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『北天の星(上・下)』(吉村昭著:講談社文庫) |
今度もまた吉村昭氏を取り上げてしまったが、やはり面白いから仕方がない。新刊という訳ではないが、文字を大きくして新装版となってたので、つい買って読んでしまった。今回の作品も、氏の得意な幕末ロシア関係ものの1つである。登場人物も、名奉行でお馴染みの遠山の金さんの父親・遠山金四郎景普が出てきたり、間宮林蔵が出てきたり、はたまた太平洋側の蝦夷航路を開拓した豪商・高田屋嘉平が出てきたりと非常に面白い。 それだけにこの本からさらに興味を深めるには、それらの人物が登場する他の作品との読み併せもいいだろう。たとえば、この作品は氏自身の作品・「間宮林蔵」や福井で種痘の普及に尽くした医師・笠原良作を描いた「雪の華」などとも深く関わっているからそれらとも併せて読んでみると一層興味深く読めると思うし、又勿論、司馬遼太郎氏の「菜の花の沖」(高田屋嘉平を主人公とした小説)や井上靖氏の「おろしや国酔夢譚」(大黒屋光太夫を取り扱った主人公とした小説)などとの読み併せも面白いと思う。 話は、文化4年(1807)4月エトロフ島西南海岸の内保にロシア艦「ユノ号」と「アウォス号」の2隻が姿を現したところから始まる。前年の文化3年9月、ロシアは樺太の大泊を上陸襲撃して、食料など多量の物資を奪い、倉庫などいくつもの建物に火を放って、番人の富五郎ら4人を攫って去っていった。理由は幕府が通商許可をほのめかしていたのに、その後、通商交渉のためロシアからやってきたレザノフを、長い間待たせた上に、通商不許可と答え、直ちに退去せよと答えたのでレザノフが激怒したのである。彼は帰路、日本の沿岸防備状況を調べ、なおかつ艦艇も派遣して日本の北方防備を調べさせ、それらが極めて貧弱だとわかると、フォストフ大尉を艦長とする「ユノ号」を派遣して樺太の大泊を攻撃させたのであった(実際には、レザノフはその後日本攻撃を思い直したが、フォストフ大尉らは、そのまま強行したのであった)。 内保に一番近いエトロフ島西岸のオイト(老門)にその知らせが伝えられると、オイトのただ一人の幕府の役人であった児玉嘉内は前年のロシアの暴挙を伝え聞いていたので狼狽した。対応を失敗すると、重い刑罰を受けるか、場合によっては切腹させられるからである。彼は、後々の幕府への申し開きのため、アイヌ通詞(通訳)助役であり、かつてロシア漂着民と接触してロシア語の知識が多少ある五郎治を、先遣として現地を探る目的も含め、内保へ派遣した。しかし内保に赴いた五郎治は、結局、内保の番人達とともに、ロシア艦に連行されてしまう。一番人小頭に過ぎなかった五郎治は、この時から思いがけぬ運命に翻弄されることとなる。 ロシア艦は、その後エトロフ島最大の拠点紗那(しゃな)に移動し、そこを攻撃した。幕府は紗那に、ロシアの上陸軍(20人くらい)の10倍以上の兵力を置いていたが、上陸の際迎撃することをせず、ロシア兵に攻撃されるとろくに反撃もせず敗走した。このことは普段権柄な態度をとるが、そのくせ臆病で卑怯という幕末の役人の状況をよく表していて面白い。この当時から、もはや幕府の役人に国防などを任せることは無理であったことをこのことは示していると思う。 紗那で、五郎治たち内保で捕らえられたもの10名のうち、8人は釈放されたが、五郎治は身分を偽って中川良左衛門という親方と名乗ったために、内保で捕らえたもう一人の左兵衛を従者として、そのまま極東のロシアの町・オホーツクに連れ去られることとなった。 オホーツクにつくと、オホーツク長官のブハリンは、フォストフ大尉らの行為を、ロシア国の意に反する不当な行為だと、つまり極東の開発を推し進める半官半民の露米会社に属するフォストフ大尉らの勝手な行為だとして、フォストフ大尉他ロシア艦の船員達を捕縛させてしまった。ただし五郎治や左兵衛は自由となったが、日本に返されることはなく、その地で機会を待つこととなる。翌年、今度は、ブハリンが、新任の長官ババエフと交代するときに拘束される。露米会社への対応が厳しすぎたとの理由だ。それに伴い五郎治らの扱いもひどいものとなり、彼らはオホーツクから逃走して日本に戻ろうとした。 しかし、第1回目の逃走は、準備不足だったのと、陸路南西に向かって逃げたため、日数をかけた割には、大した距離も進まず、途中出会ったツングース人の通報で、捕まってしまう。 彼らは、失敗を教訓にして、再度逃走計画を練る。過酷な仕事をして賃金を稼ぎ、逃走に必要な品物も揃え、再度の逃走をはかる。今度は、シベリア出身のオホーツクから逃走したがっていたミテレも加えて、アザラシ猟をすると称して漁船を借り、早朝逃走を決行した。沿海州の北方にあたるセンタリン諸島周辺まで行くが、左兵衛は飢えて口にした腐敗した鯨の肉で死亡した上に、ミテレも途中意見が分かれ別行動した挙げ句、凍死してしまう。結局、コサック兵につかまり、再度連れ戻される事となる。しかし、連行先のオホーツクは途中で変更となり、イルクーツクに連れていかれる事となる。なぜならロシアは、五郎治のロシア語の上達やその漢字能力を高く買い、彼をキリシタンに改宗させて、彼をイルクーツクにある日本語学校の教師としようと企んだのだ。しかし、五郎治は日本への帰国の夢を諦めず、改宗のみならず、寺院へ行くことさへも頑として拒み続けた。 五郎治が、日本に帰れる見込みもなくイルクーツクでそのように抵抗していたとき、リコルドという海軍大尉が着て、彼を連れてオホーツクに帰ることになった。前年に日本で捕らえられたロシアの「ディアナ号」艦長ゴロブニンと交換する要因として同じくカムチャッカで捕らえられた日本人らとともに、オホーツクから出航して日本に向かうというのだ。 五郎治はイルクーツクからオホーツクへ向かう途中、「オスペンナヤ・クニーガ」という天然痘を予防する方法(種痘)を書いた1冊の本を手に入れる(その後、別にもう1冊種痘の本も手に入れる)。その頃日本にはまだ種痘(牛痘法)は導入されていなかった。五郎治は、その実際のやり方も日本に戻るまでの間、オホーツクの町で教えてもらう。そしてオホーツクを出航・・・・ 国後島の泊に上陸する際にも、日本側の対応の仕方もあり、五郎治は使者となったりして一悶着あるが、どうにか帰国を果たす。 下巻の後半からは、種痘を「植え疱瘡」と命名し、生活の糧として生きる五郎治の生き方や、種痘の日本での普及などを描いている。もともと吉村氏がこの小説を書くきっかけとなったのが、長崎経由で入ったと思っていた種痘が、実は、それより数十年早く、最北の地蝦夷松前で、ロシア帰りの漂流民によってもたらされ、それも実際に多くの人に施されていたという事実を知ったことからであった。種痘が日本史の中でどんな大きな意義を持つかを知らない五郎治は、日本人の間に種痘を普及するという崇高な考えは持ちあわせず、種痘を生活の糧とし、痘苗を他人に譲ることは、競争相手を作ることであるとして頑として拒否した。そのため折角の種痘普及のチャンスを失うこととなるが、この小説を読むと、それも許せるほど小説の前半部での五郎治のロシアでの生き方は凄まじいものがある。読者は、貧困と差別と抗いながらも、帰国に執着し、あの極寒の地で2度もの逃亡を実行し、失敗し、それでも夢をすてず、とうとう帰国を果たす五郎治の生命力にきっと圧倒されることと思う。ちょっとそこらのフィクションものの冒険譚では得られない感動巨編である。 過酷な運命に抗い、不屈の精神で日本に帰ってきた五郎治が、帰国すると同時に、取り調べなど罪人同様の扱いを受け、釈放されても国を出ることなど制限されてしまう。ロシアからの持参品も没収され、帰国後、小役人にはなれたが、技術として身につけた種痘が生活の糧となるとわかった彼が、痘苗を譲ろうとしなかったことは、その生き様を振り替えれば当然と言えるであろう。この方が小説としては、かえって人間くさく、人間や歴史というものを深く考えさせてくれるのではなかろうか。崇高な精神と言っても、結局は「うまく種痘を、貰い受ければ日本の医学において先鞭をつけられる」という安易な個人の名誉欲も見え隠れする。勿論、そういう名誉欲も学問を発達させる大きな原動力ではあるが、この小説は、歴史は安易にそのようなものを与えないという戒めでもあるような気が私にはする。 |
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