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「一億総検非違使時代」に生きながら





 「小説十八史略」(陳舜臣)を最初に読んだとき、読み進めていけばいくほど、えらく退屈で疲れた覚えがある。たとえ長い物語であっても、例えば「三国志演義」や「龍馬がゆく」などでは、そのような感覚は持たなかった。「十八史略」の場合、隋の興亡あたりを境にして、エピソードが重複していくことに飽きてきたのである。陰謀、策略、後宮での暗闘、派閥争い、嫉妬と野心、欲望と放恣、忠誠と裏切り……。時代が進むにつれて、登場人物が次々に入れかわっていっても、やっていることは変わらないではないか。人間の本質というものは、千年の時を超えても変わっていないし、あるいは変わりようがないのかもしれない。

 現代に生きる我々に人生訓を与える書として、例えば「三国志」が使われることがある。ところで、冷静に考えてみれば「三国志」は千八百年前も昔、日本でいえば卑弥呼の時代なのである。そんな昔の人物の言動が、現代の我々に教訓を与えられるのだから、やはり人間の本質というものは変わらない、変われないのだと考えざるをえない。

 してみると、「今どきの若い者は」とか「昔の人は立派だった」という類の、紋切り型の時代認識は、いかにも粗っぽいものといえよう。嘆かわしい若者は確かに存在するし、立派で偉大な先人も確かに存在する。その一方、立派で将来が楽しみな若者も確かに存在するし、愚かな行いしか出来なかった先人もまた確かに存在するのである。

 前置きが長くなった。今日の日本の状況を説明するにあたり、文明開化からさらに高度成長を果たした時の「日本人の美質」が失われた、といわれることがある。

  「勤勉」
  「緻密」
  「几帳面」

 などなど。これら美質を備えた先人たちは、確かに存在したはずである。しかしながら、人間の本質が大きく変わることがないと考えるならば、これら美質を備えていない人々が実は多数を占めていたといえないか。いま自分の周囲にいる人々を見回すと、それを強く実感せざるをえない。勤勉で緻密で几帳面な人物は確かにいるが、そうでない人物も確かに、しかも多くいるではないか。

 人間の本質が時代を経ても変わるものではなく、過去から現在まで相似形であるならば、現代の状況から過去を類推するのは、あながち無茶なことではあるまい。念のため記しておけば、これは歴史を学ぶ者の態度とはいえない。過去を知るためには、過去の時代状況をよく認識しておく必要があるからである。しかし、それだけで人間の「心」を推し量るのは難しい。例えば日記などの一次資料に具体的な記述があったとして、その日記の著者がどのような「心」でその事象を受け止めたかという部分は、現代に生きる我々の「心」を尺度にせざるをえない。つまり、それ以外の方法を見出しにくい、ということである。



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 筆者は最近、ある地下鉄を頻繁に使うようになっている。まだ日が浅いにもかかわらず、他都市の地下鉄ではまず見られない状況に、頻繁に出会っている。

 まず、新紙幣対応の自動券売機が少ない。大きな駅でも半分ほどの設置、せっかく行列しても新紙幣が使えず、並びなおすことが何度かあった。また、自動改札機の作動精度が低く、乗車券に特段の異常がないのに、改札機にとりこまれたことも一再ならずあった。これは筆者だけの経験ではなく、改札機が作動せず立ちつくす利用者の姿を、かなり高い頻度で見かけている。

 さて、先に筆者は「他都市の地下鉄ではまず見られない状況」と簡単に記したが、そのように断定してしまってよいのだろうか。人間の本質が時間空間を超えて不変であるならば、ほんらい「他都市でもよく見られる状況」でなければならない。しかし、現実がそうでないならば、その現実を導くような“バネ”が作動しているに違いない。

 話は飛躍するが、現代は「一億総検非違使」時代である。検非違使とは、非違を検める務めである。時代状況が閉塞しているせいなのか、相手に非違を見出した瞬間、徹底した攻撃性が発揮される事例があまりにも多くないか。雪印食品のように、高名なブランド力を持っていたはずの企業が潰えた事例さえある。しかしこれも、人間の本質が時間空間を超えて不変であるならば、時代の推移に応じ表現方法が変化しただけと考えなければなるまい。

 こうして考えてみると、日本が加工貿易というビジネスモデルを構築し、高品質低価格の製品をもって世界市場を手中におさめ、高度成長を果たしてきた“バネ”がどこにあるのか、なんとなく見えてくる。それはおそらく「勤勉」で「緻密」で「几帳面」な「品質の検非違使」が存在していたからであろう。その検非違使は企業の中にいたかもしれないし、製品のユーザーであったかもしれない。微に入り細を穿つような目をもって、製品を厳しく評価してきた積み重ねが、その品質と付加価値を高め、今の日本の繁栄を築き上げたといえる。

 首都圏の鉄道には、まだまだ「品質の検非違使」が多数存在するのであろう。それゆえに、新紙幣対応の券売機が短期間で設置され、自動改札機の作動精度も高い。利用する側は確かに快適だ。その一方、運営する側にとっては、ひどく息苦しい状況である。

 そして、相手の非違に乗じて攻撃するという態度は、客観的に見るとなんとも浅ましい。自分を安全地帯に置いて他者への攻撃にいそしむというのは、狡くもある。しかし、それが不変なる人間の本質であるならば、まず受容しなければならないのだろう。人間の本質は、所詮、進歩成長しようがないのだろうから。

 ただしそうはいっても、その本質がどのように顕現するか次第で、社会の様相は大きく変わってくることも確かである。本稿で紹介した事例でいえば、重箱の隅をつつくような細かさで券売機や改札機の性能を評価するのか、それとも私が使うようになった地下鉄のおおらかさが受容されるのか(この場合「検非違使」の本質がどういった面で発揮されるのか気になるところだが)。どちらを選択するかにより、世の雰囲気そのものが変わってくるに違いない。

 筆者の個人的感覚でいえば、後者が好みである。そして交通の世界でも、遅れ・故障・不備・トラブルなどは意外に広く受容されていると思われる(※)。「品質の検非違使」といったところで、一点集中にすぎないのであれば、些末な一点が全体を支配しているともいえ、本末転倒であろう。

 繰り返し記すが、これはあくまでも筆者の個人的感覚である。こむずかしく書き連ねてはきたものの、単に「息苦しく生きるのはごめんだ」と思っているにすぎない。

※生命財産に関わる類のものは、当然除外されることが前提である。
 もう一点念のため記せば、筆者はサービス水準の低下そのものを許容しているわけではない。向上心と競争原理は文明生活に不可欠な要素である。しかし、一種の割り切れなさと自分自身の“揺れ”が、本稿を興す起動力となっている。
 本稿の事例でいえば、以前の筆者は、筆者が使うようになった地下鉄に対し「あまりにも遅れている」と指摘したであろう。しかし、これを標準と受容してしまうならば「首都圏の鉄道は潔癖すぎるほど過度に進んでいる」とみなすことも可能なのである。
 運営する側が自らの良心に基づき敢えて「進んで」いるならば、なにもいうことはない。しかし、もし仮に「品質の検非違使」に追い詰められて得られた成果であるならば、それは健全な状態ではないと考える次第である。人間は、長い緊張に耐えられるいきものではないのだから。





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