このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください





清廉潔白の話





■清廉潔白

 昨年末、筆者の職場で交わされた会話を以下に紹介する。ただし、話を明瞭にするためかなりデフォルメを加えている点は御承知ありたい。





上司「和寒君、年明け早々に某国大臣が来日するそうだ」

和寒「本当ですか? ドタキャン常連の国ですから、今回もそうなるのでは?」

上司「日本側でもその点は気にしている。だから、渡航旅費を負担するなど好条件を提示しているそうだ」

和寒「某国はその提示に乗ってこないでしょう」

上司「なんでそう思う?」

和寒「某国でのプロジェクトは必ずしも日本有利というわけではなく、仏独もライバルになってます。そんな競合的状況ですから、日本に限らず特定の一国から便宜供与を受けるというのは、政治家としては相当危険な判断になります。某国は清廉潔白な国、と考えるべきです。来日するならば、日本に甘えず自国負担で来るでしょう」

上司「なるほど。便宜供与をオファーする側の考えが甘いということか」



 年明けてからの展開は、どうやら筆者の読みどおりで、某国自国負担での来日が実現しそうな雰囲気である。もっとも、またまたドタキャンになるかもしれないが。





■呉臣張温

 もう一つの例え話を三国志から引いてみよう。

 呉臣張温は蜀に使節として赴き、蜀の政治と臣下の人物を絶賛する復命をしたところ、のち孫権の疑心を買い失脚した。

 張温は当時若くしてすぐれた人物として知られていた。それゆえ、失脚は惜しまれた。しかしながら、張温の言動は「政治的な記号」として清廉潔白から遠かったのだ。

 孫権は狭量で君主として問題があったことは確かである(張温以外にも多くの有力家臣が失脚している)。それでも、二心を疑わせる言動をとった張温は迂闊だった。仮に張温が意図的にそうしたならば、間接的ながら孫権への批判そのものであって、孫権の怒りを買うのはむしろ当然と評さなければならない。

 張温は約1800年前の人物である。当時と今の社会情勢は懸絶しているものの、三国志に刻まれた歴史には現代でも通じる普遍性がある。だからこそ、三国志(演義)は現在でもなお新しく、多くの読者を魅きつけてやまないのだ。





■政治的記号と承認欲求

 さて、迂闊だったのか意図的だったのか、張温の真意を読み解くのは今となっては至難である。某都知事の場合は解明可能と見受けるが、迂闊・意図的のどちらであろうとも、某国大臣の如き判断が出来ず、張温の故事に学ぶこともなく、「政治的記号としての清廉潔白」を践まずに金を受け取った以上、失脚は当然といわねばなるまい。

 某都知事に関しては、 石井孝明氏が実に的確な論評 を加えている。おそらくこの見立ては正しい(※)。承認欲求を充足した悦びを満面に示す(なんと卑しい笑み!)小人物を、都知事として来たる東京五輪の年まで仰がねばならぬか、……という筆者の個人的悲嘆が覆されたのは率直にありがたい。

※ただし、石井氏評のうち一点、「焦り」についてのみは同意できない。某都知事は団塊世代に共通する承認欲求が強すぎる人物だ。「優秀な自分が何故優遇されない」との焦りあればこそ、若き日の彼は在野でもがき、筆を武器に闘っていたのだ。彼にその種の焦りがあったのはおそらく20年くらい前までさかのぼる、と筆者は見る。実際のところ、その頃までの彼の文章は相応に価値があったと認めなければなるまい。
 彼の悪評として「攻撃的」で「尊大」で「態度が悪い」点が挙げられる。これは自己を優位に置こうとする承認欲求代償行為であろう。そんな彼が権力中枢近くにとりこまれた瞬間、満足して高揚するあまり舞い上がってしまい、抑制が効かなくなったのが実態ではあるまいか。所詮立身出世だけが目的という小人物で、目的を達した以上は弛むのが人間の煩悩というものか。
 残念ながら、程度の差こそあれ、我々が住む世にはこの種の小人物が多数存在している。



 東京都が道路公団の如く壟断されずに済んだのは、東京都の社会的重さを考えれば、更にありがたいことだ(ただしこの一年の都政停滞著しいとの説も存在する)。もはや政治家としての復権はありえず、今後なにかを「壟断」する力が消え失せたことは、全社会的にもおおいに喜ばしい。

 欲深い精神の底が丸見えになり、信用が地に堕ちてしまったから、作家としての再起も困難だろう。もっとも、作家たるべき原動力を栄達と引き換えに失い、すっかり腑抜けた状態であろうから、作家に戻る選択肢などそもそもありえないとみなすべきか。

 これは、承認欲求を満たすため作家を志した小人物に政治をまかせてはいけない典型例になったのではないか。もっとも、何故こんな小人物を選任したのか、都民の投票行動にも大きな問題は残っている。

 あとは新都知事が誰になるか、次第である。ドングリの背比べにならぬよう、切に願う。最低限、「政治的記号としての清廉潔白」をわきまえている程度には政治的センスがあり、かつ既に承認欲求をじゅうぶん満たし社会的使命達成に静かに燃える人物にこそ、都知事の如き要職を務めてもらいたいものだ。

 無理な注文とは思わない。「棒ほど願って針ほどかなう」というではないか。政治への期待が低くなれば、達成しうる成果もまた低水準にとどまるのが当然だ。政治家をバカにすれば、その悪意がこだまとなって我々有権者に返ってくる。我々有権者は、政治と政治家に期待を持つべきである。それが有権者にとっての「政治的記号としての清廉潔白」ではあるまいか。





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