このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください





マスメディア対応への批判とマスメディア批判





■信じがたい迂闊さ

 この夏の悲痛な事故の一つに、平成23(2011)年 8月17日に発生した天竜川下り事故を挙げることができる。報じられた当初は痛ましい水難事故と受け止めていたところ、運営していた会社は天竜浜名湖鉄道という続報があり、別の観点からいやな予感にとらわれた。特定地方交通線を転換した第三セクター会社は、会社としての規模が小さい。組織としての動きがすぐれているとは限らない。なにか襤褸が出てくるのではないか、という直感が浮かんでしまう。

 残念ながら、その直感は当たってしまう。事故を報じる民放ニュースのなかで、後続船の船頭が現地でインタビューに応じ、事故を起こした船の状況を語っていたのである。

 いうまでもなく、この船頭の行動はきわめて迂闊である。同じ会社に属し、同じ職務を担い、かつ事故を間近に見た人物の発言には、証言としての重みがある。事故に関しては、警察及び事故調査委員会の動きがあるなかで、正負いずれの方向にしても、予断を与える発言をしたのは拙かった。

 組織としての常識ある会社であれば、こういう状況では取材に応じてはいけない、窓口は広報なり役員による記者会見なりに統一、という共通認識が徹底している。小さな会社であるがゆえ、この種の共通認識が醸成されていなかったのだな、と慨嘆した。





■ほんらい批判されるべきはマスメディア

 以上までは天竜浜名湖鉄道の報道対応の拙さに関する批判である。しかし、この批判には酷な面がある。少々迂遠な書きぶりになるが、この点について記しておきたい。

 筆者は近頃、本業に関して、マスメディアの取材を受ける機会が多い。取材を受ける側に立ってみると、マスメディアの取材者は「番組になればよし」「記事になればよし」という発想に凝り固まっているようにしか見えない。

 新聞において、当方の片言隻句をつなぎあわせ、報道する側にとって都合のよい文章に仕立てる程度ならば、まだかわいい方だ。筆者が最も嫌だなと感じるのは、テレビの取材である。

 現地でなんらか動きのある映像を撮る。さらに関係者にインタビューする。この二つを組み合わせるだけで、相応に臨場感あるニュース番組に仕上がってしまうではないか。

 カメラ越しに発言を求められると、異様な緊張を迫られるうえ、発言の修正がきかないので、インタビューには応じたくないというのが一般的な感覚だろう。だからといって、インタビューを断ろうとすると、「知る権利」とやらをふりかざしてくる。

 「知る権利」と表現すると、不可侵の神聖な権利に見えてしまう。いわば伝家の宝刀だ。しかしながら、実態は上記の如しであり、手軽に番組を構成するための方便にすぎない、と筆者は観ている。自分の都合を相手に押しつけているだけ、としても酷評とは思えない。

 ところが、迂闊に対応すると悪意を持って報じられてしまうから、さらに厳しいことになってしまう。マスメディアとは、被取材者に厳しく難しい対応を強要する本質を備えた機関、と定義してもよいほどだ。

 マスメディアの取材圧力は凄まじい。なにか事件・事故あれば、重傷の関係者の枕頭にまで押しかけるような連中だ。われわれは通常マスメディアのつくる番組・記事を受動的に見ているだけだが、マスメディアの取材行為には厳しい圧力が伴うことを知っておいたほうがよい。

 天竜浜名湖鉄道に属する船頭は、その圧力に逆らえず、無防備にも事故の様相を話してしまった。この船頭にも批判される余地があるとしても、ほんらい批判されるべきはマスメディアの本質なのである。この本質を「虎の威」として借り、居丈高に振る舞う取材者「狐」もまた、同様に批判されなければなるまい。





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