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書評(平成17年06月24日)

橋の上の霜』(平岩弓枝著:新潮文庫)

 主人公は、大田直次郎、普通は大田蜀山人という号で知られた狂歌や戯作・随筆・書などで知られた江戸時代後期の幕府御家人出身の文人です。ただしこの蜀山人(しょくさんじん)という号は、晩年に用いたものなので、この小説では一切出てきません。50代になるまでに狂歌師として使った号、四方赤良(よものあから)と四方山人(よものあかひと)だけ出てきます。他にも彼は南畝(なんぽ)とも号したりしてうたようですが、それも晩年のことのようです。

 私は、大田蜀山人の名前はかなり前から聞いたことがありました。確か私が通っていた大学と予備校があった駿河台に確か屋敷か何かの案内板が立っていた記憶があります。でも、どういう人だったか知ったのはこの小説が初めてです。ただし平岩さんのあとがきや、巻末の解説によると、この作品はあくまで小説として書いたため、必ずしも史実でないことが書かれているようです。だから歴史小説や伝記として読むと、彼の人生を誤解することになるのかもしれません。

 平岩さんが大田蜀山人について書くのはこれが2度目だとかで、一度目は20代なかばに「狂歌師」というタイトルで、大田直次郎と彼の友人・狂歌師の唐衣橘洲との間の確執を描いた短編があるそうです。私は彼女のファンですが、まだそちらは読んだことがありません。

 彼女の師である長谷川伸は、彼女が短編「狂歌師」を書いた際、「君は蜀山人に唾をつけたのだから、いつか長いものをお書き。そうだな五十を過ぎたら、きっと、又、書きたくなるに違いないから、その時はいい仕事にするんだね」と言ったとのこと。それがどうやら彼女がこの作品を書く大きな動機にあったようです。

 大田直次郎は幕府御家人の小役人で、子供の頃、有名な漢学者などにならい、役人としては学者肌の謹厳実直な性格であったようですが、この小説ではかなり艶福家、つまりモテモテ男として描かれています。あまり女性にモテたことのない私としては、羨ましいやら何か参考に出来ぬかと考えてしまうやら、あまりいい読み方ができないほどでした(笑)。

 主人公の直次郎は、本妻のほか、吉原の女おしずを落籍して妾にしたり、そのおしずをめぐって争った旗本高木市太郎の妹・七江とも深い仲となったり、はたまた直次郎自身は気付かぬが、教え子で親子ほども歳の差がある島田みやから思慕されたりします。また小説では、尼となり京へ去る七江を見送るところで終わっているのですが、平岩さんのあとがきによると、このあとどうやら後妻を迎え、さらには島田みやの姉にあたる島田香ともねんごろになったといいます。ほんとモテモテの人生であったようです(その上、どうもそれらの女性は皆、かなりの美人だったとか・・・・ウラヤマシイ!!)

 この小説は、主人公・大田直次郎が謹厳実直な性格でありながら、そんな艶福なため、女性との関係から生じる様々な問題や、息子など家族内の問題、彼を狂歌の師と仰ぎ慕う仲間らとの友情やその死などを通して、悲喜こもごもの人生を描き出しており、かなりドラマを意識した作品と言えるかもしれません。私は知りませんが、昭和61年秋に実際NHKで一度ドラマ化されたようです。

 タイトルの「橋の上の霜」は彼の狂歌の中に出てくる言葉で、小説の一番最後の場面で出てきます。主人公は、七江が師走に京へ旅立つのを早朝(暁闇の頃)見送り、その後、近くの駕籠屋があるところまで歩く途中、一面の霜に覆われた橋の上に出ます。あとは小説の中の文章をそのまま引用しておきましょう。

「橋の上は一面の霜であった。
ふと、直次郎はその橋の上に人の通った足あとをみつけた。
七江ではなかった。
上野とは方向が違う。
夜半から明けがたにかけて下りた霜の上を踏んで行った足あとの主は、こんな早暁に、何の用事で、どこへ向かったものであろうか。
直次郎の心が透明になった。

 世の中は われより先に用のある 人のあしあと橋の上の霜

人の世の苦痛も、ほろ苦さも、俺一人ではなかったと思った。
誰も彼も、それなりに霜を踏んで我が道を歩いて行く。
そう思うことで空しさが消えた訳ではなかった。
しかし歩かねばならなかった。
誰か知らない人の足あとの上を踏んで、直次郎は橋を渡って行った。
風が、僅かに夜明けを感じさせている。
まだ暗い中で、雀の声が聞こえていた。」

 上に引用した小説の最後のくだりは(巻末の解説者も取り上げているが)、それぞれの人生で味わう苦しみをじっと耐え忍んで生きていくしかない事を肌身で感じている主人公の生き様、ひいては人間の生き様をぎゅっと凝縮しており、主題と言えましょう。ドラマ作家としても大活躍の平岩さんらしい、深い味わいの作品であります。

 
新潮文庫 平成13年6月20日初版発行 ¥667-(税別) 

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