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「民意のノー」は万能にあらず





■朝日新聞平成18(2006)年 7月 3日付記事より

  2日投開票された滋賀県知事選で初当選を決めた京都精華大教授の嘉田由紀子氏(56)は、……新幹線新駅の建設に「ノー」を打ち出し、県民の関心を呼び起こした。陣営の合言葉になった「もったいない」は、財政難や環境問題に危機感を抱く層を引きつけた。……
 ……
 嘉田氏は選挙期間中、ひたすら「もったいない」と訴え続けた。……財政難の中で新幹線新駅を建設することがいかに無駄か、……表現するぴったりの言葉だと思った。





■コメント

 新駅が必要かどうかは、詰まるところ地元の選択であり、部外者がとやかく論ずるべきではなかろう。ただ、一連の報道を見る限り、稚拙な危うさを感じる。以下、思うままに記してみよう。



論点1:知事の政治姿勢

 選挙は短期間の一発勝負であるから、キャッチフレーズが人心をとらえると思わぬ大風が吹くこともある。現職知事に大差をつけての当選、という現象そのものはありうることで、驚きは伴うものの不思議とするにはあたらない。

 気になるのは、新知事の公約があまりにも端的すぎることだ。平成 7(1995)年、東京都知事に「図らずも」当選した青島幸男が、臨海副都心で計画されていた世界都市博覧会を中止する以外は、ほとんど業績を残せなかった事績を思い起こす必要がある。知事とは都道府県の長であり、その権限には絶大なものがある。広く人間社会に通暁し、力量ある政治家でなければ、務めきれるものではない。都市博をやめる、という一発勝負だけでは任期四年に直面するさまざまな事案に対応できるはずがないのだ。

 嘉田由紀子新知事には、青島幸男に似た雰囲気を感じる。せめて田中康夫や堂本暁子に近づくことが出来れば、(個人的好き嫌いは措くとして)立派な知事になりうるはずだが……。



論点2:契約のイロハ

 民意が嘉田知事を選択したのだから新駅工事は即時中止すべき、とする論調も見られるが、極めて稚拙で短絡的な話である。みのもんたなど「国鉄時代の債務を置いといて地元負担はない」とTVで吠えていたが、まったくの暴論だ。滋賀県らとJR東海は既に協定を結んでいる。協定ゆえに破棄条項はないと思われるが、正当に成立した協定ゆえに正当に破棄されない限り、効力を有する。 7月分工事費の県負担分の予算執行を認めたというのは、公約に対して日和ったわけでもなんでもなく、当たり前のことをしたにすぎない。そんな当然の約束事が、あまりにも理解されていないのは問題だ。

 民主主義において民意は尊重しなければならない。しかし手順として、現時点では出来ないことがある。民意は決して万能のカードではなく、正当な手続が必要なのだ。その点を踏まえての議論であれば理解できるのだが、「民意=葵の印籠」という思いこみがある節が散見される。その裏側に、民意には法や慣習を超越する絶対性・専政性があるという思い上がりはあるまいか。筆者はその点に危うさを感じてしまう。



論点3:新駅は本当に不要か

 これについては現時点での判断は難しい。客観的には「のぞみ」停車がありえない以上、利用者数はさほど多く期待できない。需要予測どおりの結果が得られるかどうか、かなり微妙なところだ。京都から在来線に乗り換え滋賀県内に入っている利用者をどれほど取りこめるかが、駅としての成功の鍵となるだろう。

 しかしながら、新駅設置による受益は、駅の利用者だけがもたらすものではない。駅前の開発、これに関連する産業振興や地価上昇など、さまざまな要因が考えられる。長期的には地域の核として大発展する可能性もある。その一方で失敗に終わるリスクもあるわけで、いつまで経っても駅前は草ぼうぼうという事態だってありうる。現時点でその将来像を確実に見通せる者は神眼の持ち主と呼ぶしかなく、神ならぬふつうの人間は、不確実な将来に対しリスクを負いながら決断するしかないのだ。

 以上の意味において、民意は決して軽くはない。成功するか否か、確実な見通しがないなかでは危険は冒せない、という判断は有力な選択肢となりうる。それが冒頭で述べた「地元の選択」であって、部外者が容喙すべきでないだろう。

 ただし現状では、手続論まで含めて、合理的判断がされたうえでの選択とはいいにくい。その点では問題含みの選択、ということは敢えて指摘しておこう。特に頭から「無駄」と決めつけているマスメディアの姿勢には問題が多い。合理的根拠に基づく批判には説得力があり、そうでない批判はただの騒音にすぎない、ということだ。



論点4:費用負担ルール

 請願駅という手法じたいは古くからあり、新駅設置に伴う全費用を地元負担とするものである。新駅を設置するといっても、ホームと駅舎をつくるだけでは終わらない。信号と閉塞をいじらなければならないし、待避線が必要な場合もある。工事費は決して少額ではなく、一鉄道会社が負担するには重い。その意味では、地元も費用負担するという手法には一定の合理性がある。

 とはいえ、全額負担に合理性があるかといえば、まったくの別問題であろう。なぜならば、新駅設置により鉄道会社も受益するからである。特に新幹線では、待避線設置によりダイヤの自由度が高まる事例が多い。新富士・掛川・三河安城で新駅設置が実現したのは、JR東海にもメリットがあったからにほかならない。たとえ新駅の利用者数が少なくとも、「のぞみ」大増発に寄与しているのは確実で、JR東海の増収に貢献しているはずなのだ。そういう背景があることを考えれば、JR東海の負担額が過小だという批判には、合理性も正当性もあるといわざるをえない。

 受益の範囲内での負担を求めるのは世の趨勢である。全額地元負担という手法を見直し、地元自治体・鉄道会社の双方が納得しうる、新しい手法の確立が必要とされていることは確かである。



余談:「勿体ない」話

 以上の伝になぞらえれば、相模新駅や静岡空港新駅などはJR東海にメリットが皆無で、極端な話百年経っても門前払いが繰り返されるだろう。これと比べれば、栗東新駅は乗り乗りの対応といえるわけで、そのせっかくの新駅を地元から「要らない」とは、それこそ「勿体ない」話のように思えてならない。リスクはあるとしても、駅前開発を地元自治体が主導しているからには、大ハズレもまたないだろう。

 もっともこれは、よそ者の目から見た余談にすぎないが。





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※本稿はリンク先「交通総合フォーラム」とのシェアコンテンツです。





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