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渤海使と能登 |
(2001年3月7日、「能登の古代」から渤海に関わる記述の部分を分離独立させ、加筆した)
奈良・平安朝時代の交渉といえば、日本史を学んだことのある人は、パブロフの犬のように、すぐ反射的に思い出すのは遣唐使ではなからおうか。実は当時、他にも海外との交渉で、別ルートが2つあったのである。1つは、遣新羅使であり、もう1つは、これから紹介する渤海使であります。恐らく、渤海交渉の歴史についてはあまり聞いた事がないことでしょう。それは、現代教育の弊害なのです。実際には、意外にも、後の2つも遣唐使と同様、日本に深い影響を与えているのである。(ここでは能登の歴史に深く関わりがある渤海使を述べるので遣新羅使は省略させてもらうが)渤海使について言うと、実は意外にも、海を往復した通交頻度や相互交流の濃密さから言えば、遣唐使よりもこの渤海使の方が実務ルートとして、外交チャンネルと文化的な情報回路、交通路としての役割がおそらく数倍も濃く、太いのである。
皆さんに、これから渤海との交渉の歴史を紹介し、こういう歴史もあったのだと頭の片隅にでも記憶していただければ、私もここに取り上げた甲斐があるというものです。
古代国家は体制は、7世紀末に完成しましたが、いわゆるこの律令体制のもとにおいても、コシの重要性は大きかった。従来の歴史では、とかく古代国家の・文化形成期の繁栄期においては対唐関係を重視するのに比べ、対渤海関係があまりにも軽視されすぎていたようであります。それがとりも直さず、「日本海文化」、特にコシの重要性を見過ごすことに繋がってしまったようです。
渤海国は、713年に現在の中国北部から朝鮮北部にかけてつくられた国です。現在の朝鮮半島北部からロシアの沿海州地方にあった国で、日本海を挟んでちょうど加賀・能登の対岸にあたります。「海東の盛国」とも呼ばれ、唐風の文化を持つ繁栄した国家でした。
渤海国は、神亀4年(727)の出羽国着岸以来、延長4年(926)年に渤海国が滅ぶ200年余りの間に、日本へ36回使節(回数については34回、35回など異説もあり)を派遣しています。日本からも渤海へ13回使節を派遣しています。渤海使来航の報告を受けた政府は、存問使(ぞんもんし)を現地に派遣して審査し、代表を入京させ、他を現地近くに滞在させました。時には、理由をつけて入京させない場合もありました。帰国も日本海ルートを採り、送渤海使(遣渤海使)を同行させました。律令政府の外交ルートは、筑紫太宰府から難波津を正式としていましたが、高句麗人の来着は昔からのことなので、渤海も旧高句麗国とする立場をとって容認し、かわりに滞在や帰航に係わる費用を地元に負担させていたのでした。
渤海との交渉ですが、日本海の航海は困難を極め、ことに、日本海に突き出した能登は何度も、渤海との交流史に登場します。加賀・能登への着岸は明らかなもので6回あります。
ここでその中の第6次の渤海使を見てみましょう。天平宝字6年(762)10月、おそらく越前国へ来着したと推定される使節一行は、同国加賀郡に安置されました。一行のうち大使の王新福以下使節の主要メンバーは閏12月に入京しました。残りの人々は、そのまま加賀郡で王新福以下の帰りを待ちました。王新福は、翌天平宝字7年2月出京し、8月以降、無事帰国したようです。送渤海使船に従五位下が授けられたが、その船名は“能登”で、当地で建造されたもののようです。
浅香年木氏によれば、渤海使については、大使入京までの安置・供給は着岸国に命じられるが、入京は大使以下少数に限定されており、大使以下が出京し、再び他の一行と合流するまでの安置・供給は加賀郡に指令され、帰国のための造船・出航基地は能登羽咋郡福良津が指定されたとする解釈をしています。
また宝亀3年(776)には、送渤海使とともに帰国途上に遭難して、能登に漂着した渤海使を福良津に停泊させています。この時に客院は造られた形跡はありませんが、こうした関わりから客院設置が期待されたのでしょう。
延暦23年(804)には、渤海使が能登に来る事が頻繁なので、迎賓館にあたる宿舎を造れとの勅令がだされ、能登客院(今でいう迎賓館にあたる建物)が福良津(ふくらつ)(羽咋群富来町福浦)に造られたといわれています。ただし、これについては、実際に建立されなかったとする説もあるようです。
渤海使は文化人が多く、文化交流できることもあるが、交易の面でも、ヒョウ、テン、クマ等の高級毛皮、人参、蜂蜜などが日本にもたらされ、日本からは絹、麻、綿、漆、黄金などが贈答されました。
渤海使の接待に要する費用は、加賀・能登にとっては、大きな負担でありました。弘仁14年(823)11月には、立国直後の加賀にとっての大きな出来事は、第21次の使節の到着であったし、元慶7年(883)10月、能登国では、第30次使節送船の建造に充てるため、福良周辺の大木伐採が禁止されるなど、大変厳しいものでした。
しかし、一方では、渤海からもたらされる文化や品物を直接見聞きすることも出来て、その為、私交易をしようと試みる人も出たりして、政府から禁止されるほどでした。
このような加賀・能登と渤海の交渉も、後半に至ると、山陰道諸国への着岸回数が増えるにしたがって減少し、元慶7年の第30次使節を最後となってしまいました。前にも記したように延長4年(926)には、渤海国が滅びその交渉史の幕を閉じることとなりました。
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