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書評(平成17年07月15日)

『彦九郎山河
(吉村昭著:文春文庫)

  この本は、前に一度途中で挫折したことがある。私の好きな作家の一人である吉村昭氏の作品なのだが、日記を多く活用したからだろうか、吉村氏の他の作品と比べると、なぜか読みにくく感じて、読了するのに苦労した。

 高山彦九郎については、個人的に思い出がある。昔、この人の生家の横を毎日のように通って通勤していたことがあるのだ。今から20年ほど前、大学卒業後某メーカーに入社し、初任地が群馬県太田市の工場であった。太田市新井町にあった会社の寮から、毎日、市の南西の工場のある工業団地まで通勤するのだが、途中、細谷というところに高山彦九郎の生家があった。

 ただしその頃は、私は日本史は全然詳しくなく(そもそも高校時代日本史は選択しなかった)、高山彦九郎といっても、誰だろうという程度で全然関心はわかなかった。それどころか、その太田市や隣町新田町の英雄・新田義貞についても全く知らなかった。
 その後、日本の歴史小説が好きになり、日本史にどっぷりつかるようになり、今ではあの頃、もっと太田市近辺の史跡を見ておけばよかったなー、と後悔している。

 彦九郎の先祖・高山遠江守は、南北朝時代の南朝方の大将・新田義貞に一族郎党を率いて仕えていた有力な武将で、高山家は戦国時代まで家格の高い武家であったが、その後帰農して郷士となった家であった。そのため、代々朝廷を尊崇する気持ちを受け継ぎ、江戸時代に入っても変わらず、そのため徳川幕府から反幕府的とみなされ、彦九郎の故郷(新田郷細谷)を知行する旗本筒井家によって、危険な一族として監視されていたのであった。

 ちなみに徳川家康の先祖世良田徳阿弥親氏の出身地といわれる場所も、確かこの彦九郎の生家から南西に数キロ行ったところ(現在の群馬県尾島町)にある。そしてこの徳阿弥も、新田庶流の世良田氏の系統にあるということから、徳川氏は新田氏ゆかりの源氏だと名乗っている。しかしそれらの事が書かれた「尊卑分脈」自体、かなり作為的に偽造された箇所が多いので、現在ではそれをそのまま信じる人はほとんどいない。

 彦九郎は、江戸に出て細井平洲のもとで儒学を学びにでるが、そんな遊学中彦九郎が23歳の時、父が何者かに惨殺された。どうやら筒井家のものの仕業らしことがわかり、彦九郎はあだ討ちしようと覚悟するが、師の平洲にあだ討ちしてその後自分も死なねばならぬことは、親不孝にあたると諌める。

 (これまた余談だがこの細井平洲はあの米沢藩の上杉治憲(鷹山)が、師として仰ぎ自藩に招聘し、藩政改革を行ったことは有名である。実は私も、細井平洲についてはかなり凝っている。上杉鷹山関係の小説、藤沢周平・童門冬ニ・他PHPの本などや彼自身について書かれた本を数種類読むなどしている。)

 家を継いだ彦九郎の兄専修蔵は、筒井家に敵意をいだくどころか、今までの高山家の態度を改め、筒井家に接近し、忠誠を誓う。そして考え方を変えぬ弟の彦九郎の家族に数々の暴虐な仕打ち行う。彦九郎自身も、兄の讒訴の罠にかかり江戸で一時期、入牢の憂目にあう。釈放後江戸から色々手をうち、叔父の長蔵のもとに妻子を預けたりして、何とか専蔵のひどい仕打ちから家族を逃れさすことができるようになった。

 そんな江戸で彼の友人として色々動いてくれたのが、あの「解体新書」を翻訳したことで有名な前野良沢の子・達であった。そしてその父・前野良沢とも面識を得る。そしてその良沢から、彦九郎は蝦夷地やカムチャッカがロシアの脅威にさらされている事を聞き、自分の目で確かめたくなり、彼は後顧をなくすため妻子を離縁して実家に帰す手紙を書き(これで兄専蔵の仕打ちもなくなると考え)、蝦夷地に向けて旅立った。

 途中、水戸で立原翠軒や藤田幽谷(藤田東湖の父)に会ったり、師の細井平洲が招聘されて一年間講義したことのある米沢へ行って藩政改革の実情を聞いたりする。そして佐竹氏の秋田藩(久保田藩)や津軽藩などでは天明の大飢饉の際の惨状を住民などから聞く。津軽藩では住民の1/3以上が死んだなどと悲惨な状況に陥り、彦九郎はその廃墟となった無残な村などを見たりもする。

 津軽の先端まで来て、三厩で舟で蝦夷へ渡ろうとする。しかし、蝦夷では今でも飢饉が続いていることや、先年の奥蝦夷や千島などで大規模なアイヌの叛乱があって、松前藩が幕府の処分を受けて以来、外部の者が蝦夷に入ることを厳しく制限していると聞き、彦九郎は蝦夷へ渡ることを諦める。

 そして南下するため津軽から南部藩領に入る。そして天明の飢饉で南部藩が津軽以上に、1/3から1/2くらいの者がなくなり、人肉まで食ってしのいだというなどという話を聞き、詳しく当時の状況を知ろうと思い立ち、南部藩のあちこちの山間地の村々を調べ歩いたりする。彦九郎は、藩の無策な、重税や御用金の取立てが天災以上に、災害を大きくしたことを知り、これは為政者による人災だと憤る。大藩の仙台藩に入っても、被害は南部藩ほどではないにしろ、同様な様を見る。そして庶民のこのような悲惨さを傍観するのは武家政権だからと考え、彦九郎の持論である幕府による政治を、朝廷による文治政治に戻すべきであるという考えに確信を抱くにいたる。

 奥州を見て周った彦九郎は江戸へは戻らず、中仙道を通って京都に向かった。上京すると、先年の大火で焼失してしまい建て直された御所などを見て廻り、古くからの知人とも交わった。新御所などが公家の要請で昔以上の規模で建て直されたことを知り、これは幕府が譲歩したためで朝廷側の権威が増したことだと考えた。折から、光格天皇の実父の閑院宮典仁親王に上皇の位を贈ろうという動きがあることを知り、彦九郎はこれを成功させればさらに朝廷の力を大きく出来、されには文治政策の足がかりになると考え、公卿の間を説いてまわる。

 そして尊号問題に関して、西国の雄藩・薩摩藩の助力を得ようと画策し、薩摩藩ぬ向けて旅立つのであった。旅の途中、幕府の密偵らしき者に尾行されるが、長崎遊覧などに見せかけ、なんとか尾行をまいて、薩摩に入る。薩摩入部当初は、歓迎されたが、彦九郎の入部の目的が知れると(藩主斉宣の一派は歓迎したが)、藩の実権を握る前藩主・重豪一派から反発を受け、薩摩を味方に引き入れる工作は失敗に終わる。

 薩摩での彦九郎の行動は騒ぎが大きくなったこともあり、幕府の密偵に全て知られていたらしく、薩摩退去後、幕府の密偵に尾行される。京へ帰れば捕えられ処刑されることは目に見えているので、追手を逃れて九州各地を廻り歩く。臼杵では旅籠に踏み込まれ退去を命じられ、日田では泊まった家から役所に連れて行かれ、同様に退去を命じられている。小倉まで行き、九州を出ようとするが、関所の調べが厳しいことを知り、九州を出ることを諦める。そして、西へ向かい、久留米で精神に異常をきたし、自刃してしまう。

 まあ書評と言いつつ、いつものようにざっと粗筋を書いてしまった。私は実のところ、この彦九郎はそれほど好きにはなれなかった。誠実で飾らぬ性格であるらしいが、どうも奇人にありがちな自分本位なものの考え方をする人物に思えたからだ。奇矯な行動が多いこと(で)は有名だったらしく、そんな彼を吉村昭氏は、この小説で違う面もあったことを見せようとして書いたらしいが、やはり所々でその性格が見え隠れしているような気がした。

 特に薩摩入部の際、関所で長く足止めされた時、発した言動や、薩摩で騒動を起こした際、自分は薩摩の賓客であると言って示した態度など読むと、思い込みから自己肥大し尊大になるタイプ、世の中の悪い事(または自分の思い通りにならない事)は、全て自分が嫌うもののせいにしてしまうタイプではなかろうかと思った。であるからこのような自己破滅的終焉を迎えざるをえないのだろう。

 ただやはり優れていた人物であったことは確かなのだろう。とにかく彼が交わった人々は、細井平洲、前野良沢、立原翠軒、藤田幽谷だけでなく、頼春水(山陽の父)、広瀬淡窓など実に多くの著名人が出てくる。当時儒者関係の間などでは彼の名前はかなり全国的に知られていたらしく、旅先でそれらの人に歓迎される場面も数多く出てくる。

 また彼の思想が、水戸派の思想とともに、尊皇攘夷の源流となり、70余年後の明治維新の底流となったのであろうことは、疑いもないとこの小説を読んで思った次第である。学者肌だけに、純粋に思想の力というものを信じ、時勢を見誤った人物の孤独で哀しい人生の顛末を描いた秀品である。

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