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事故になにを学ぶのか
■都電荒川線における事故
平成18(2006)年 6月13日、都電荒川線梶原−栄町間において、急制動試験中の試運転列車に早稲田行営業列車が追突した。この事故で負傷者が27名出た。
■論点1
記者会見において東京都が「都電には ATSを設置していない」と言及してしまったこともあり、主にTVのコメントなどでは追突防止機構が設置されていない点に対する批判が散見された。
事故が起きたという結果が生じた以上、なんらかの対策(再発防止策)が必要だという発想は、実務的にも社会通念としても妥当である。妥当ではあるが、事故発生のリスクに関する誤解が根底にあることは、敢えて指摘しなければなるまい。端的にいえば、「絶対安全」という概念は地上に存在しない。事故はあくまでも確率的に発生するものである。鉄道ではこの確率が極端に低いため、「絶対性」を信じさせる素因となっているものの、軌道<トラム>ではいささか事情が異なる。
トラムという交通システムには、続行運転を許容する特徴がある。鉄道でいう閉塞区間は設定されておらず、先行列車との距離間隔は運転士の目視により、制動も運転士の技量による。如何にも原始的なシステムといえ、機械的な抑止機能がないことは事実だ。続行運転の後続側に乗ってみればすぐわかることだが、先行列車のわずか数cm後ろまで近づくこともあり、その全てを運転士の技量に委ねるというのは、利用者としては不安が伴うといわざるをえない。現状は融通がきく利便性があるものの、常に一定確率のリスクがあることは認識されてしかるべきであろう
しかしながら、「全てを運転士の技量に委ねる」という部分に関していえば、実はバスやタクシーとなんら変わらない、という点に留意すべきであろう。勿論、トラムは加減速性能が自動車とは大きく異なるし、軌道によりガイドされているためハンドル操作による危険回避ができないので、事故発生確率には濃淡があるとしても、運転士の技量まかせで追突防止機構が存在しないという根本部分はまったく変わらないのである。
都電荒川線の併用軌道区間
トラム・バス・タクシーなどは追突事故が発生しうる交通システムであって、そのため事故が発生する確率は現に存在し、事故事例はまさに山ほどもある。ということは、その確率を許容する一方で、事故を起こした人間(運転士)の結果責任を問うことで問題解決を図るのが、良くも悪くも社会の約束事となっている。事故発生確率を社会的に許容できなくなれば、そこで初めて対策を講じるベクトルが働くはずだ。
筆者は上記「社会の約束事」が正しいとは必ずしも考えていないが、リスク(事故発生確率)に正面からは決して向き合わないという消極的な意味において、リスクとつきあう社会の知恵なんだろう、と受け止めている。
追突事故を起こして多くの負傷者を出した結果があるから、都電側に言い訳が効く状況ではないことは理解できるのだが、ATS がなかったことが事故原因の一つなのだから追突防止機構を設置せよ、という批判はリスクの概念を知らない短絡的な暴論のように思えてならないのである。
■論点2
先には「社会の約束事」は社会の知恵と認めつつも、これを必ずしも正しいとは考えていないと、かなり矛盾した書き方をした。それは「社会に約束事」には明確な弊害が存在するからである。事故発生リスクを許容するとは、事故発生確率の過小評価とほぼ同義である。事故発生リスクに関する不感症・無神経さをも惹起しかねない、という問題が常に内包されている。
リスクに対する受容感覚は科学的な考察もなされており、一般的なリスクの場合人間が許容しうる発生確率は0.01%未満とされている。「万が一」という慣用句は、実は的確に人間の感覚を表現しているといえるのだ。例えば、交通事故が社会問題とされたのは年間死者数が一万人を超えた時期で、日本の人口を考えればまさしく「万が一」を超える発生確率に相当する。それゆえに「交通戦争」などと形容され、交通事故を減らすための取組が始まったのである。
問題とはこういうことだ。近年の交通事故死者数は減少を続けており、社会的には受容しうる水準まで達したのかもしれない。しかしながら、交通事故死者数は絶対的には未だ多く、毎年六千人以上も亡くなっているではないか。人間の社会活動に伴う死者数がこれほど多い事象を、筆者は他には知らない。包丁を使えば怪我をするリスクはあるものの、死亡事故など滅多に起こるものではないし、包丁を凶器とする殺人事件などさらに少ない。これら他のリスクと比べれば、交通事故死者数の突出ぶりは異常ですらある。
「万が一」が「二万が一」になったからといって、リスクを受容していいものなのか。オーダーを一つ下げ「十万が一」にする努力がなされないのは何故なのか。「全てを運転士の技量に委ねる」交通システムとしての不備を改革して、事故を未然に防止する機構を開発しないのは何故なのか。詰まるところ、事故を起こした責任を個人に帰すことにより、リスクの存在から目を背けているだけのように思える。否、実は単なる不感症・無神経なのかもしれない。
このたび都電が事故を起こしたからといって、例えば ATSを設置すればよいと発想するのでは対症療法に近い姑息な弥縫策でしかないし、それ以上に想像力が貧困と評するべきであろう。この事故での着目点は「全てを運転士の技量に委ねる」交通システムとしての特性(不備)であって、そこから展開すれば、自動車交通も同様の特性(不備)を備えているという点である。トラムは鉄道の一種と枠をはめてしまえば、既存の技術からは抜けられない。むしろ参考となるのはIMTSで、自由閉塞で安全を確保するシステムは、トラムはもとより自動車交通全般に応用可能なものだろう。もっとも、IMTSのコストはまだまだ高く、普及するまでには時間を要するかもしれないが、目標を設定することは今からでもできるのである。
平成16(2004)年東京モーターショーに出展されたIMTS
繰り返しになるが、多数の負傷者を出した結果責任は重く、都電側には言い訳の余地はほとんどない。だからといって、対症療法に追われるだけでは進歩発展はない。願わくばトラムだけではなく、自動車交通の持つ交通システムとしての特性(不備)にも着目し、将来の礎としてもらいたいものである。
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