このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
「のぞみ」シフトを検証する(感想戦編)
■なぜこの立論を展開したか
筆者は、実をいうと「のぞみ」愛好家である。東海道・山陽新幹線に乗る機会があれば、第一選択肢として「のぞみ」を選び、空席がない時に限って「ひかり」を選ぶという行動を採る。「のぞみ」による時間短縮効果は付加料金に見合っていると認識しているからであるし、また目的地への到着時刻から逆算すれば必然的に「のぞみ」を選ばざるをえないという状況もある。
乗車機会は、しかし決して多くはない。近年では年数回程度。最も多く利用した年でも10回は乗っていない。要はスポットユーザーにすぎない。
その一方、筆者の「のぞみ」乗車時には常に大混雑が呈されていたことも事実である。その日のうちに目的地に着くため、「のぞみ」グリーン車を押さえざるをえなかったことさえある。当日の東京駅の新幹線ホームは、山手線ホームなみに混雑していたものだ。
そのような自分の感覚と経験があるため、ヘビーユーザーから「のぞみ」に対する強い不満が呈されたことに違和感があった。本論を展開した理由の第一は、「のぞみ」シフトの妥当性を、ヘビーユーザーの不満を含め理論とデータを駆使して検証してみたかった、という点につきる。
本論を興そうとしたもう一つの理由は、エル・アルコン様の立論に対するものたりなさを感じたからである。当世きっての論者であるエル・アルコン様は、定性論において特に素晴らしい立論を呈されておられる。しかしながら、理論面を補強していないために、実はヘビーユーザーの不満を高度化して記述しているだけではないか、という疑念を筆者は持った。ユーザーとして不満と、特定ユーザーに不満を与える営業戦略が妥当ではないという立論は、決して一対一で直結されるものではない。
ヘビーユーザーに対してはスポットユーザーとしてややシニカルな視点で、「のぞみ」愛好家としては「『のぞみ』が受容されていないなどありえるものか」という感情を持ち、そして一分析者としては公正中立を旨として、「のぞみ」シフトを検証した成果が本論である。
■強い衝撃
本論における利用者便益分析は、エル・アルコン様の立論をトレースしたものである。要するに、同じ論旨を異なるアプローチで表現したにすぎない。
問題は、データ分析である。この結果は、正直なところ衝撃だった。「のぞみ」は利用者に受容されていない。しかも長距離区間において。山陽「のぞみ」は現時点では明確に「失敗」と断じなければならない惨状を呈している。
「信じられない」という感情がまず先に立った。「のぞみ」は長距離区間でこそ特長を発揮すべき列車であるというのに。しかし、事実は事実である。黒を白と粉飾することはできない。なぜ「のぞみ」が受け容れられていないのか、その理由を考察することはやや難しかったが、全体としては整合のとれた分析にまとめたつもりである。
それにしても、山陽「のぞみ」の失敗は、エル・アルコン様も指摘しえなかった一種の「新事実」とはいえまいか。これを掘り起こしただけでも本論を興した意義はあったのではないかと、ひそかに自負している。
■本論を通じて得られたこと
エル・アルコン様は定性論を呈する実証派論者の代表格といえよう。その一方で、筆者は理論とデータをもってアプローチするタイプである。従って、時に実態を知らないまま立論する弊を免れえない。本論においては、まったく恥ずかしながら、「新幹線ビジネスきっぷ」の存在を知らなかったほどだ。
定性論者と定量論者。迂闊に対峙すると平行線になりかねないが、このたびの議論では双方に得るところが多かったのではないかと思っている。実際のところ、筆者には新しい発見がいくつかあったし、エル・アルコン様にも同様の発見があれば幸いである。
実体験と理論・データをあわせることにより、議論がより深度化できたのではないか。そして、実体験と理論・データのどちらにも偏することなく論じることが、よりよい議論につながるともいえよう。筆者にしても、ヘビーユーザーの実際の利用経験談を踏まえてこそ、初めて確信を持って分析できた事柄が何点かある。その逆もまた真であってほしいものだ。
ところで、データを活用する際には、当局者のコメントを引用するばかりでなく、独自の分析を加えることもまた重要である。その観点からすれば、ライターの実乗記及び当局者へのインタビューを主体に、即ち客観的分析に重点を置かないままで「のぞみ」礼讃を展開する鉄道ジャーナルの姿勢は、危ういと評さなければならない。実態は本論の如しであるというのに、「のぞみ」に対してほとんど無批判というのは如何なものか。
「のぞみ」愛好家の筆者でさえ、事実を知れば、考えや姿勢を改める。鉄道ジャーナルにその兆候が見えないことは、事実を把握する能力の乏しさを示唆するものであり、世論をミスリードするという意味では大問題でさえある。鉄道ジャーナルの誌面から得られるものはもはや失せつつある、とは筆者の確信であるが、読者諸賢はどう思われるだろうか。議論を通じて相互に検証・啓発し、より高度で深度化された成果が得られる場がある今日では、存在意義を大きく減じていると、筆者には思われてならないのである。
勿論、筆者が「青」であるなどと自惚れるつもりは毛頭なく、それはエル・アルコン様においても同様であろう。しかしながら、われわれ(と敢えて記させて頂く)がテキストとして学んできた書物において、「藍の褪色」が急速に進みつつある現状は、憂え悲しむべきで事態ではある。そのテキストが昔日の「ひかり」を回復する「のぞみ」はおそらくない。「良禽は木を選ぶ」といわれるように、交通論を論じる意志のある論者は、枯木を捨て新しい木を選ばなければならないだろう。
やや発散気味にはなったが、以上をもって本論のまとめとしたい。
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