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ある地方私鉄の衰勢〜〜長野電鉄での一例

 

 

■回覧文書より(全文)

 平成13年 9月17日

 南口ご利用の皆様へ

 長野電鉄株式会社

 市役所前駅南口、営業の変更について(お知らせ)

 毎度、長野電鉄をご利用いただき誠にありがとうございます。
 さて、昭和56年地下鉄開業以来、皆様にご利用いただいております市役所前駅も、押し寄せる車社会の波、市街地大型店の撤退による街の空洞化が進み、利用客が大幅に減少しております。
 このような状況下、当社は、駅の合理化、長野線のワンマン化等を実施し対策を講じてまいりましたが、利用者の減少に歯止めが掛からず、厳しい営業を余儀なくされております。誠に遺憾ではありますが、止むなく当駅南口を下記により営業日、営業時間を限定して営業させていただく事になりました。
 大変ご不便をお掛け致しますが、営業時間外には北口をご利用いただきますようお願い申し上げます。ご理解とご協力を心からお願い申し上げます。

 記

 1.実施日  平成13年10月15日(月曜日)より
 2.営業時間 午前 7時00分〜午前10時00分
        (始発〜午前 7時及び午前10時以降終日は閉鎖)
 3.営業日  月曜日〜金曜日の平日
 4.非営業日 土、日、祝祭日、 8月13日〜 8月16日、12月30日〜 1月 3日
 5.南口駅の現状について
 (1) 朝の通勤時間帯(午前 7時00分〜午前10時00分)に利用客の70%が集中し、その他の時間帯は著しく利用客が減少している。
 (2) 平成 8年度と12年度を比較すると20%と大幅に利用客が減少している。
 (3) 土、日、祝祭日の利用が平日の30%と減少している。

 以上

 

 注1)長野電鉄長野線長野−善光寺下間は、連続立体交差化により地下化され、「地下鉄」と通称されている。

 注2)市役所前駅は改札口を2箇所(北口・南口)有する駅であり、長野電鉄においては例外的な構造である。
    これはおそらく、旧錦町駅と旧緑町駅(当時は休止中)を統合して市役所前駅としたことによる措置と推測される。

 

■市役所前駅の衰勢

 上記は、長野市内各社に回覧された文書である。市役所前駅2箇所の改札のうち、南口を平日朝のみの営業とする旨の内容が記されている。駅じたいが廃止されるわけではないから、軽微な営業変更といえるが、南口が最寄りの利用者にとっては若干ながらサービスダウンということになる。

 文書中、注目に値するのは「記」のうち5である。ここには、市役所前駅の衰勢が明瞭に記されている。

 利用客の大半が朝ラッシュ時間帯に集中している、という点は実感として理解できる。混雑している列車は特定の数本のみで、少しピークをはずせば混雑率は高々 100%というのが、長野電鉄の実態である。退勤時間帯は利用が分散し、ラッシュというほどの混雑もない。夜の市役所前駅ホームには人影が少なく、なんともさびしい状況である。

 郊外店のみが繁盛し、中心市街地が閑散としている状況を見れば、土日祝祭日には利用者が激減するというのもうなずける。中心市街地の空洞化は全国的な傾向ながら、長野の場合は極端である。中心市街地の道路は閑散、郊外のバイパス道路は恒常的に渋滞という都市構造は、かなり珍しい部類に属するだろう。

 その結果なのか、どうか。市役所前駅においては、12年度/ 8年度の利用者数比が20%も落ちこんでいるとの事実には、強い驚きが伴う。

 注3)文面からは「80%も落ちこんだ」ようにも読めるが、統計データから確実に読みとれるのは「20%の落ちこみ」にすぎない。「てにをは」にかかる微妙なミスではあり、文面を起草した方はミスをしたとの意識を持っていない可能性さえある。しかしながら、読者に誤った(しかも強い)印象を与える内容なので、問題なしとはいえない。

 モータリゼーションの深度化により、公共交通の利用者数はさらに落ちこむ傾向を示しつつある。都市構造の激変は、その傾向にさらなる拍車をかけている。公共交通のパイは、どう考えても縮小する一方ではあるまいか。

 

 

■参考文献(01)に見られる過去の繁盛

●長野から須坂へ−−長野市の郊外線
 ・・・・・・
 権堂はかつて長野市の中心的繁華街であったが、ここ10年来、長野駅周辺にデパート・大手スーパーなどが進出して勢力を奪われた権堂商店会が、地盤回復のために大型店の誘致を図り、旧長電本社と観光バス・ハイヤー営業所の跡地に完成した「長電権堂ビル」にイトーヨーカドーが開店した。地下鉄化の直後に開通する幅員38mの長野大通りをはさんで 600台収容の立体駐車場もオープンして、この周辺の変貌ぶりは目を見はるものがある。権堂は通勤客の乗降が最も多い駅であるが、今後は普通客の増加も期待されている。・・・・・・

●信州中野から木島へ−−千曲川ぞいの深雪線
 スキーシーズンだけ活況を呈するのがこの区間である。木島の奥に野沢温泉という大スキー場があり、その手前にも木島平民宿スキー場が整備されて、大都会のスキーヤーを吸引している。ただ、残念なことにここ十年来、国鉄飯山線の輸送力増強などにより、戸狩口から野沢へのシェアが増加しており、木島口は昔日の優位を失いつつある。運賃も長野電鉄の長野−木島間が 630円であるのに対し、国鉄は長野−戸狩間 310円で、その格差は大きい。そこで、53年10月改正では、冬季とシーズンオフの2本立てダイヤとする話も出ている。

●屋代から須坂へ−−最古にして最低のローカル線
 長野電鉄の起源は、大正11(1922)年 6月10日にこの区間を蒸気動力で開業した河東鉄道であった。当時としては、河東地区をレールで信越本線と結んだ意義はきわめて大きかったが、4年後の長野線開通(当時は長野電気鉄道〔株〕)により、主客転倒したのは当然である。いまや、上野−湯田中間直通急行と貨物列車のために存在するといってもよいくらいの通勤通学線である。

 

 

■21世紀となって

 この紹介記事から20年以上の歳月が流れた。長野電鉄沿線の状況はどのように変わったのであろうか。

 権堂は、今日でもなお中心街としての存在感はある。しかし、長野においては商業施設の郊外化が強く進んでおり、古くからの市街地は相対的に地位低下している。「そごう」が撤退するなど、空洞化には著しいものがある。記事に紹介されている再開発ビルは成功しているが、これがなければさらに壊滅的な状況に陥っていたおそれもある。

 実際のところ、長野市民は中心市街地よりむしろ、国道18・19号バイパスに沿う新しい商業施設に向かう。中心市街地で目立つのは、自家用車を使えない若年層と、遠来からの観光客である。家族連れの姿はあまり見かけない。「びんずる祭」など催事の際には大勢の人出はあるが、普段の週末は必ずしもそうではない。

 屋代線は、当時から既に「直通急行と貨物列車のために存在する」とされていた閑散線である。記事中に著者肩書は記されていないが、小林宇一郎氏といえば長野電鉄取締役として広く知られている。現役取締役にここまで酷評される路線は、珍しい。あるいはこの記事は、屋代線でのサービスダウンを念頭に置いた観測気球であったかもしれない。

 今日の屋代線では、直通急行も貨物列車も廃止され、普通列車のみが運行されている。そもそも、路線のロケーションがあまりにも悪すぎる。沿線に松代など有力市街地を抱えながら、需要を導ける線形にはなっていない。現状のままでは、路線の存在意義じたいが問われても不思議はない状況といえよう。

 木島線の沿線には有力市街地がなく、ロケーションは屋代線よりさらに悪い。木島線の衰勢は著しく、平成13(2001)年度末での廃止が確定している。

 当時の木島線は、スキーシーズンには活況を呈していた様子である。直通急行から利用者が流れていた、ということなのだろうか。今日のスキーといえばマイカー利用が一般的で、鉄道を使うにせよ、新幹線の駅からバスで乗りこむのが普通だろう。

 私鉄に限らず、在来鉄道の用途は限られつつある。新幹線の長野駅コンコースに立ってみればよくわかる。乗換改札口を通っていく利用者は、数のうえでは少ない。残念ながら、そして認めたくないことながら、それが在来鉄道の現実なのである。

 さらにいえば、国内ではスキー業界そのものが下り坂で、利用者の吸引力を失っている。飯山国際スキー場は昨シーズン限りで閉鎖されたし、閉鎖を取り沙汰されるスキー場は他にもいくつかある。観光客の目は、国内など通り越し外国に向くか、特定のテーマパークに集中する。魅力ある観光地をつくるのは、よほど奮起してもなお難しいのである。

 長野電鉄は、その点よく健闘している。長野−須坂間で日中4本/時運転、須坂−信州中野間で日中3本/時運転など、頻繁な運行本数を堅持している。駅数も多く、アクセスは容易だ。長野−信濃吉田間では、並行しているJR信越線よりよほど便利である。中小私鉄のなかで、最も業績の良い路線の一つに挙げることができよう。

 その長野電鉄でさえ、利用者数は下降線をたどっている。長野口で横這いもしくは漸減傾向、それ以外の区間では大幅な減少を示している。以下に示すグラフから、それは明らかだろう。

 

 

■統計データ

1)木島線各駅乗降客数(全数・1日あたり)
 

2)木島線各駅乗車客数(普通券・1日あたり)
 

3)木島線各駅乗車客数(普通券・1日あたり・拡大版)
 

4)長野電鉄主要駅乗降客数(全数・1日あたり)
 

   参考文献(02)による。1995年度までは5年毎、以降は毎年のデータを入力。

 

 

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参考文献

 (01)鉄道ジャーナルNo.138(昭和53(1978)年 8月号)『日本の鉄道8』より
   「長野善光寺平」(小林宇一郎=長野電鉄関連部分)

 (02)長野県統計書(各年度版)(長野県編)

 

 

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