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働く者でも食いかねる





 「はるかぜⅩ」を素材とする、バスにおける賃金体系試論から、思いもかけずリンク先の「交通総合フォーラム」にて議論が展開された。時宜を失した観はあるものの、筆者も一文を残しておくことにしよう。



■給与水準への渇望

 よく公務員の給与水準をして、「不況に強い公務員」と揶揄的に評されることがある。これは一面の真理であると同時に、裏の表現があることはあまり知られていない。曰く、「好況に弱い公務員」なのである。

 公務員の給与水準は原則として民間水準に準拠する。もっとも、不況で民間水準が下落しても、公務員の給与水準は下げ渋るから、「不況に強い」ことは間違いない。しかし、高度成長期のインフレ局面において、民間水準に追いつくまで相当なタイムラグがあった過去を失念しては、些か公平に欠けるように思われる。

 ともあれ、一般的な感覚として、公務員給与が高水準にあると認識されていることは、甚だ重要かつ深刻な問題を含んでいるといわざるをえない。これは「不況に強い公務員」が過度に厚遇されているという感覚の発露であり、即ち現下の経済局面が「不況」であると認識されているにほかならないからである。世の中の景気が本当に好況であれば、公務員の給与水準に対して批判が出てくる事態など、まず考えられない。

 幾つかの経済指標は、日本が現在好況にあることを示しており、「いざなぎ景気超え」を果たしたとさえいわれている。本当にそうなのか。客観的証明は不可能だが、直感的にはおそらく違う。そうでなければ「成長を実感に」なる言葉など、決して出てこないはずだ。経済指標が現実に合致してないことは為政者もうっすら認識しており、これに対する国民の反発が、参議院選挙の極端な結果につながったのではあるまいか。
※あまりにも極端な結果だったので、恐怖感すら覚える。これほど極端な振幅をもって、両翼に振れ続けていては、将来さらに極端な振れ幅がありうるかもしれない。

 公務員給与水準への批判とは、日本が実は決して好況とはいえないことを暗示する事象、としては穿ちすぎであろうか。





■極端から極端へ



 ……赤字化した国鉄を短期的に抜本的に立ち直らせるには、まず現状を明らかにしなければならない。そうすれば責任の所在を明確化する必要に迫られる。さらに、運賃値上げ、税金の投入、合理化、賃金の抑制はもちろん、赤字ローカル線の廃止、設備投資の抑制などの必要性・不可避性をディスクローズすることになり、関係者全員が苦い薬を飲まなければならない。……

 通常、経営を再建する場合、工事費を抑制し、採用を停止して人間を減らし、人件費を節減するというのが常識である。しかしながら、昭和四五、四六、四七年の賃金のベースアップは大変高率であり、これがいずれにせよ避けがたかった再建計画の破綻を早める引き金ともなった。当時の国鉄の収支状況では世間並みのベースアップは不可能であったが、公労委(公共企業体等労働委員会)の仲裁裁定には拘束力があり、……

 ……「国鉄をよくするためにはどうすればいいかと聞かれても、今の国鉄の労働組合がある限りやりようがない。私に経営者を引き受けてくれといわれても、私は『組合抜きであれば引き受けてもよい』というお返事しかできない」という言い方をしていた。氏は、「名鉄は総延長五五〇キロ余りの線路をもっているが、そのなかには国鉄でいうところのローカル線みたいなものもある。国鉄と非常に体質が似ていて、ミニ国鉄みたいなものだ。それでも何とか黒字で経営しているのは、賃金等に対してさまざまな工夫をしているからだ。一定の年齢以降には昇級を止めるとか、退職金は払わないで、安い賃金で再雇用するとか。いろんなことをやって何とか黒字にしているのだ。しかし、今の国鉄のような労使関係であれば、黒字になるわけがない。また今の労使関係を直すことは、とても経営者の力ではできない」という話をしていた。……



 「未完の『国鉄改革』」(葛西敬之)より



 旧国鉄の経営がなぜ破綻したのか、今のところ真っ当な(確たる数字の裏づけがある)分析は存在しない。だからといって、筆者に確証があるわけではないのだが、人件費抑制が出来なかったことに一因があるだろう、と睨んではいる。物価水準が激変しているため、一概にはいいにくいとしても、昭和50年代の十年間でいえば、毎年数百億〜千億円単位での人件費抑制は(あくまでも理論的にだが)可能であったはずなのだ。累積ではザクッと目の子で一兆円規模。決して少ない金額ではない。



■執筆者注(平成28(2016)年10月にミスを発見)

上の記述は明確に誤り。正確には、


昭和50年代の十年間でいえば、毎年数兆円単位での人件費抑制は
(あくまでも理論的にだが)可能であったはずなのだ。
累積ではザクッと目の子で十〜二十兆円規模。


が正である。こんな単純ミスを見逃していたのは情けない。

また、数字の桁が違うためミスリードになっていた事実に愕然とする。

ちなみに算定根拠は、


(国鉄全職員数−JR各社全職員数)×職員一人あたり想定年収×関連経費


である。決して無茶な仮定とは思えない。

誰もこの試算をしていないのは不可思議千万というべきであろう。





 いうまでもなく、当時は労組の力が極めて強かったから、人件費抑制は事実上不可能ではあった。しかしながら、その結末はといえば国鉄の解体、これに伴って労組も霧散した(少なくともその性格が大きく変わった)から、究極のハード・ランディングに終わってしまったのである。小成に甘んじて全てを失った典型例といえよう。

 国鉄分割民営化からまだ二十年しか経っていない。ところが、その間に社会情勢は激変した。経営状況が悪化すれば、人件費に手をつけないことが許されない、というのが趨勢であろう。バス会社は分社化されるのが当たり前になっているし、大手私鉄でも現業部門を切り離して外注化するのが一般的になっている。いずれにせよ、人件費に対しては強烈な下げ圧力が働き続けている。経営者は自主的な経営権を確立させた一方で、相当な比率の勤労者が低水準所得に喘ぐようになってしまった。

 かくも極端から極端に振れる現実を見てきた身からすれば、昭和50年代まで、つまりは高度経済成長期までの勤労観とはなんだったのか、と慨嘆したくなる。この時代を担った世代といえば、戦前派から団塊までであり、筆者の親世代も含まれる。太平洋戦争というあまりに強烈すぎる体験を引きずっている面があるとはいえ、この世代が日本社会とその規範を破壊し尽くしたのではないか、という疑念を消せない。当時の「勝ちすぎ」が現在の「負け」を誘ったのではあるまいか。

 「所得倍増」まではよいだろう。しかし、「一億総中流」という概念は世界的・歴史的に見て尋常でない。「機会均等」ならぬ「結果(悪)平等」はとりわけ特異だ。

 「結果平等」を追求した給与体系がバブル崩壊を経てほぼ全面的に否定され、森永卓郎的「楽しく生き抜く」低所得に押し籠まれつつある現状は、それぞれの理非を措くとしても、振れ幅が極端すぎて恐怖感が伴う。「一億総中流」を当然とした感覚は、まさに小成に甘んじたわけで、今日の寒風吹きさらしはその報いなのかもしれない。





■規制緩和の本質

 ただし、今日の企業の経営姿勢には、批判を受ける余地がおおいにあることもまた指摘しておかなければなるまい。

 特に、安価な労働力を求めて海外に進出した企業には大きな問題がある。個々の企業としてはやむをえない(むしろ当然すぎるほどの)経営判断であったとしても、多数の企業が雷同すれば合成の誤謬となる。日本国内での雇用を放棄し、外国で利益を上げかつ納税するという企業群に対しては、まさに字義通りの売国を働いたと形容してもいい。

 雇用形態を非正規雇用にシフトさせている企業群にも、似たような問題がある。非正規雇用化によってなにが起こるのか。勤労者にとっては給与水準低下を意味するが、社会的責任をも放擲している点はそれ以上に看過できない。雇用保険・厚生年金・健康保険などに関する負担(潜在的負担を含め)を勤労者に求めながら、国(社会)における共同的な負担(責任)を回避する手法は、とうてい許容できるものではない。

 しかし、経営者たちはかような姿勢を是としている。そして、さらなる「規制緩和」を進めよ、とさえ主張する。なんのことはない。「規制緩和」に名を借りて、国(社会)における負担(責任)から逃げようとしているだけだ。いわゆる「自己責任」論はこの主張に沿うものであって、企業は経営活動に専念することで利益追求を本義とし、社会的責任は負わず勤労者に押しつけ、自らは「社会的引きこもり」という領域に逃げこもうとしているようにも思える。

 このようなことを許し続けていいのだろうか。



 もう一点いえば、「労働市場自由化」の主張はあまりにも危険である。要するに、外国人労働者を本格的・全面的に認めよとする主張なのだが、これを認めれば日本経済は沈没すると断言できる。外国人労働者が単身日本で働き、月に一万円でも余剰を生じさせたとしよう。この一万円を国許に送れば、家族は充分に食べていけてしまうのだ。賃金水準には現状以上の下げ圧力が働き、日本人勤労者の多くがさらに喘ぐことにもなりかねない。規制緩和により日本企業が潤っても、日本人勤労者が飢えてしまっては、なんのため誰のための日本企業か、という話になる。

 このようなことは、本来は為替レートで調整されるべきであろう。しかしながら、ここにも重大な矛盾がある。円が安くなると、輸出に強くなる反面、輸入には弱くなる。海外進出した企業が受けるダメージも大きいはずだ。前述の労働市場に関する調整が果たせたところで、全体のなかでは小さな問題にすぎない。日本の地理的特性からして、加工貿易というビジネスモデルに依存せざるをえない現実があったとはいえ、顧みてみればこれは高度経済成長に適合したものであり、世界有数の経済大国を安定経営するに適しているとは必ずしもいえない。しかも悪いことに、バブル経済の興隆・破綻の大波によって、加工貿易ビジネスモデル「技術立国」に内在する問題に気づかないまま、時を送ってしまった。

 日本が現在直面している苦しみは、高度経済成長を前提して、これに依存する体制から脱却できなかったつけ回しなのかもしれない。





■日本社会の向かう先



 なんというちがいでしょう! われらの国ではわかい人はみな軍服をきたのに、ビルマでは袈裟をつけるのです。
 われわれは収容所にいて、よくこのことを議論したものでした。──一生に一どかならず軍服をつけるのと、袈裟をきるのと、どちらのほうがいいのか? どちらがすすんでいるのか? 国民として、人間として、どちらが上なのか?  これはじつにきみょうな話でした。議論していくと、しまいにはなんだかわけがわからなくなってしまうのでした。
 まず、この両者のちがいはつぎのようなことだと思われました。──わかいころに軍服をきてくらすような国では、その国民はよく働いて能率があがる人間になるでしょう。働くためにはこちらでなくてはだめです。袈裟はしずかにお祈りをしてくらしているためのもので、これでは戦争はもとより、すべていきおいよく仕事をすることはできません。わかいころに袈裟をきてくらせば、その人は自然とも人間ともとけあって生きるようなおだやかな心となり、いかなる障害をも自分の力できりひらいて戦っていこうという気はなくなるでしょう。
 われわれ日本人はまえには袈裟にちかい和服をきていましたが、ちかごろではたいてい軍服に近い洋服をきるようになりました。それも当然です。日本人はむかしはすべてと、とけあったしずかな生活をこのんでいたのですが、いまは諸国民のあいだでももっとも活動的な能率のあがる国民の一つとなったのですから。つまり、こんなところにも、世界をそのままにうけいれてそれにしたがうか、または自分の思いのままにつくりかえていこうとするか──という、人間が世界にたいする態度の根本的な差異があらわれていて、すべてはそれによってきまっているのです。
 ……
 われわれがだんだん議論をしていくと、一生に一ど軍服をきる義務と袈裟をきる義務とでは、そのよってきたるところは、けっきょくはこういうところにあるのだ、ということになりました。つまり、人間の生きていき方がちがうのだ、ということになりました。一方は、人間がどこまでも自力をたのんで、すべてを支配していこうとするものです。一方は、人間が我をすてて、人間以上のひろいふかい天地の中にとけこもうとするのです。
 ところで、このような心がまえ、このような態度、世界と人生にたいするこのようないき方はどちらのほうがいいのでしょう? どちらがすすんでいるのでしょう? 国民として、人間として、どちらが上なのでしょう?



 「ビルマの竪琴」(竹山道雄)より



 敢えて多くを述べる必要はあるまい。昨今「日本の経済社会はグローバル化すべきだ」と主張する連中は、詰まるところ日本に、「富国強兵」策を追求せざるをえなかった明治政府と同じ轍を踏ませようとしているのではないか。

 敗戦直後にこのような一文を記すほどの作家を得たことは、日本の宝であろう。勿論、現代に立脚している以上、日本は国際的な責任をも果たさなければならないし、国際競争力を身につけなければならないことは承知している。さりながら、「それゆえグローバル化が必要」という主張は、論旨を微妙にすりかえているように思えてならない。

 経済紙を見ると、企業活動が健全化しさえすれば多数の国民が不幸になっても構わない、と考えているようにしか読めない主張が散見される。冗談ではない。企業は自己保存本能のためだけに存在するのではない。顧客を満足させ、勤労者に幸せを与え、社会貢献するために存在するのだ。そして、そのためにこそ利益を上げなければならないのだ。その点を見失ってはいけないだろう。





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※本稿はリンク先「交通総合フォーラム」とのシェアコンテンツです。





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