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バカ三題噺





■その一

 福島原発事故という甚大なる現実の前には、感情が過敏になるのはやむをえない、とは思う。野菜や牛肉から放射性物質が検出された、という報道に接すれば、感情を穏やかに保つのが難しいことは理解できる。しかしながら、その敏感な世相に乗る形で「反原発」を主張する連中は、もう一つの現実から目を背ける愚か者である。あるいは、その現実に気づいて悪乗りしているならば、ただの偽善者であろう。

 これは思想信条はまったく措いて、の話である。また、今までの経緯はともかくとして、という話でもある。だから受容されにくい着想であることは、自分自身でも感じる。それでも敢えて指摘したい。

 あくまでも今この瞬間の現実を見据えたとき、「反原発」などありえない、と。

 なぜか。理由は単純である。

 いくら原発を止めても核分裂反応を起こそうとしている核燃料の存在はそのままだから、である。

 原発を止めて原子炉を冷温停止状態にしたところで、核分裂反応そのものが完全に抑制されるわけではない。外部電力を絶たれた瞬間、福島原発と同じような現象はなお起こりうるのだ。この因果に気づかず(あるいは目を塞ぎ)、「原発を止めさえすれば安全」と思いこむのは、あまりにも能天気というものだ。

 そこに核燃料がある以上、人類はその叡智をもって、制御しなければならない。これは驕りではなく、「核の火」を世に出した責務(あるいは業)というものであろう。

 福島原発事故は確かに甚大で、しかも今なお現在進行形である。不安心理にとらわれるのは理解できる。しかし、だからといって、集団的に思考停止におちいる必要はあるまい。





■その二

 癌首相は、紛れもなく正真正銘、日本史上最悪の宰相である。これほど質の悪い宰相は珍しい。災厄を垂れ流しにする姿は、福島原発の相似形でさえある。

 いうまでもなく、筆者は政権内部や官邸の内幕を知りうる立場にはない。それでも報道に接する限り、「これはどうしようもない」と指摘できる点が一つある。

 政策の優先順位が明らかにおかしい。

 震災からの復旧・復興は、ほんらい速やかに決断して先に進めるべきなのである。それを委員会に諮り、モタモタと時間をかけ、砂上楼閣のような提言をさせ、しかも実行には移さない。なんたる遅拙さか(※稚拙ですらない)。その一方で、浜岡原発停止や全原発へのストレステスト実施は、公論を経ず、衆議に付さず、速やかに決断している。

 頭がおかしいのでは?

 東日本大震災の打撃は、被災地においてまったく癒えていない。政策の優先順位が明確に逆転している。喫緊の切実な問題よりも、遠大な目標を先に設定するなど、どう考えてもおかしい。敢えて繰り返し書く。

 頭がおかしいのでは?



 おかしいといえば、浜岡原発停止もおかしい。東海地震の発生は中長期的には不可避だから、潜在的な危険は確かに存在する。とはいえ、浜岡原発を敢えて止めるというからには、実は、以下の隠された前提条件がひそんでいる。これを無視してはいけない。

  ●東海地震が発生し
  ●今まで想定していた以上の津波が発生し
  ●揺れと津波とあわせ東海地方には激甚な被害が生じ
  ●浜岡原発において福島原発事故と類似した状況が発生する


 このように書けば、浜岡原発停止より先に為すべきことがある、とすぐ御理解いただけよう。東海地方の地震被害軽減対策を打つのが先である。少なくとも浜岡原発停止と同時並行で、その他の地震被害軽減対策を進めなければおかしい。それとも、浜岡原発だけが無事で、原発周辺は激甚被害に見舞われる状況を許容する、とでもいうのだろうか。

 敢えて繰り返し書く。何度書いても足りないくらいだ。

 頭がおかしいのでは?

 考えてみれば、癌首相には勤め人の経験がない。優先順位のつけ方を体得していないのは当然か。その程度の、要するに政治家以前に一個の職業人として、途方もなく使えない人物を首相に据えてしまった日本人の選択がおかしかった、という話でもある。





■その三

 東日本大震災後、さまざまな言説が呈されてはいるが、傾聴に値するものは稀少である。なぜかといえば、詰まるところ、その論者ほんらいの主張が展開されている例が多すぎるからである。東日本大震災は論の起点であるにすぎず、新しい発見があるわけでもなく、被災地を慮っているわけでもない。その種の言説に、傾聴すべき内容があるとは思えない。

 特にひどいのは「放射線・放射能濃度」に関する報道である。「公式発表の○倍検出!」だとか「○○産の□□が危ない!」だとか、不安心理を煽る報道は山ほどある。

 いったい何が真実なのか、残念ながら筆者には鑑定できるほどの知識はない。それでも、不安心理を煽る報道は真実を伝えていない、と判断することは可能である。なぜか。理由はこれまた単純である。

 不安心理を煽る報道は数多あっても、○○地域から避難すべき、首都圏から避難すべき、日本から脱出すべき、と真剣・真面目に主張する報道だけがないからである。

 いま世を騒がしているセシウム牛問題(※近所の某スーパーでも販売していたとか)にしても、暫定基準を超えていたというだけの話にすぎない。どれだけ健康に影響があるか、実証されているわけではないのだ。相当多数が既に販売・消費されたというが、おそらく健康にはほとんど影響ないのであろう。

 数多流れている報道を見ればわかるとおり、日本においてはなぜか、不安心理煽動報道に多大な需要がある。セシウム牛問題になぞらえていえば、なるほど積極的に摂取したいシロモノとはいえないとしても、健康に直結する本質的な問題ともいえない。暫定基準がもっと高い数値に設定されていれば、見過ごされていた程度の話である。

 ほんとうは問題ないと(感覚的に)わかっているからこそ、マスメディアは不安心理を煽る報道を大量に流せるのであろう。反原発派はといえば、自説の正当性を声高に論じるだけで、社会に対する責任を負おうとはしない。そんな言説など信じるに値しない。責任のない言葉は軽く、堅牢さに欠ける。そもそも「首都圏から避難せよ」という論点がないことじたい、消極的ながら、切迫した危険など存在しない証になっている。

 だからといって、日本人が不安心理を楽しんでいる──わけではない。根源はおそらく、行政と民衆の相互不信にある。結果として、相互に愚かとしか見えないような状況が顕現しているわけだ。この点については機を見て改めて再論したい。





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