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「アニー」論





■まえがき

 この五月連休、娘と一緒にミュージカル「アニー」を観に行った。泣けた。始終泣けた。「Tomorrow」「Maybe」 が歌われるたび、涙が止まらなかった。

 ミュージカル「アニー」の物語は単純明快というよりもむしろ単調、登場人物の造形もステレオタイプにまとめ過ぎで、一見「こどもだまし」の浅薄な作品のようにも見える。しかし、素晴らしい名作であることに疑う余地はまったくない。日本では30年近い年月を乗り越えて、観客の心をとらえ続けている事実こそが、ミュージカル「アニー」の価値を裏づける。

 本稿では、その「アニー」について論じてみたい。





■孤児ものがたり

 欧米では(実の親を失ったという意味での)孤児を主人公とする物語が少なくない。

  「フランダースの犬」 ウィーダ(英)作 ………………………明治 5(1872)年
  「アルプスの少女」 ヨハンナ・スピリ(スイス)作 …………明治13(1880)年
  「小公女」 フランシス・H・バーネット(米)作 ……………明治21(1888)年
  「赤毛のアン」 ルーシー・モウド・モンゴメリ(加)作 ……明治41(1908)年
  「あしながおじさん」 ジーン・ウェブスター(米)作 ………明治45(1912)年

 上に思いつくまま五作品を挙げてみた。意外というべきか、作者は全て女性で、五作品全て明治年間の初出という共通点がある(なお「フランダースの犬」は太陰暦・太陽暦の違いで年次が違う可能性がある。「あしながおじさん」は改元され大正年間に入っている可能性がある)。

 これら五作品は、社会背景が大きく異なる日本に受け容れられた点でも共通している。なにしろ五作品とも日本でTVアニメーション化されているのだ。ただし、原作(小説)の評価は必ずしも同一水準というわけではない。

 他の作品とは異なり、「アルプスの少女」の大人向け書籍を書店で入手するのは難しい。筆者は長年その理由を不思議に思っていたところ、ようやく見つけた児童向け書籍を閲覧し、得心がいった。「アルプスの少女」は物語があまりにも単純すぎて、人物造形が平板なのだ。「アルプスの少女」原作には屈折した登場人物がいないに等しい。それゆえ物語の奥深さに欠け、大人の鑑賞には堪えない、とみなされているのであろう。

 ミュージカル「アニー」には「アルプスの少女」原作に近い香りがある。しかし、両者には相当な懸絶があると、筆者は思わざるをえない。

アニー
日本版ミュージカル「アニー」平成25年版CDジャケット
子役の全員集合写真。左はスマイル組、右はトゥモロー組。筆者親娘はトゥモロー組を観劇。
ペパー役の前田晴美があまりにもハマっているのには驚いた。地の演技なのか?(笑)




 ミュージカル「アニー」の原作は「小さな孤児アニー」、作者はハロルド・グレイで、大正13(1924)年から昭和54(1979)年にかけ半世紀以上に渡りニューヨーク・デイリー・ニューズに連載されたコミックである。昭和初期にはラジオドラマと映画になっている。ミュージカル化されたのは、だいぶ時間を置いた昭和52(1977)年のこと。おそらくは、原作のエピソードを部分的に採りあげた翻案に近いものなのではないか。

 ミュージカル「アニー」はブロードウェイで大好評を博し、ロングラン公演となった。また、トニー賞七部門を受賞しており、同賞の歴代ミュージカル作品賞受賞作品と比べてみれば、評価の高さがよく理解できる。このミュージカルを基礎として、昭和57(1982)年に映画が製作された(以下これを「映画『アニー』」と呼ぶ)。平成11(1999)年には映画「アニー」の大筋を生かして、ディズニーがTV映画としてリメイクした(以下これを「TV『アニー』」と呼ぶ)。TV「アニー」は YouTubeにアップされており、誰でもいつでも閲覧できるのはありがたい。

 日本ではミュージカル「アニー」が昭和53(1978)年に初演された。昭和61(1986)年以降は毎年公演されており、今年は実に28年目となる。

 以上は「アニー」が支持されてきた実績を示したにすぎない。では何故「アニー」には支持され続ける魅力があるのか。同じミュージカルでの相対比較では、例えば「キャッツ」や「ザ・サウンド・オブ・ミュージック」は親子で楽しめる劇であり、「アニー」は大人もこどもも楽しめる物語であるからだ。……この説明ではわかりにくいか。いま少し詳細に説明してみよう。





■「アニー」の物語構造

 ミュージカル「アニー」の魅力を最も的確に解説しているのは、小説「アニー」である。小説「アニー」は映画「アニー」の所謂ノベライズ版で、映画「アニー」では説明しきれなかった登場人物の内心が丹念に描写されている。これが実に興味深い。映画「アニー」のドタバタ要素は背景に埋没し、秘められた奥深い物語が顕在化されている。

  小説「アニー」 リアノー・フライシャー作 山本やよい訳 ……昭和57(1982)年 ハヤカワ文庫

 ミュージカル「アニー」は、両親の健在を信じる孤児アニーが、ハニガンに虐待され、運命に裏切られる過程のなかで、大富豪ウォーバックスとその秘書グレースの愛情を獲得する物語である。では、主人公三名に即して物語構造を説明してみよう。

 アニーは愛を希求する象徴である。親に棄てられた理不尽、更に理不尽な人物に理不尽な服従を強いられながらも、明るい楽観と天真爛漫さ、のびやかな知性と素直な愛情表現を発揮し、現状を打開していく、自制と克己の象徴でもある。

 ウォーバックスは富と力の象徴である。成長と変化を体現しながら、この物語における愛情の源泉となっている。生まれながらの大富豪でなく、貧窮の底から成り上がった大立者であり、艱難辛苦を経てきた彫りの深い人間性を備えている。老境に達し人生の目標を見つめなおす、人間成長の永遠の課題を抱えてもいる。

 そしてハニガン。ハニガンこそ凡人の苦悩の象徴である。愛されないがゆえに愛を求めざるをえず、かえって孤児らを苦しめる、屈折した人物である。孤児らに常時「大好きなハニガン先生」と唱和させる、承認欲求が強すぎる人物である。愛されない苦しさに向きあえず、飲酒で憂さを晴らす心弱い人物である。人間の奥深い業を全身で体現する物語中の最重要人物で、理不尽な人間社会を凝縮する人物でもある。最も醜悪、最も酷薄、それゆえ最も人間に近い人物、それがハニガンだ。

  ※ハニガンを演じる女優が下手だと、「アニー」は途端に薄っぺらくなってしまう。
   その意味において、ハニガンは「アニー」の真の主役と呼べるかもしれない。
   日本版ミュージカル「アニー」での歴代女優を見ると、人選がやや安易だなと感じる。

 行動面では似ても似つかぬウォーバックスとハニガン、性格面では実は共通点が多い。どちらも他者に対しきわめて支配的で、服従を強いてやまない強情を備えている。両者の違いは、前者が自律しつつ困難に立ち向かうのに対して、後者は他者に甘え依存しながら飲酒に逃げる、という部分に見出せる。前者には反省と未来志向があり、後者には悔恨と過去志向しかない。それゆえ、前者はアニーを愛し更にグレースを愛し、後者はアニーを虐待しグレースを憎むのである。

  ※以下まったくの余談。TV「アニー」に出演したキャシー・ベイツ(ハニガン役)とヴィクター・ガーバー(ウォーバックス役)は、その二年前に映画「タイタニック」でも共演している。なるほど!

アニー
小説「アニー」日本語訳表紙
表紙写真からして映画「アニー」のノベライズ版であることがよく理解できる。
ノベライズ版のため軽く見られがちだが、内容の素晴らしさは古典名作に劣らない。
出版し、かつ販路を維持しているハヤカワ文庫には感謝!




 小説「アニー」は既往名作へ敬意を示す機会にもなっている。

 名犬サンディー(Sandy :砂っぽいの意!)がアニーに崇拝の念を初めて持つ場面でのモノローグは、「フランダースの犬」でのパトラッシュの思いとよく似ている。

 赤毛の少女アニー(Annie) が主人公であることは、「赤毛のアン」(Anne of Green Gables)そのものといわなければなるまい。ウォーバックスがアニーと会って「孤児とはふつう男の子だろう」と決めつけるあたりは、アンを連れ帰ったマシューに対するマリラの反応と相似形だ。

 ウォーバックスが姪の学費を支援し、彼女を訓戒する手紙を出そうとしている場面などは、明らかに「あしながおじさん」を踏まえた設定といえよう。大富豪が孤児を支援する物語構造そのものも同様である。(このエピソードは同時に、頑固そうなウォーバックスに愛情が秘められている事実を示す伏線になっている)

 これらを模倣と呼ぶのは簡単だ。しかしながら、既往名作をオマージュすることで既往名作の物語世界をも背景に持ったことは重要である。





■「アニー」の主題

 アニーが置かれた境遇は、二十世紀初頭大恐慌下アメリカ社会の特殊なものではない。時代を超え、洋の東西を跨ぎ、あらゆる社会に多くのアニーが存在する。即ち、「アニー」は人生と人の世の普遍的課題を示しているのである。

 理不尽な服従を強いられる平凡なアニーはどこにでもいる。理不尽な服従を強いる凡庸で、それゆえかえって凶悪なハニガンは世界中に腐るほどいる。たとえ暖衣飽食の社会であろうとも、両親が健在であろうとも。

 理不尽な服従に対抗する最強のバネとは、近親者の愛情である。親に棄てられずとも、憎まれることで、よしんば疎まれるだけでも、バネは壊れてしまう。アニーは両親に棄てられながらも、バネを失わず明るい希望を持ち続けた、稀有なる気質を備えている主人公なのだ。

 ミュージカル「アニー」の舞台上では、かような物語のほんの上澄みしか表現されない。映画「アニー」に至っては、従僕のインド秘術という楽しいギミックに幻惑されてしまう。それゆえ、ミュージカル&映画「アニー」は浅薄で平板な物語にすぎない、と誤解されてしまうおそれが常にある。

アニー
日本版ミュージカル「アニー」平成25年版CDジャケット
主人公アニーはダブル・キャスト。左はスマイル組の吉岡花絵。右はトゥモロー組の石川鈴菜。筆者親娘はトゥモロー組を観劇。


 その弱点を補ってなお、おおいに余りあるのが主題歌「Tomorrow」「Maybe」 の二曲である。二曲とも平明な旋律でありながら、不安定な音階を随所にはさみ、人生と人の世の深遠なる何かを暗示している(作曲チャールズ・ストラウスのまさに神技だ!)。しかも十歳の女の子の美声で。だからこそ、泣けるのだ。

 観客の幼いこどもは派手な舞台演出に目が行き、アニーの個性に憧れるだけで、物語の本質はうっすらとしか感じられないかもしれない。大人でも鈍感な者は「アニー」を幼児向けの安直な芝居と決めつけるにちがいない。しかしながら、鋭いこどもと健常な大人は「アニー」の本質を感じとれるはずだ。「大人もこどもも楽しめる」とはそのような意味で記したつもりだ。

 前述したとおり、小説「アニー」は原作「アニー」を翻案したミュージカル「アニー」、これを更に膨らませた映画「アニー」のノベライズ版である。せっかくの素晴らしい物語でありながら、原作付ということで、世界文学の古典にはなれそうにない。惜しい。実に惜しい。この惜しさが実は、ミュージカル「アニー」の底知れない魅力を担保しているのだから、めぐりあわせは面白い。





■あとがき

 拙「志学館」においては、過去にも多くの物語を引用してきている。これらと比べて、今回の「アニー」には熱を入れ過ぎている自覚はいちおうある。そもそも物語を引用するにあたっては、なんらかの形で鉄道あるいは交通に関連づけてきた。「アニー」のどこに鉄道・交通との関連があるというのか?

 アニーがいた孤児院が「ハドソン通り女子孤児院」だから関連ある。……う〜ん、これでは、こじつけに過ぎない、と思われてもしかたあるまい。では、これならどうだ。小説「アニー」p171の記述を引用してみよう。



 ふたりで台所のドアから裏庭に出たとたん、オリヴァー・ウォーバックスはほっとして、思いきり息をはいた。このほうがいい。ずっといい。彼はアニーに自分の生いたちをしゃべりはじめた。「わたしはリヴァプールの鉄道線路番の家で生まれた」そうか——アニーは思った——イギリスか。だから、おかしななまり●●●があるのね。

「兄は肺炎で死んだ。うちには薬を買う金もなかったからだ。そこで、わたしはいつか金持ちになってやろうと心にきめた。うんと、うんと、金持ちに」

「えらいわ」アニーはほめてあげた。でも、すごく若くって、すごく貧乏なオリヴァー・ウォーバックスを想像するのはむずかしかった。



 ……え? これだって充分こじつけですと? 読者諸賢よ、願わくば厳しく追及しないでほしい。名作は心の糧になる。そして、ミュージカル「アニー」は物語と音楽が一体となった珠玉の名作なのだから。





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参考文献

(01) 丸美屋食品ミュージカル「アニー」公式サイト(平成25年版)

(02) TV「アニー」無料動画(YouTube)
   ※全編まとめてアップされている

(03)小説「アニー」(リアノー・フライシャー作/山本やよい訳)

(04)「フランダースの犬」(ウィーダ)

(05)「アルプスの少女」(ヨハンナ・スピリ)

(06)「小公女」(フランシス・H・バーネット)

(07)「赤毛のアン」(ルーシー・モウド・モンゴメリ)

(08)「あしながおじさん」(ジーン・ウェブスター)





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