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本質需要と時間つぶし
■交通需要の性質
まともな交通論を勉強する機会があるならば、かなり早い段階で、以下の表現に出会うはずである。
「交通とは、本質的に派生需要である。交通そのものを目的とした需要は存在しない」
これは公理として、全ての方に納得いくものであろう。毎日通勤ラッシュに揉まれるのは、勤務先に出勤するためであって、電車に乗ることじたいが目的ではない。礼服を着て空路を往くのは、遠く離れた場所での冠婚葬祭に参じるためであって、飛行機に乗ることじたいが目的ではない。移動はあくまでも手段であって、交通機関に乗ること、移動することそのものが目的となる需要は存在しない。
ただし、あくまでもこれは原則にすぎず、当然ながら例外も存在する。観光・レジャーがまさにその例外といえる。例えば、関東上空を遊覧飛行する、知床半島沿いに航行する遊覧船に乗る、TDLのウエスタン・リバー鉄道に乗る、といった行動は、詰まるところ同じ場所に戻ってしまうわけだから、移動が手段になっているわけではない。移動じたいが目的になっているという意味において、数少ない交通の本質需要であるといえる。
では何故、人間はそのような行動を起こすのか。感性を磨くため、人生を豊かなものにするため、日常の疲れを癒すため、……等々さまざまな説明を与えることが可能だろう。ここで筆者は、敢えて綺麗な表現を採り上げず「時間つぶし」のため、という説明をしてみたい。そのような身も蓋もない説明をする理由について記す前段階として、話題を一旦横道にそらそう。
20年ほど前に、パチンコに対する規制が大きな社会的問題になったことがある。批判の代表的見解は、射幸心を煽ること強く、事実上賭博と化しており、経済的破綻と家庭生活の破壊を招いている、というものだった。
今日の状況はどうだろうか。パチンコ(スロット)店は、当時よりも確実に増えている。駅前の目抜き通りにも、郊外のバイパス沿いにも、石を投げれば必ず当たるといってよいほど大型店が乱立している。しかも、まだまだ新規の出店は続きそうな勢いなのだ。これだけ店が増えているのは商売になることにほかならない。もっとも現実には店数・売上高とも漸減傾向をたどっており、参加人数は平成 8〜10(1996〜1998)年にかけて3分の2程度の水準まで一気に急減し、以降横這いで推移しており、縮小均衡を果たし続けている状況ではあるが。
楽しみ方にも変化が見られる。通勤電車の中吊広告を見比べていても、以前は稼ぐための必勝法が主流を占めていたはずだが、今日では如何にプロセスを楽しむかという方向性に転じているように見える。その助けとなっているのは液晶画面に出てくるキャラクターで、オリジナルの「海物語」、過去の人気コミックをあしらった「北斗の拳」、最近では「エヴァンゲリオン」などまでが登場しており、感情移入し(のめりこみ)やすいような工夫が凝らされている。
※筆者の隣家で建て替え工事を行った際、今の家を解体する業者の親方が「マリンさん」と呼ばれていた。風貌といい立場といい似つかわしくない呼び名だと思ったものだが、彼が「海物語」に熱中していたとするならば、かなりわかりやすいところである。
では何故、日本人はパチンコに熱中し、安定的な市場を形成するに至ったのか。筆者は今までまったく理解できなかったのだが、最近突如として観えてしまった。おそらく日本人は、生き続けていくことに退屈しているのだ。高度成長を果たし、生活水準が向上し、日本人の可処分時間は劇的に増えた。しかしながらその一方で、文化的な趣味領域が社会のなかで成長したといえるかどうか。残念ながら否である。
日本人は、全体としては悲しくなるほどに無趣味だ。近頃では「下流社会」に転じたというが、「一億総中流時代」の中核には文化(※)が大樹として育たなかった。パチンコだけではなく、コミック・TVゲーム・携帯電話など、世の中に広く普及した行動様式は基本的に時間つぶしの要素が濃厚で、文化とは到底いえない。
※ここでの「文化」とは極めて狭義の意味で用いているので御留意ありたい。音楽・絵画・文学など「culture =耕す」という原義を経て「古典」となりうる領域のものをさす。いわゆる「町人文化」という表現は、庶民層に広く共通する行動様式という意味を超えていないと、ここではみなしている。
「子を持って知る子の恩」という言葉の存在を知って、筆者は妙に納得した覚えがある。それはつまり自分もまた無趣味であることの裏返しでもあるのだが、子がいるとそれだけで、人生の道のりに彩りが増えたように思えてならない。
人間とは、長い人生を生き抜くための目標を持ち続けにくい生きものであるに違いない。うっかりすると人生はすぐ退屈に満たされてしまう。仕事に邁進する、趣味を究めるなど、前向きな方向に人生の道のりを築ける人は幸せだ。大多数の平凡な人々は、耕すべきものを見出せず、退屈な時間をつぶすことに流れてしまう。いわゆる「中流」層に幅広く共有される文化的趣味領域を構築できなかった、日本社会の弱みがここにある。
だから筆者は最近、TVのワイドショー番組に対し、批判的感覚を持っても仕方ないと諦めつつある。なにか話題があると集中豪雨のように殺到し、ハイエナのように取材対象をむさぼり尽くし、映像を無批判に垂れ流すありさまは、確かに醜いとしか形容のしようがない。しかしながら、何故そのような番組が求められるかを考えてみれば、根強い需要があると思い至らざるをえないのだ。かような番組はまさに「時間つぶし」に好適なもので、建設的な内容が皆無に等しいにもかかわらず、退屈な人生を送りつつある日本人の心の隙間を良く埋めているといえよう。
※この前半部分については、匿名の読者の方から指摘を受け、より正しいと思われる記述に改めている。ここに明記することで、感謝の意を申し上げたい。なお、パチンコ業界に関するデータの出典は
こちら
。
■「時間つぶし」のしっぺ返し
さて、いよいよ本題である。
ライブドア事件は、さまざまな切り口に変形しながら、今でも世を賑わし続けている。筆者は実をいうと、堀江が違法行為を働いたか否かについて、ほとんど興味がない。筆者は堀江の手法をまったく支持していないし、嫌悪感すら覚えるからだ。
経営の先達の中には、偉大な人物と尊敬を受ける一方で、その手法が「えげつない」と評される方が少なくない。しかしそれは人間の二面性というべきであって、そのどちらも本質であるからこそ、成功をおさめてきたのであろう。つまり「えげつない」という一面だけをもって、その人物全体を否定するのは避けるべきなのである。
それでも筆者は、堀江の手法に関して否定的な見方をとる。何故なら、筆者の目には、堀江は事業を展開する経営者ではなく、危険な投機を繰り返し偶然に勝ち続けているだけのように映ったからだ。「投資」と「投機」では意味がまったく異なる。前者には理想や信念が必要だが、後者にはそんなものが一切なくとも利益を得ることができる。ニッポン放送買収騒動の際、堀江は買収により達成されうるメリットを、誰にでも理解できるような言葉で説明できなかった。説明できないということは、説明する能力がないか、説明に値する内容がないか、いずれかである。堀江が日頃から自己の優秀性を強調していた以上、後者であると認定せざるをえまい。
事業によって得られる利益は正当な報酬といえるが、投機によって得られる利益は浮利−−あぶく銭−−にすぎない。しかしながら堀江は、自分の価値観と手法の正当性を主張してやまず、さまざまなメディアに露出し続けた。その内容は筆者にとっては採るに足らない詰まらぬものであったが、若い世代を中心に支持が広がったことは注目に値する現象であった。もっともそれは、「自分にも同じ成功が出来るかもしれない」という期待感、即ち閉塞している若い世代独特の功利性に過ぎないともみなせよう。
このように支持層を拡大する行動は、堀江にとって不可欠なものといえた(※)。支持層拡大行動を通じ、堀江は世の人々を動かしている、もっときわどい表現をすれば「支配している」気になっていたに違いない。しかし、堀江には大きな見落としがあった。堀江は頭の回転がよく目端の利く男であったかもしれないが、人間というものをあまりに知らなさすぎた。世の人々の欲望は、堀江の思惑を大幅に超え、堀江を使い捨てたのである。……「時間つぶし」の格好の材料として。堀江自身にとってはまったく不本意ではあろうが、拘置所に放り込まれた今でも世の人々を楽しませる素材になる(時間つぶしの材料になる)というのは、堀江手法が導いた「想定の範囲内」の流れといえよう。
※すぐれた投機者は自分の手法をまったく開示しないものだ。理由は単純かつ当たり前、成功のノウハウを極秘とすることで、得られる利益を最大化するとともに、新規参入者を排除するためである。違法行為すれすれの手法に対する支持を広げるため、堀江が自己を露出し続けたのは、投機者の禁忌を冒すものであり、相互に矛盾する二律背反であった。堀江がいずれどこかで必ず行き詰まることは、その意味において必然の帰結といえよう。
投機を追い求めた堀江が悪いのか、時間つぶしに流れる世の人々が情けないのか、すぐに答を求めるのは性急に過ぎるかもしれない。ただ、文化的趣味を持たない(人生の目的を持たない)という意味において、両者が相似形であるのならば、現代日本の皮相な状況が象徴されているとはいえる。
堀江が本当に違法行為を働いていたのか、未だに確証は持てない状況にある。ただし、筆者が思うところでは、堀江の最大の罪は、賭博的な投機により得られた浮利を「成功」と錯覚させ、しかも若い世代を中心にその「成功」を自分も手に出来ると幻想させた点にある。その罪滅ぼしはおそらく「時間つぶし」の材料となり続けることでしか果たせないのかもしれない。それは人間の業、より正確にいえば日本人の業に順う必然であり、世の人々を動かそうとした報いであるに違いない。
そして堀江の軌跡は、メディアに露出し続けることで自らの信念や手法の正当性を主張する者の末路を暗示しているように思われてならない。世の人々を動かそう(支配しよう)と思った瞬間、世の人々の痛烈なしっぺ返しが始まるのだ。人間の欲望はリヴァイアサンに等しく、制御しようと意図して出来るものではない。なにしろ億を超える人々の「人生の本質」に生身で触れてしまうのだから、神か悪魔でない限りなしうる業ではあるまい。
交通の本質需要から意外と思われる方面に話題を展開してみた。相変わらずのこじつけと受け止められてもしかたない文章であるが、最後までお読み頂きありがたい限りである。なお末筆ながら、筆者の人生観は飯田史彦先生の著作に強い影響を受けている。なんらかの参考に資すれば幸いである。
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