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砂漠を渡るタクシーと「自己責任」
■ことの本質
平成16(2004)年 4月 8日、アルジャジーラ(カタール国の衛星TV局)にて、イラク国内で武装グループが日本人3人を拘束し、3日以内に自衛隊が撤退しないとこの3人を殺害する旨の意志表示が、3人が拘束されている様子の映像付きで放映された。
拘束され人質となった3人は、不幸と呼ぶべきか不運と呼ぶべきか。少なくとも本人にとっては、死の恐怖に直面するたいへんな事態であったに違いない。その一方、イラクにおける治安の悪さは既によく知られており、国外退避勧告が何度かに渡って出ていたことから、本人の自己責任(より露骨にいえば自業自得)であるとの意見も呈されてはいる。しかし、ここではそれをひとまず措く。
3人にとって決定的に不幸だったのは、周囲が先走って動いてしまった点にある。周囲から発せられるメッセージが「とにかくまず人質(家族)の救出を」ということであれば、世論はこれを支持したかもしれない。ところが、実際に発せられた当初のメッセージは、大略下記のとおりであった。
「自衛隊はイラクから撤退を」
「政府に人質救出の具体策がないのは不満だ」
これらメッセージには特定の「政治的抱負」が含まれており、いやらしいと断じざるをえない。このメッセージを発した者が誰であれ、3人を人質にして「イラクからの自衛隊撤退」という「政治目的」を達しようとした点において、武装グループと精神構造を共有している。実に卑劣である。
この事件をつかまえて堂々と「イラクからの自衛隊撤退」を訴えた政党を、決して忘却してはなるまい。彼らは自らが手を下さなかっただけで、たまたま第三者が行った犯罪の尻馬に乗り、その犯罪行為に事実上同調・荷担したのである。そんな政党を支持すれば、どういうことになるか、よくよく考えなければなるまい。
まず「イラクからの自衛隊撤退」を訴えてしまった3人の家族の姿を、決して忘却してはなるまい。彼らは自分の家族を人質にして、自らの「政治的抱負」を実現しようとしたに等しい。彼ら自身は自らを正しいと考えていたかもしれない。とはいえ、それは単なる独善ではなかったか。
以上のような姿勢に政府が反発するのは極めて自然であり、政府を支持する意見が興るのも当然の展開である。しかし、それを論理化するにあたって「自己責任」に帰着させたのは、ことの本質を晦ます稚拙と評さなければならない。「自己責任」論では「国外退避勧告が出るほど危険な国イラクに行ったこと」じたいが批判の対象となっているが、これは明らかに行きすぎであろう。
批判されるべきは「国外退避勧告が出るほど危険な国イラクに行ったこと」にはない。この事件をつかまえて「政治的抱負」を実現しようとした有象無象の動きこそ、強く批判されなければならない。「自己責任」という用語をめぐる論争は、いたずらに不毛であり、ことの本質は遠く置き去りにされている。この事件の経緯のなかで唯一幸いだったのは、3人が無事に解放されたことだけである。
詰まるところ、政府を支持する意見も、3人とその周囲を支持する意見も、論理の基礎が脆弱であって、ただ感情をぶつけあっているに近い。それゆえに議論が議論にならず、知的成果の得られない無限の循環が繰り返されている。堅固な論理を構築できないという観点において、当代は歴史上最も知性が後退した時期といえるのではあるまいか。
■「自己責任」とは
ヨルダンのアンマンからイラクのバグダッドまで、3人はタクシーをチャーターしたという。移動距離はおよそ千km、東京−札幌・福岡間に匹敵する遠距離である。これだけの距離にもかかわらず、料金は約1〜2万円前後といわれている。為替相場の差というよりも、物価の違いが大きいのであろう。日本でいえば10〜20万円くらいの感覚か、あるいはさらに高額のイメージかもしれず、そうであればこそ、敢えて危険を冒しつつ砂漠を渡る仕事をする意味があるのだろう。
不幸にして、3人を乗せたタクシーは武装グループに囲まれた。3人が捕らわる一方で、タクシーの運転手は口止めされたうえで放されたという。この運転手は、身を守るために仕事を捨て、どこかに潜伏したとされている。
危険を乗り越え高額な報酬を得る、安全第一で身を隠す、いずれも「自己責任」の一つの形であろう。「自己責任」という概念は、ほんらい自己のなかで完結するものであって、他者の容喙などなじまない。
この事件を経てアンマン−バグダッド間を移動しようという利用者は激減、砂漠を渡るタクシーには閑古鳥が鳴いていると伝えられている。タクシーが細々とつないでいた砂漠の道筋が、おそらく一時的な事態ではあろうが、ほとんど消え去ろうとしている。かの国に公共交通がよみがえる日は、まだ遠い。
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