このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
「天国の階段」から連想して
世をにぎわせた「韓流」ブームとやらは、どうやら一時の打ち上げ花火で終わりそうにない。特にドラマの世界では定番としてすっかり根づいた観がある。近年つくられた日本の「ぬるい」ドラマに慣れきった視聴者にとって、韓国の「熱い」、ともすれば暑苦しいほど強い感情に満たされたドラマは、確かに人の心の琴線に触れる強さがあるといえよう。
筆者の感覚でいえば、実をいうと「冬のソナタ」にはあまり感心しなかった。なるほど出てくる景色は美しく、また主題歌のピアノ・ソロにはぐっと湧きあがる感情すら覚えるほどだ。しかし、肝心のシナリオに相当な無理があり、登場人物の姿を曖昧なものにしていたので、感情移入することがどうしてもできなかった。
その無理とは、敢えて対比するならば「風とともに去りぬ」に似ている。スカーレットが最初に「私はアシュレと結婚したい」と言ったとき、スカーレットの父は「よしておけ。アシュレはおまえには向かない」と諭した。そこでスカーレットが「確かにそうよね」と納得していたならば、その後に続くドラマはまったく成立しなかったに違いない。実際のところ、終盤でスカーレットは「なぜ私はアシュレに憧れたのだろうか」と自問しているほどで、ドラマとして破綻している傾きさえあった(※)。その種の無理が「冬のソナタ」にもあったと、筆者は見ている。
※その意味において、スカーレットをドラマの主人公とした映画版「風とともに去りぬ」は壮大な駄作と評するべきである。原著「風とともに去りぬ」は、スカーレットを主人公ではなく“狂言回し”として扱っており、いわば「アメリカ南部人魂列伝」と呼べる内容になっている。そのため原著「風とともに去りぬ」は不朽の名作となった。
それと比べ、「天国の階段」は実に面白かった。ハマったと形容してもよい。とにかく登場人物の多くが愚か、つまり人間くさかった点に強い好感を持った。副主人公のテファ(申鉉濬/シン・ヒョンジュン)の葛藤と煩悶、そこからの人間的成長、そして献身には感涙を禁じえなかった。主人公チョンソ(崔志宇/チェ・ジウ)が失明する前後の動揺は、まさに微妙な女心をうまく表現しており、心打たれるものがあった。このほか、テファの実父の愚かさに至っては、芸術的領域と呼ぶべき好演であり、終始楽しむことが出来た。
さて、もう一人の主人公ソンジュ(權相佑/クォン・サンウ)である。彼は細身ながら運動神経抜群、しかも美男である。筆者の娘(3歳になる直前)でさえ「この人好き〜。顔が〜」と認識するほどであり(※)、ドラマにはかような「鑑賞」の要素があると痛感させられる。いわゆる「ヨン様」ブームも、ブームを支えた中高年女性が一致団結して「ヨン様」を「鑑賞」の対象に選んだがゆえのブーム、とみなすことも可能であろう。
※なお娘は「ワンピース」のサンジのことも「格好いい〜」と認識しているらしい……。どういう美的センスなんだろうか。謎が多い。 そのソンジュ、ドラマの中ではよく走った。テファも一生懸命に走ったものだが、やや鈍重な感じが伴った。これと比べソンジュの身のこなしは軽々としており、まるで駿馬のよう、同性の身から見ても惚れ惚れとするしなやかさであった。「天国の階段」全編を通じて最も強く印象に残った場面として、バスに乗ったチョンソをソンジュが追いかけるシーンがある(※)。ソンジュは如何にも軽やかに追いついたが、普通の人間にとっても、赤信号にあうたび止まるバスに追いつくことは必ずしも難事ではない。
※美男が駆け足で自動車を追いかけるというシチュエーションからすると、このシーンは映画「ターミネーターⅡ」のパロディに違いない!
つまり、人間はバスがなくとも生きていけるのである。ただ、社会生活を営むうえで、楽をしたい、あるいは時間を節約したいというニーズがあるから使っているにすぎない。近距離の輸送を担う交通機関は概ね表定速度が低いから、バス以外の交通機関にも同様のことがいえる。
例えば 4km先に歩いていくならば、だいたい 1時間で歩きとおすことができるだろう。歩きでなくバスに乗るならば、所要時間15〜20分というところか。さてこの所要時間差、有意なものと呼べるだろうか。
勿論、近代社会の生活サイクルの中では、有意なものといわなければならない。しかし、近代成立以前の社会では、人間の移動手段は基本的に徒歩であったことを考えれば、徒歩を前提とした生活サイクルの構築は、いちおう可能であるはずだ。近代社会とは、かような生活サイクルを敢えて見直すことによって成立したともいえる。
人間は、近代社会をつくりあげていく過程において、便利さを享受するようになった。そしてその代償として、化石エネルギーを消費していくことにもなった。地球はどんどん暖かくなっている。大気圏外の宇宙は絶対的に寒く、熱が逃げていくから、どれほど化石エネルギーを燃やそうとも、いずれは必ず冷却される。ただし、大気圏は熱エネルギーのバッファであるから、一時的な急上昇は免れえない。いわゆる地球温暖化である。
いったい人間はどうすればいいのか。化石エネルギーの燃焼を今すぐやめられるならば話は簡単だが、近代社会を運営していく中ではあまりにも摩擦が大きすぎ、現実性はないに等しい。
次善の策としては、マイカーの利用を控えることだ。そのかわりに公共交通を使おう、などと陳腐なことは決していわない。ただ「歩けるところは歩こう」とだけ記しておく。韓流スターの域まではいかずとも、人間は自らの肉体を駆使するべきなのだ。
近代社会を営むにあたって、通勤手段にマイカーと公共交通のどちらを選ぶかは、実はそう大差ない(差があることは確かだが)。しかし、「その先のコンビニまでジュースを買いに行く」程度のことでマイカーに乗るならば、それは明らかに化石エネルギーの浪費であり、社会的影響がはるかに大きい。決然としてやめるべきなのだ。
画面の中を駆け抜けていくソンジュやテファの姿は、確かに格好いい。どのみち生きていくならば、彼らのように格好よく振る舞いたいものだ。その格好よさが「鑑賞」の対象ではなく、「実践」として昇華していくならば、近代社会はさらなる階梯にのぼっていく可能性もあるのである。
※本稿はリンク先「交通総合フォーラム」とのシェアコンテンツです。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |