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『夢の道〜関門海底国道トンネル〜』 (古川薫著:文藝春秋) |
この本は図書館でみつけた。古川薫氏の本としては久しぶりに読んだ。以前「天辺の椅子」、「わが風雲の詩」などを読んだことがあるがが、この作品は比較的現代に近い出来事を取り上げた小説らしいので、氏の作品にしてはめずらしい気がして興味が湧き、手にしたのであった。でも考えてみれば古川氏は山口県下関市出身で、元山口新聞の記者である。そして地元関連の作品が多い作者でもあった。しかしまあそういうことは、どうでも良いことである。ドキュメンタリー的な作品が好きな読者には、十分満足を充たしてくれる作品ではなかろうか。 この本は勿論関門国道トンネル建設の苦労話を小説にしたものである。この本の終わりの方に、工事内容を要約したような「関門隧道建設の碑」の碑文が紹介されていた。どういう工事であったか、知るにはこの文章を、読めばある程度わかると思うので、まずここでその碑文を転載しておく。 「関門海峡早鞆の瀬戸はその幅わずか700メートルに過ぎないが、瀬戸内海の咽喉部に位置するため潮の流れが速く本州と九州の隔たりを一層遠いものにしていた。 これを海底隧道によって直接結ぶことは国民の久しく念願していたところであって、自動車交通の発達に伴い道路隧道の速やかなる開通が望まれること切なるものがあった。 昭和の初年国道をもってこれを結ぶことが企画され、昭和十四年先ず試掘隧道を完成し引き続いて同年から十箇年継続事業として本隧道に着工した。 たまたま第二次世界大戦に際会し、工事は困難を極めたが、昭和十九年十二月全線の導坑を貫通した。しかるに同二十年六七月相つぐ戦災を蒙り工事は一時休止するのやむなきに至り、工事再開の目途の立たないまま六年間の維持工事を行うに止まった。昭和二十七年に至って道路整備特別措置法による有料道路として工事を再開し、同三十三年三月九日開通の運びとなったものである。 着工以来実に二十有一年、我が国土木技術の粋と人の和によって築かれた画期的大事業であって、その間建設に従事した者四百五十万人、職に殉じた者五十三人、総工費五十七億円の多きに達している。 かくてここに国民の久しい間の夢が実現したのであるが、この隧道の貫通によりさきに完成した鉄道隧道と相まって本州と九州の結びつきが一層緊密となり、日本民族の繁栄に寄与するところ極めて大なるものがあると信ずる。 ここに関門隧道の竣工にあたり建設の碑を建てる。 昭和三十三年三月 」 小説の中では、工事の中心となって指揮した中尾光信氏、住友彰氏、伊吹山四郎氏、加藤伴平氏など多数の人物が登場し、また工事を取材する元毎朝新聞社の磯村通夫氏の眼を通しても描かれたりしている。 建設予定地の早鞆の海底には、断層破砕帯が密集していることから、技術者から、トンネルを掘るのは無理といわれつつも、(掘りやすい場所を選び着工した)関門鉄道トンネルと同じ頃着手することになる。しかし、鉄道トンネルと違い、重要視されず、そのため予算が十分につかず、究極の「貧乏工事」であった。それでも創意工夫して、戦前に試掘隧道(豆トンネル)を完成させ、戦時中には導坑も全線開通させる。その後戦局悪化の影響を受け、終戦間際には空爆を受けたりもする。戦後はGHQの統制を受け、維持管理をするのがやっとの状態。人々は、GHQに睨まれながらも、建設中止反対運動を展開するなど奮闘し、サンフランシスコ条約の後、工事を再開する。断層破砕帯や立杭工事などで多くの殉死者などを出しながらも、世界最初の海底道路トンネルを完成させる、という話である。 著者の古川氏は、1991年春、日本道路公団下関管理事務所の副所長・村上英明氏から、トンネル断面図の青写真、地図類、工事史など膨大な資料を提供された上で、多くの関係者などからも説明なども受け、さらに資料を調べ、この小説を書いたらしい。それだけに真実に迫り、国家的ビッグプロジェクトといわれる工事完工の難しさをうまく叙述した好品となっています。ぜひ皆様にお薦めしたい作品であります。 最後に、これは余談だが、この作品と同様トンネル工事を扱った作品で、他にも私のお薦めしたい本が三冊あります。あの石坂裕次郎が主演して有名になった木本正次氏著の「黒部の太陽」(信濃毎日新聞社)、それに吉村昭氏の「高熱隧道」(黒部第三発電所の建設に付随したトンネルの難工事を描く)、「闇を裂く道」(丹名トンネルの工事を描く)です。三作とも、非常に困難なトンネル工事の壮絶な土や水との格闘を描いた名作です。よかったらこちらも、一度読んでみることをお薦めします。 |
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