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書評(平成17年03月10日)

『くろふね』(佐々木譲著:角川書店)

 この本の著者・佐々木譲氏の名前は以前からよく目にしていましたが、私は今回初めて彼の本を読むことになります。
 読むことになった契機(きっかけ)は、神奈川にすむ sakingno1 さんの三浦半島の歴史を紹介したホームページ(以下HPと略)です。そのHPの中でピックアップして紹介している、ペリー来航時に応接掛として交渉にあたった中村三郎助という人物に興味を持ったことでした。ペリーとの交渉に直接あたった人物としては、以前、通詞(通訳)の堀達之助を主人公とした吉村昭氏の小説「黒船」(中公文庫)を読んだことはありましたが、中島三郎助を主人公とする小説などは読んだことはありませんでした。幕末の黒船来航関係の歴史書や小説を見れば、名前は必ず出てくるので知っていましたが、それ以外にどのような事に関わった人物であるかは、何度か読んだことはあったのでしょうけれども、ほとんど覚えてせんでした。

 このsakingno1さんのHPで、中島三郎助は、浦賀奉行所に勤める与力であるだけでなく、砲術家として有名だったとか、五稜郭の戦いで戦死など色々(これ以上書くと下の方で書くことと重複するのでやめる)と歴史的事件に関わったを知り、非常に興味を持ちました。

 ところでsakingno1さんが、中島三郎助に関して推薦していた本は、実はこの本でなく『北の海鳴』(大島昌宏著・新人物往来社)でした。それでその後、本屋や図書館へ行った際は、その本がないか、注意して探してみました。しかし何せ田舎町のこと見当たりません。インターネットなどで注文するしかないのかな、と思っていました。

 中島三郎助に興味を抱いてからまだ1週間も経っていないある日、私は隣町の某所へ、とある機械の修理の仕事に出かけました(機械の修理・販売など家業としています)。順調に仕事は進み、予想よりかなり早く仕事が終わったので、その町の図書館にぶらりと入って、どんな本があるのかな、くらいの気持ちで、本棚を眺めていました。そして「くろふね」というタイトルが目に入り、幕末に興味があるので、ちょっと手にして読んでみました。偶然も偶然、その本が今回紹介する本で、中島三郎助を主人公とした小説であったのです。私はすぐ借りる手続きをして帰ってきました。

 本の書き出しは、いきなり「函館に死す」というタイトル名の章で、五稜郭の戦いの場面でした。中島三郎助は、五稜郭の出城的役割の千代ヶ岱陣屋での攻防で、彼はそこを守る指揮官として出てきます。軍艦‘開陽丸’を座礁して失った榎本武揚方は力を急激に失い、新政府軍が函館めざし攻撃を始めると次第に追い詰められてゆきました。明治2年5月16日払暁、総攻撃が行われ、中島三郎助は、息子の恒太郎(満21歳)、英次郎(満18歳)とともに、降伏することも逃亡することもなく、武士らしく陣屋で防戦し戦死します。

 2章からは時代は遡って天保8年(1837)。16歳の中島三郎助は、その頃浦賀奉行所の与力見習として勤務をはじめたばかりで、観音崎台場の守りなどをおこなっていました。そんなある日、アメリカのモリソン号がやってきます。モリソン号は、軍船でなく商船で、ここ数年来日本近海で漂流していて救助された日本人7人を送り届けるために日本に来たのでした。そして、それにより日本の開国に向けての実績を作ろうとしたのでした。

 けれども当時の日本は、鎖国を厳守し長崎以外での異国船の折衝を禁じており、よってこの時も異国船打払令に基づき、対処することになります。台場から砲撃して近寄るなと威嚇したり、中島三郎助らが小船でこの船に近づき、彼の指揮のもと砲撃したりして結局この船を追い払ってしまいます。中島自身は、日本の防衛上の観点から船に乗り、外国の船を後学のために見ておきたかったのですが、上からの命令で、船に近づいて臆せず砲撃しました。彼の勇気ある行動は、逆に大いに褒賞される結果となってしまいます。そしてまた砲術家としても名が知られるようになっていきます。

 翌年、中島は、海岸防備の目的をもって行われた江戸湾の測量に来ていた江川太郎左衛門英龍と知り合います。江川は韮山の代官で、渡辺崋山と交流が深く、政治的見識も優れ、蘭学の造詣も深い人物でした。中島は江川から、前年のモリソン号事件が欧米に大きく伝えられ、日本を開国するには民間の船ではもう無理で、砲艦による圧力以外にないという機運が欧米で起きていることなど知ります。

 また測量する江川から色々と影響を受け、知遇も得ます。また砲術家の高島秋帆の徳丸ヶ原での演習をみたり、秋帆に砲術の説明を受けたりと、砲術に関する技術知識を深めていきます。その後も、異国船が何度も来航します。中島は、海岸防備に対する考えも、丘上の台場から、海岸縁の台場、台船の上の砲、砲を積んだ軍艦の建造と、どんどん考えを深めていくことになります。

 弘化3年(1846)アメリカ海軍の東インド艦隊の司令長官ビットル准将に率いられたコロンバス号及びビンセンス号の2隻が、日本に開国を促すために来航します。しかしこの時は、それほど威嚇的でなかったので、結局開国する意思はないということで押し切り帰してしまいます。これにより一部の日本人の中には、異国など大したことはない、という風潮がおこったりもします。

 しかし嘉永6年(1853)東インド艦隊の司令長官ペリーが、サスケハナ号ほか4隻の黒船で砲窓を開けた戦闘態勢のまま来航します。応接掛の役にあった中島三郎助は、通詞の堀達之助らとともに退去をつげるため船に乗船しようと近づきますが、当地の責任ある司令官でないと乗船できないというので、副奉行と偽って名乗り乗船します。浦賀奉行の戸田氏栄が臆して前面に出ることなど嫌ったこともあり、以降中島がこの直接交渉のほとんどを担当することとなります。

 交渉は難航しますが、今回はペリーが携えてきた親書だけを受け取り、回答は、翌年再びペリーがやってきた時にすることにきまり、何とか戦争に至らず薪水や食料を与えて帰します。

 中島は、西洋式軍艦を建造し海防する必要を痛切に感じます。このペリーの初回の来航や前回のビットルの来航の時などに、異国船の構造を観察・調査したり、乗組員などに説明してもらったりします。また西洋の本などからも知識を得ます。そして幕府に進言し許可を得て、船大工に指示して日本最初の西洋式軍艦を急いで造らせにかかります。ちょうどその頃、伊豆の下田に、開国や領土・国境問題などの交渉に来ていたロシアのプチャーチンの船が大津波のために破壊される事件がありました。それで気の毒に思った幕府は、西伊豆の辺田に日本の船大工を集め、ロシア人が帰るための船(勿論西洋式帆船)をロシア人の指導のもと造らせていました。中島は、その造船の実地検分をし、図面をおこしてそれを参考にしながら、自分が作っている船を今度ペリーが来るまでになんとか仕上げようと急がせます。

 しかし、前年ペリーは来春再来航と告げて去りましたが、年が明けて間もなく、予定より早く来航します(嘉永7年1月14日(西暦1854年2月11日))。この2度目のペリー来航の際も、来た当初の応接掛は中島が担当しました。黒船の上で今後の段取りの交渉をし、上陸する兵員の数を30人前後と約束して帰りますが、実際は折衝がはじまる日に、30艘ほどの船に乗員した大人数の兵が上陸してしまいます。つまりアメリカに騙された訳です。それを契機に中島はその後からの交渉からは外されることになります。

 日本で最初の西洋式軍艦を建造した中島は、それでも今度は砲術家としてでなく、造船家として名が知られるようになり、吉田松陰が造船の教えを乞いに来たり、桂小五郎が長期間中島宅に滞在して同様に造船の教えを受けるようになります。また安政2年10月からは、長崎海軍伝習所へ派遣され、2期約3年、オランダ人から船にかかわる色々なことを教わることになります。そこから戻ってくると、こんどは築地の軍艦操練所の教官となります。その後、一度は引退しますが、榎本武揚がオランダからの留学を終え、自分らが彼の地で造った‘開陽丸’で帰ってくると、また軍艦所に引っ張り出され、その開陽丸の機関長となります。

 小説の中に出てくる彼の経歴を一々書いていると長くなるので後ははしょりますが、徳川慶喜上洛後、薩長との緊迫が高まり、慶喜から‘討薩の表’が出ると、大坂湾で薩摩海軍と交戦したりもします。また鳥羽伏見の敗戦後、大坂城で徳川方が対応を協議している最中、慶喜が逃げ出して江戸へ船で帰るといった際も、中島は海軍主力艦‘開陽’の臨時の副艦長となっており、慶喜を江戸へ護送するといった風にかかわります。そして榎本武揚が、旧幕府軍の軍艦で蝦夷に新天地を求めて脱走するのにも軍艦‘開陽’の機関長として参加、最終的には函館の千代ヶ岱陣屋で戦死します。

 ペリー来航時に中島同様、通詞として直接交渉にあたった掘達乃助は、オランダ語でなく英語が主流ということを知り、その後地道に努力し「英和対訳袖珍辞書」を作ることになりますが、それに比べ中島三郎助の人生は、幕臣として日本人として幕末の動乱期に真面目にまっしぐらに突き進んだために歴史の檜舞台に関わり続け波乱万丈の生涯を送ることになったのは、何か対照的で、同じ事件を人生のターニングポイントとしながらも、人それぞれ多様な生き方があるものだと感じさせられました。人間は、やはり自分に向いたやり方で一生懸命に生きて社会に貢献するしかないのだと思います。

  また小説の後半から、長崎海軍伝習所で同じく学ぶ勝海舟とのかかわりが出てきますが、得意の蘭学以外あまり勉強しようとせず、持ち前の話術だけで、のし上っていく勝とそりあいが上手くいかない話が出てきて、(実際の性格は知りませんが)中島の性格をうまく描いていたと思います。私も、色んな本を読めば読むほど勝海舟という人物が嫌いになるので、中島と性格が似ているかもしれないな、などとも思ったりもしました。(ちょっとおこがましいかな?)。

 とにかく想像以上に波乱万丈の人生で、映画やドラマなどにしても充分に楽しめるなあと思える面白い作品でした。今後も機会があれば他の本で、彼のことを調べてみたく思っています。皆さんも、ぜひ一読お薦めします。
角川書店 平成15年9月25日初版発行 ¥1800- 見開きB5版サイズ

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