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無責任論





■夏のTV番組から

 いささか旧聞に属する話題となる。

 平成24(2012)年 8月15日放送のNHK特集「終戦:なぜ早く決められなかったのか」を視聴した筆者は、暗澹たる気分を覚えていた。当時のリーダーの不決断は、日本に深刻かつ重篤な危機を招来させたという意味において、きわめて罪が重いと断じざるをえない。何故ここまで追い詰められなければ決断できなかったのか。ただしこれは、筆者においてはだいぶ前から持っている疑問ではあった。

 この番組のナビゲーターは竹之内豊。竹之内豊は 8月 3日に放送された映画「太平洋の奇跡:フォックスと呼ばれた男」の主人公・大場栄大尉を演じている。このことから連想が広がり、直感が閃いた。一刹那、なんとシニカルな起用なのだろうと感じられ、苦笑がこぼれてしまった。以下、誤解をおそれずに敢えて記す。

 率直にいって、筆者は大場大尉に感銘を覚えることができなかった。無論、実在の大場大尉は立派で高潔な人物であって、周囲の人々に感動を及ぼすような人柄だったはずだ。それゆえ、大場大尉を賛美する小説が書かれ、映画もつくられたのだと理解できる。先の記述とは矛盾するが、筆者が実在の大場大尉に会うことができれば、必ずや好感を覚えたに違いない。

 優しく、思い遣りがあり、勇敢で智略に富み、統率力もあり、武士道の誇りを以て筋道を立てる、矜持ある人物。……それが映画で描かれた大場大尉の姿である。しかし、筆者はどうしても腑に落ちない。大場大尉が立派な人物と認めたうえでなお、前記NHK特集の「決断しないリーダー」らと実は相似形ではないか、と思えてならない。

 住民に集団自決を強要しなかった点、大場大尉は合理的な思考の持ち主と推測できる。しかしながら、大場大尉は二進も三進もいかないほど切羽詰まる局面に至るまで、住民を投降させようとしなかった。更には、自らの判断では投降せず、上官からの命令に従ってようやく投降・武装解除した。

 このような批判は、重箱の隅をつつく揚げ足取りと解釈されるかもしれない。それでも敢えて筆者は指摘しなければならない。大場大尉の行動は、日本人リーダーのまさに典型的「不決断」といえるからである。自ら決断せず、その責任を上官に委ねる点は、良くも悪くもの「日本人らしさ」そのものではないか。

 上層幹部、中間管理職、どの段階にも「不決断」のリーダーがいた。そもそも、日本人全体の病弊として「不決断」がある。この構造は日本ぜんたいの問題であり、太平洋戦争に突入し、かつ壊滅的な損害を受けた後にようやく終戦できた理由ではないかと思われてならない。「昭和大帝」の決断がなければ、誰も決断できなかったのではないか。

……

 やや脱線して私事を書く。筆者の周辺にも「不決断」が満ち満ちている。誰も決断などしやしない。仕事をしているふりをしながら、実際には先送りか不作為の連続にすぎない。筆者が決断したつもりでものごとを進めようとしても、「勝手に独走するな」とばかりに抑圧され、雁字搦めに掣肘される。

 かくして筆者は「指示待ち層」の群にまぎれて低迷する。もっとも「指示待たせ層」の連中にしても、強固な自我を持っているわけではないから救いがない。日本人とは、余程稀有な例外を除き、自ら決めることができない人種なのであろう。責任を回避・転嫁しているだけで、かえって息詰まり窮屈な生き方であるように思える。





■現在進行形の「無責任」

 たいへん残念ながら、行動ならぬ行動「不決断」を通じた「無責任」は、遠い昔話ではない。筆者周辺の私的な問題にとどまるわけでもない。今日の日本社会においても巨大な「不決断」、その結果としての「無責任」が現在進行形で顕在化しつつあるのではないか。

 その典型的断面が年金制度である。あるいは、年金制度を支える財政である。

 筆者はかねてから疑問を持っていた。年金制度は現状で既に破綻しかけているというのに、なぜ変革を加えないのか。さらにいえば、年金制度を含む社会福祉費用の逓増により、財政もまた破綻しかけているというのに、なにゆえ支出を抑制しないのか。財政破綻回避の早道は、増税による収入増だけとは限らない。社会福祉水準を落とす、特に年金制度への国費投入を減らす形で、支出抑制を図るという有力な選択肢があるはずなのだ。

 筆者如き素人ですら考えつくことなのに、なにゆえ検討・実行されないのか。高齢者層の政治力が強く、社会的影響が甚大という事情を考慮してもなお、不思議でならなかった。

 近頃、ようやく腑に落ちてきた。

 政治家を含む当事者はおそらく、「不決断」なる「不作為を為して」いる真っ最中なのだ。最終的な破綻が明々白々であろうとも現行制度で行けるところまで行く、巨大な軋轢を生じさせる制度改革に着手する「決断」及びこれに伴う「責任」は回避する。……このような発想、というよりもむしろ「無意識下の意識」が働いているのではないか。

 よって、年金を含む社会福祉制度及び財政の破綻は免れえない予定の事実、ということになる。おそらく先に破綻するのは財政で、国債暴落が引き金となる。いうまでもなく、財政が破綻すれば年金含む社会福祉制度もまた破綻する。あらゆる社会福祉制度が崩壊し、必然的に給付水準はゼロに近づく。

 その時まで「不決断」を貫いてきた当事者たちは、かくも二進も三進もいかない局面を利用して初めて、状況激変を理由として正々堂々と、社会福祉制度への支出を切り下げることができる。誰が当事者であろうとも、所詮は日本人である。「不決断」「責任回避」の本質が変わるとは思えない。

 なんと日本人的な「無責任」であろうか。地獄の如き破局が、見紛いようのない景色としてはっきり見えているのに、誰も舵を切ろうとしない。具眼の士は山ほどいるはずなのに、誰も実行しようとしない。「上からの指示がない」など言い訳をたくさん用意して。日本人とは、その最悪の局面において自分が責任者でなければいいと勝手に思い定めつつ、責任転嫁すべき対象を探し続けているかのようだ。

 気分は暗澹どころではない。絶望すらはるかに通り越している。未曾有の大災厄を予知していながら、それを回避できないもどかしさは、まこと苦しく悩ましい。

 遺憾ながら、筆者には至らざる面があまたある。近未来のすがたを正確に予見しながらも、それが「いつ来るか」を明示することができない。明日なのか、半年後なのか、来年なのか、十年後なのか、半世紀後なのか。残念ながらわからない。そして、筆者にはそもそも実行力がない。自分と家族だけでも生き延びられるよう、今から石を布いておくのが精一杯だ。

 筆者も所詮は日本人、なんらかの形で「無責任」の病弊を備えていることは間違いない。しかし、それでも敢えて筆者はこの記事を書いた。ゴマメの歯軋りの如き妄言と知りつつも。読者諸賢よ。どうかお好みで受け止めてほしい。





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