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「論争」ではなく対立





■まえがき

 この夏以来、「ベビーカー論争」と呼ばれる論点が存在しているらしい。有名メディアが採り上げたことから、あたかも社会現象であるかの如き扱いをされているものの、筆者はこれを「論争」と呼ぶに値するとは認めない。まずは筆者が確認できた限りでメディアでの経緯を列記しよう。

番号日付表題メディア【項目名】(著者名)
平成24年 7月13日(金)「ベビーカーでの乗車」って
子守唄協会理事長vsママサークル総代表
産経新聞【金曜討論】
平成24年 8月26日(日)電車内のベビーカー利用に賛否両論
啓発ポスター引き金
朝日新聞(藤森かもめ)
平成24年 8月28日(火)ベビーカー論争 電車利用をめぐってNHK総合【ニュースウオッチ9】
平成24年 9月 7日(金)ベビーカーが載せているのは「マナー」ではない日経ビジネス【小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句】(小田嶋隆)
平成24年10月1〜3日(月〜水)ベビーカーを邪魔もの扱いするなWEBRONZA(城繁幸・山崎直子など 8名が寄稿)




■筆者の主観的感覚

 通常の筆致からは逸脱する書きぶりになるが、最初に筆者が通勤電車内で不快に感じる客層を挙げてみよう。

   1)車内で飲酒喫食する客(朝の観光客・夕の身なりの悪い客)
   2)巨大なキャリーバッグを複数持ちこむ外国人観光客
   3)遠足・修学旅行に出かける児童・生徒集団(小学生低学年から高校生まで)
   4)車内で傍若無人に振る舞う児童集団(保護者付添のない小学生)


 なお、筆者が通勤に利用している鉄道は、日暮里・舎人ライナー、山手線、京浜東北線、東海道線である。限られた路線における、限られた時間帯のなかで、筆者という特定個人がじかに接しうる客層が限られるのはいうまでもない。それを前提にしてもワースト上位に「ベビーカー」が入ってこない点は、相応の意味を持つ。

 少なくとも、朝ラッシュ時の激しい混雑において、ベビーカーを押す親子を見た経験は筆者にはない。夕刻では相応の頻度で見かけるものの、車内はたいして混んでいないから、不快感を持つことはない。赤ん坊に泣き喚かれて不快感を覚えるのは、筆者に限らず多くの方に共通する感覚だろう。そもそも泣き声は、より上の年齢層の子(幼稚園から小学校低学年)のほうが強烈だ。よって筆者における赤ん坊の泣き声の不快さは、必ずしも上位にはこない。

 以上は勿論筆者の主観であって、これを他者に押しつけるつもりは毛頭ない。そして、「論争」と呼ばれる状況が現にあることは確かだ。だから、その根を探ることには相応の社会的意義がある。





■「声」と「意見」の主

 ここで重要なのは、上記Ⅱの朝日新聞記事である。鍵となる箇所を引用してみよう。


 首都圏の鉄道24社と都は 3月、利用者に呼びかけるポスター約5700枚をJR東日本や私鉄、地下鉄の駅に張り出した。少子化対策の一つで、担当者は「赤ちゃんを育てやすい環境をつくる」と話す。
 だが、利用者から「ベビーカーが通路をふさぐ」として、ポスターに対する疑問の声が都に寄せられた。都営地下鉄には「車内でベビーカーに足をぶつけられた」「ドアの脇を占領され、手すりを使えなかった」との声が相次いだ。
 JR東日本にも「ポスターがあるからベビーカー利用者が厚かましくなる」「ベビーカーを畳もうというポスターも作って」と意見が寄せられたという。



 「声が相次いだ」「意見が寄せられた」というが、ではこの「声」と「意見」を発したのは如何なる層なのか。いったい何件の「声」「意見」が届いたのか。記事はこの重要な一点を明らかにはしていない。もっとも、鉄道会社にしても、問われたところで答えられないであろう。だから、ここから先は全て推測になる。

 答はおそらく日中の閑散時間帯に存在する。たとえ座席定員の半分程度の乗車であろうとも「着席しにくい」雰囲気が存在するのだ。要するに、始発駅(及びその近傍駅)から乗車した利用者が自ら過ごしやすいように車内空間を占有するため、途中駅から乗車した利用者が「席を空けて」「その場所を空けて」と主張しにくいのである。

 筆者が乗車する範囲でこの雰囲気がないのは山手線と京浜東北線、この雰囲気を濃厚に漂わせるのは東海道線と日暮里・舎人ライナーである。後者にはクロスシートがあることが特徴で、空席に荷物を置かれてしまうとかなり厳しい。「先乗利用者」とでも呼ぶべき利用者層は、途中駅からの利用者に対し排他的に振る舞いがちである。

 「声」「意見」を発した利用者とは、かなりの部分がこれら排他的利用者ではあるまいか。





■実は世代間対立

 そして、これら排他的利用者の多くは高年齢層(本稿では団塊世代以上と定義する)である。より正確にいうと、日中の閑散時間帯には若い世代の利用者数は相対的に少ない。詰まるところ、所謂「ベビーカー論争」とは、

   ●車内空間を自ら過ごしやすく占有したい高年齢層
   ●公共交通の乗車に不慣れな若年層に属する子育て世代


 この両者に存在する世代間対立の一断面である、と筆者は考える。

 この対立を複雑化しているのは、通勤利用者の感覚である。筆者は直接経験したことがなくとも、朝ラッシュの激しい混雑のなかでベビーカーを押す親子が近くにいれば、確実に不快感を持つであろう。実際に直接経験した方にとっては、おそらく不快感だけでなく、危険を感じる場合もありうるだろう。だから、通勤利用者がベビーカーを受容できないという感覚そのものはいちおう理解できる。

 しかし、「ベビーカーの存在は不快だ!」「そもそも危険だ!」などと主観を展開するだけでは、感情の発露に終わってしまう。この「論争」を世代間対立ととらえた場合に、どちらを支持しうるかのほうが遥かに重要ではないか。



 筆者の支持は明確である。所謂「ヤンママ」と呼ばれるカテゴリーの若年層に嫌悪感を持っていてさえ、高年齢層と対立する限りにおいて、筆者は若年層を支持する。

 より端的にいえば、高年齢層の為してきた社会的行為を筆者は憎む。社会からリタイアしたとしても、安全地帯に逃れたとは言わせない。敗戦後の荒廃を復興し、高度経済成長を果たしたところまでは功としても、その後は罪だらけではないか。発展に浮かれて無為無策におちいり、バブルに狂奔し壊滅的打撃を被り、しかもその後の停滞を打破できない有様はどうだ。しかも、社会を営む責任は、いつの間にやら筆者らが属する世代に移行しつつある。

 最も悪質なのは団塊世代である。勿論立派な人物もおられるが、集団としてみれば相当たちが悪いと批判せざるをえない。高度経済成長の担い手として「近代社会に先住した」立ち位置を存分に活かし、より若い世代に支配的に振る舞う姿(※)は、醜悪である以上に今日では有害でさえある。

※:現在50代後半の方々も団塊世代には相当やられたはずだ。おそらくそれが原因で主体的・能動的に行動できない人物を筆者は多数知っている。



 特に年金を受給している層が、「ベビーカーは邪魔だ」という旨での「声」「意見」を発するならば、社会に寄食していながら(おそらく承認の欲求を満たすため)社会に対し支配的であろうとするに等しく、身の程知らずと一層倍厳しく指弾しなければなるまい。所謂「往く道」ばかりに気を取られ、「来た道」にはペンペン草が生えようと構わないというならば、無責任にもほどがある。筆者は「ベビーカーは邪魔」という「声」「意見」を発する通勤利用者の心情は理解する一方で、たとえ同じ「声」「意見」であろうとも高年齢層に対しては徹底的に嫌悪する。

 過度に支配的でありすぎた団塊世代は、もうこれ以上一切社会的な主張を控えるべきだ、とさえ思う。綺麗に身を引いて、実権を若い世代に渡すべきであろう。還暦過ぎてもなお満たされず、支配欲を周囲に振り撒く姿は、老醜そのもの迷惑千万である。

 「ベビーカー論争」とは所詮、これら高年齢層の若年層に対する支配圧力の変形であり、世代間対立の一断面にすぎない、と筆者は考える。だから筆者はこれを「論争」と呼ぶに値するとは認めない。むしろ、かような精神論と、(通勤利用者が主張する)物理的不快・危険とをごちゃ混ぜにする「ベビーカー論争」とは、高年齢層の思う壷にはまっていると指摘せざるをえない。

 産経新聞にせよ、朝日新聞にせよ、この状況に仮託して自らの所信を述べているだけであって、やはり「論争」とは認められない。NHKに至っては、朝日新聞の記事に悪乗りし「時間の埋め草」にしただけではあるまいか。

 筆者も実は自分の所信を述べているにすぎないが、現象の背景に迫ったつもりではいる。これをどのように受け止めるかは、読者諸賢に委ねることとしたい。なお、世代間対立については、改めて続編を構想している。





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