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書評(平成11年11月29日)

『楽毅』(宮城谷昌光著:新潮社)

 私が、楽毅について、初めて知ったのは(もしくは頭に名前が刻まれたのは)、やはり宮城谷昌光氏の著書「孟嘗君」だったと思う。この宮城谷昌光氏は、今まであまり日本人が書くことの少なかった人物をとりあげて紹介するので、この作者のおかげで、私は、中国史関係の知識がさらに深まった。
 実は、この作者と出会うまでに、私はすでに中国歴史関係の小説など(例えば、三国志、水滸伝、十八史略、史記、ジンギスカン、聊斎志異などといった本)をおそらく200冊以上読んでいたので、中国史については、通のつもりでいた。それが、もう4、5年前になるだろうか。中国の古代王朝夏(商)の名宰相・伊尹を描いた「天空の舟」を読んで、自分の浅学さ・思い上がりを知らさたものである。以来、私は、この作者の本は、出版されているものは、片っ端に読むようにしている。(現在出版されている彼の本はおそらく全て読んでいる。)
 今回の主人公楽毅は、古代中国・戦国時代中頃にあった中山国の宰相の嫡子として登場する。おそらく中山国も楽毅も、入試の世界史で難問を出す早稲田大学文学部や政経学部でも、ここまで突っ込んでだすことはないと思われるほど今まで日本ではマイナーな名である。中山国は、東西南北を趙に囲まれ、わずかに北東部の一部が燕の国と接しておるという状態の小国で、趙王が自分の国に取り込もうとしたのは、小説を離れればある意味で、当然といえる。ところで、隣の趙の国は、晋の国が、大夫によって韓・魏・趙に3分割され独立した時にできた(ちなみに、この3分割したBC403年が春秋時代と戦国時代の境界の年であるから、受験生は覚えておくが良い)。とはいえ中山国と比べれば、象と人間のようにケタが違う大国である。
 趙王・武霊王は、「中山国には王をはじめ、大した人物はおらぬし、兵力も弱い。しかも、弱小国であるにもかかわらず、それまで公に過ぎなかったのを、王と名乗ったことで、友好国であった斉とも国交を断絶している。また、北方の燕国は、内乱の後遺症で、とても援助できまい、よし中山国を征服できる」と踏んだ。しかし、用心深い趙王は、さらに外交戦略により、燕や秦、斉などと友好を結びさらに中山国を孤立させた上で、侵攻を開始した。しかし、最初の侵攻の時、実は中山国の宰相の子・楽毅が、国交を断絶していた斉の国の都・臨シ(漢字が登録されていなのでスイマセン)に留学していた。彼はそこで、孫子の兵法を学び、また、斉の実力者・孟嘗君とも密に会い、知遇を受けていた。趙王は、最初の侵攻では、示威行動のみで、占領するようなことはせず、中山国の兵を蹴散らし南北に縦断しただけだった。が、この見くびりが、楽毅をして中山国の防備を堅固にならしめ、次回進攻は、頑強な抵抗を受けることになる。・・・とここまで書いてきたのだが、このままでは、あらすじになってしまうし、また読書する楽しみも半減してしまうだろう。(実際は、私が書き続けるのに疲れたのだが)。
 新潮社の書帯の文章によれば、「三国志の諸葛孔明をして、かくありたい、と言わしめた名将の熱き肖像」とある。確かにそうである。
諸葛孔明も、諸子百家の中では、孫子に一番重きを置いていた節があるが、今この小説を読んでみて気付いたことは、根本思想(楽毅の場合、孫子の兵法)に基づいて、楽毅が行動としていつも最終的に採った対処方法は、考えてみると諸葛孔明とよく似ている。やはり心情的に似通ったものを物をもっていたのであろう。私も、憧れる武将としての生き方である。功をあげ、名をあげても、業が成った後は潔く引く。これほどカッコイイ生き方はないと思う。
 この私の文章を読んでも推測が行くように、彼は最後は、とてつもない偉業をなしえるが、功に見合った報いを受けずにそこから去
ることになる。それは読んでのお楽しみにしておきたいと思うので、興味の湧いた人は、4巻という長編ですが、ぜひお読み下さい!
(簡単ですが、これで今回の書評は終り!)

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