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書評(平成17年02月12日)

『藍色の海』(安部譲二著:PHP研究所)

 「海は男のロマン」という言葉がありますが、私も能登の港町で育ち小さい時から海を見つめて遠い他所を夢見たことがあるだけに、海は大好きです。乗り物では、勿論、船が一番好きです。また海賊・水軍というものに対しても昔から非常に興味がありました。藤原純友、松浦水軍、河野通有、村上水軍、九鬼嘉隆、塩泡水軍などなど数多くの本も読んでいます。この感情は、あこがれと言っても良いかもしれません。だから能登近隣にも海賊はいなかったのだろうかと、色々調べたりもしました。能登近隣では、南北朝の争乱や、上杉謙信や前田利家なども進軍の際、度々船を利用して富山湾などを渡ったことはわかっているのですが、どうも記録上に貌(かお)の分別できる形では出てきません。それだけに海賊がいた歴史をもつ地域が羨ましく思える源さんです。
 
 前置きが長くなりました。この本は、平安時代から明治まで続いた海の一族・松浦氏の歴史を書いたものです。作者はあの「塀の中のプレーボール」で有名になった安部譲二さん。最近は、テレビにもよく出演され、マルチタレントといった方がいいかもしれません。彼は東京出身であるのに、その上、今まで歴史的著作があまりなかったように思われるのに、なぜこの本を書いたのか、最初は少し不思議に思いました。とにかく私の好きな松浦水軍について書かれてあるようなので、読み進めていくと、その謎がどうやら掴めました。

 平安時代に酒顛童子や土蜘蛛といった妖怪変化を退治して日本全国に武勇を轟かせた人物といえば渡辺綱(わたなべのつな)で、坂田金時、ト部季武、碓井貞光とともに源頼光の四天王の一人に数えられています。この曾孫にあたり、瀧口泰の息子で、幼名を新太郎、のちに久(ひさし)と名乗った一人の北面の武士が松浦氏の祖先であるといいます。渡辺氏は源氏だが、住んでいた摂津渡辺の地を名乗ったといいます。ではこの渡辺久がいかにして松浦氏となったかであるが、読むと、この経緯が作家のルーツを示唆する話と関わるのでありました。

 平安末期の永承6年(1051)に陸奥国で安倍頼時が叛乱を起こして、前九年の乱が起こります。現地の国司の軍は、安倍氏に蹴散らされたので、朝廷は武士の源頼義とその子・義家の父子を、陸奥守と鎮守府将軍に任命し、鎮圧に向かわせました。安倍一族の勢いはとても強く、戦いは長引き、康平5年(1062)まで続いてやっとこの戦いが終わります。安倍頼時は戦いの途中、病死し、その長子・貞任(さだとう)は戦死、その弟の宗任(むねとう)と則任(のりとう)は捕らえられてしまいました。この辺の話に関しては、私は結構興味があるので、何冊かの小説で読んで、かなり知っているつもりでありました。しかし私は捉えられた宗任がどうなったのか、この本で、注意するまで、全く記憶していませんでした。

 平安時代のこの頃、新羅人や唐人が九州に勝手にやってきたり、沿海州の女真国族である刀伊(とい)と呼ばれる賊が、50隻もの大軍で対馬、壱岐、肥前などの沿岸を襲ったりしていたようです。それで朝廷では九州の防備を固めようと考え、渡辺綱の曾孫でその武人的気質を受け継いだ久を、宇野御厨検校(うのみくりやけんぎょう)に任命しました。これは肥前国宇野御厨庄の国司・郡司と同等な地位で領主と呼べるものだったようです。そして朝廷は、虜囚となった安倍宗任に、この久を主君として補佐するように命じたのでありました。安倍宗任は、死罪を免れたのでその命を有難く拝命し、選りすぐりの千人の部下とともに任地に向かいました。都を通過する際、安倍から安部に性に変えたといいます(朝廷に手向かった性で都を通り過ぎることを躊躇ったのだといいます)。肥前国松浦の地に、久より先に移り住んだ安倍宗任は、そこに梶谷(かじや)城を築いて、後日、赴任してきた久を迎え入れました。この後、松浦氏がここの領主として千年にわたり行き続けていくことになります。安部譲二氏は、特に以上の話にコメントはしていませんが、この安部(安倍)宗任がおそらく先祖で、それがこの小説を書く動機ともなったのでしょう。

 この松浦氏は、時代とともにどんどん分家して、住んだ地の名をとり、波多、石志(いしし)、新久田(あらくた)、神田、佐志、大河野(おおかわの)などとなったといいます。あのNHKの大河ドラマ「北条時宗」で有名になった佐志房など佐志一族も、その有力一族の一つに過ぎません。

 作家によると、この千年の歴史を持つ松浦氏には、一族存亡の危機といわれるものが4度あったといいます。その中でも一番大きな危機が、十代披(ひらく)の時であったといいます。それは今年のNHK大河ドラマ「義経」とも関係のある文治元年の争乱です。松浦披は、平家方から味方して勝った場合の任官の約束に魅せられ、ここで平氏に味方してしまいます。披は、壇ノ浦の戦いで死なず、逃げ延びますが、敗者側だけに存亡の危機に見舞われます。しかし、その後すぐにおこる義経と頼朝の確執や、松浦氏の名があまり知られていなかったこと、鎌倉からすると松浦は日本から一番遠く離れた地にあったことなどから、特に罪も問われず、鎌倉幕府からもそのまま松浦の地の地頭として認められ、生きつづけることになります。

 2度目の危機は、文永の役(1274)と弘安の役(1281)のいわゆる元寇の際である。三度目の危機は、16世紀のキリシタンと鉄砲の伝来、そして4度目の危機は、大政奉還の際の慶応3年(1867)です。最初の危機で、身の振り方を慎重にすべきことを学んだ松浦氏は、権謀術数の限りも尽くしたが、誤らない判断のための情報入手などに力を入れ、その後は危機を全て無難に乗り切っています。その他にも、第15代定(さだむ)が、新田義貞に従って伊豆三島などで足利尊氏と戦うが、第16代勝(すぐる)は一転して尊氏に味方し、延元3年(1338)には恩賞を受けるなど、身の振り方に成功したりしています。また幸運にも恵まれたこともあったようです。

 私は、以前から『甲子夜話』という本を時々耳にし、中身の話もいくつか聞いたことがありました。将軍・大名諸家をはじめ、古今の人物についての逸話・外交・故実・学問・芸能・民族・奇習・信仰・巷間の噂・奇談などが書かれた名著といわれる本です。この作者が、文武両道と言われた松浦靜山で、松浦家第34代といいます。これだけでも私は、「えーあの甲子夜話の作家が〜」と驚いたのでありますが、この靜山は、自分の娘を公卿の中山忠能に嫁がせるが(嫁がせた当時は中山忠能は、単なる貧乏公卿でまだ尊皇攘夷を押し出してもいなかった)、この娘が生んだ娘が(つまり靜山の孫)が孝明天皇に仕え、皇子(つまり後の明治天皇)を産み奉ることになったという話です。
 
 幕末、尊皇攘夷論を説いていた中山忠能は、第37代松浦家当主・詮(あきら)に接近していったが、当初、詮は明確な思想もなく、公武合体論的なあいまいな態度であったといいます。しかし、孫が孝明天皇の子を産むにいたり、慶応3年大政奉還が行われると、詮は旗幟鮮明にし、薩長側につきます。これが幸いして、明治維新の後には平戸藩知事を務め、明治17年(1884)には伯爵になったということです。

 まあ毎度結局は、書評というより小説の内容を要約したようなものになってしまいました。とにかく実際に読んでみればさらに面白いと思います。皆様にもぜひ一読お薦めします。

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