか、情報も行き届かないという途方もない古くささが、世界的大都市東京にはある。東京を支える原理は江戸時代そのまま、と言い切りたいほどだ。

 どのみち多くの都民はサラリーマンとして会社組織に帰属しているから、都政・都議会への参画は難しい。しかしながら、これら都民の多くは自らを「知的・進歩的・開明的」と認定しているから、古くさい人間や組織を許せない心理をも有している。

 そんな都民の前に旧態依然とした都政・都議会の実態が晒されてしまった。怒りを買うのがむしろ当然で、燎原の火の如き状態まで一気に飛んでしまった。今次都議会議員選挙における都民ファーストの大躍進、自民党の大惨敗は、多くの首長選挙で見られる「現職に対する批判」と同様の現象、と筆者は認定する。

(国政の問題は実はほとんど関係ない、と筆者は見ている。それなのに、関連づけた動きが現実に進んでいる点は、「政局」の怖ろしさを端的に示している。なお、この点は本稿の主題ではないので、これ以上の言及は避ける)

 ごくごく単純にいえば、多くの都民は「落選運動」を実践したにすぎない。結果が極端であるがゆえ、社会現象になってはいるが、多くの都民は古くさい都議会議員に対し、

“You are fired !”

……と宣告したにすぎないのである。それ以上でもそれ以下でもなく、都民ファーストが都政を改革できる保証は全くなく、東京大改革実現の可否は彼らの志と能力に依存する。すでに古くさい情報統制が行われつつある様子がうかがえ、過大な期待は持てない。





■君子豹変には期待する

 繰り返しになるが、都民ファーストの今後について、筆者は過大な期待を持っていない。多くの都民が有する「知的・進歩的・開明的」基準をクリアし続け、都民の都会的ニーズに応えられる政党に育つならば、それこそ「大改革」達成といえるが、あまりにもナロー・パスに過ぎ、成功は難しそうだ。

 ただし、都民ファーストを率いているのかどうかさえ明確にしていない、小池都知事の豹変ぶりにはまだ期待が持てる。今次都議会議員選挙に関する言動を通じ、都知事選出馬時には「軽鉄道アベ」如きの口車に乗せられていた状態でいたところ、今では解消されている(らしい)ことが確認できたのは収穫だった。

 世の中には「アベ政治を許さない!」と声高に叫ぶ連中もいるが、筆者はそんな軽薄な言葉を掲げたりはしない。そのかわり「軽鉄道アベなど許せない!」とは絶叫したい心地は多分にある。

 技術的な裏づけもなく、実現可能性ゼロ同然の妄想を振り撒くばかりか、高位政治家に吹きこむ無神経さは迷惑至極といわざるをえない。高位政治家が出来ないことを出来ると思いこむのは、多くの人間・組織が振り回され、大混乱の基にもなりうる。鳩山元首相の事績が典型例であるのに対し、小池都知事は同じ轍を踏む様子は(今のところ)なさそうに見える。都知事の権限は強いものの、一人で何でもできるわけではない。小池都知事はどのような都知事になっていくのだろうか。





■蛇足的補遺

 この原稿の下書を寝かせている間、現実世界の筆者は、某区が主催する行事に参加した。もちろん、筆者自身がその行事に呼ばれたわけではない。「筆者の肩書」が呼ばれた、ということにすぎない。筆者個人はその行事に幾つもの大きな「?」を付けたいところだが、現実世界の筆者はその行事への参加列席が「役目を果たす」ことになる。

 行事当日、会場に着いて驚いた。呼ばれたにもかかわらず、席が用意されていないのである。筆者だけではない。基調講演の大学教授まで、傍聴席に通されたのには目を疑った。席があるのは区議ほか関係者のみ。区役所内への気配りのみ厚く、外部第三者に対し冷淡というのは、無礼である以上に、無神経というべきであろうか。

 幸か不幸か、筆者は区政・都政に参画する機会が投票行動以外に今までなかった。垣間見る機会さえなかった。事実上初めての機会を得て驚かざるをえない。区政・都政は旧態依然だ、と。

 区政・都政に携わる者は心するがいい。外部第三者はものいわぬ子羊ではない。筆者は改めて訴える。区政・都政は旧態依然だと。老獪な都知事とひよっこ議員団にはさまれ、混乱のなか経験値を上げていくがよい。





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