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書評(平成17年10月13日)

医者と侍』(二宮陸雄著:講談社)

  この作家の本は今回初めて読んだが、作者は東大医学部出身で広島の呉市で内科を営む医者らしい。他にも医学関係の小説を何冊か著しているようだ。

 この本は津軽藩の医師・村井慎之介という医師を主人公とする小説だ。慎之介は実は農民の子として生まれたが、慎之介が幼い頃、津軽をはじめとした東北は歴史に名高いあの天明の大飢饉に見舞われた。藩の無策に憤った慎之介の父親は一揆を指導して亡くなるが、その後、一揆に同情的であった津軽藩郡奉行下役の村井平左衛門が、彼を引き取って養子として育てたのであった。

 成長してから慎之介は自分の生い立ちを知るが、平左衛門はその後も変わりなく実子の如く育てた。そして享和元年(1801)、学業優秀の慎之介は、藩の命令で将来の藩医となるために江戸の医学館に修学に出ることになる。医学館は幕府主宰の和漢の医学勉強の学校であり、蘭学は禁じていた。

 しかし目を瞠るような最新の医療の話を友人などから聞かされた慎之介は、蘭学に興味を持った慎之介は、文化3年(1806)から、芝蘭堂へ通い稲村三伯より蘭学を学びだす。三伯から慎之介は、オランダ語で書かれたヘイステルの医学書をハルマの小型辞書を利用して訳しながら学ぶよう言われる。

 そんなオランダ語を学びはじめてまもない頃、文化4年3月、慎之介は、蝦夷地へ警衛のため守備につく津軽藩兵に付き添う医者として任命されたことを告げられ、帰国することになる。江戸では渋江麻沙という想い人も出来ていた慎之介は、理不尽な藩の命令に自分の心を抑えかねつつ帰国の旅を続けた。

 江戸中期頃から、時より異国船が日本周辺に現れるようになったが、この頃には、たびたび蝦夷地などに現れ、時には襲撃を加えたり住民を拉致したりすることもあって、幕府としては国境警備の充実が急がれていたのであった。それで東北諸藩に命じて蝦夷地やクナシリ、カラフトなどの海岸警衛に当たらせたのであった。

 東蝦夷地のシャリについた慎之介は、100人の津軽藩兵などとともに、そこで越冬することになる。冬が深まるにつれ仲間が次々と、血を皮膚から噴出すなどの症状を呈し、バタバタと亡くなっていく。慎之介は、自分自身も、皮膚の下に血の斑点などの症状を呈しだし、死を意識する。また医者としての任務をこなしながらも、江戸から携えてきたヘイステルの医学書を必死に訳し、対処法を何とか見出そうと努力する。しかし・・・・・。

 この病は、現代では壊血病といわれ、新鮮な野菜など摂取できない時に、ビタミンC不足から起こることがわかっている。当時はヨーロッパでは既に原因も対処法も知られていたが、蘭学である程度西洋医学が伝わっていたとはいえ、この病はまだ日本では知られていなかったのだ。壊血病のため蝦夷で同様にこの病を被った話は確か吉村昭氏の本の中にもあった記憶がある。医学史的見地から読んでも面白い本であります。

 またこの小説の舞台シャリの宿営地には、有名な最上徳内や鈴木甚内なども幕府の役人として出てきて、興味深く読むことが出来ました。

 蝦夷地警衛の報奨としての幕府からの加増や、藩の体面ばかり重んじる、藩の有力者などの非情さに、読んでいて深い憤りを感じてしまいました。特にシャリでの犠牲者の親族の者達が、藩の(シャリで起きた事態を隠すための)秘密保持の謹慎命令に、葬儀を行ったなどとして違反し、切腹させられるのは今では考えられない道理、不合理さを感じました。

 また自分の出世を、100人近く警衛についた藩士などの命以上に大事と考え、自分のライバル他を犠牲とする謀をした大目付・馬場種次郎には、私も読んでいて、“こんな卑怯な奴、天誅を加えてやれ”と心の中で叫びました。それだけに慎之介らが何とか帰国でき、慎之介とともに彼の付き人として蝦夷地まで同行した茂兵衛が採った馬場種次郎暗殺という行動には思わず喝采してしまった私です。

 結末は、藩士が藩を相手の反抗を行うというものだけに、反抗にも限界があり、勧善懲悪のようなスカーッとする爽快な終わり方という訳にはいきませんでしたが、案外世の中というものは、こういうようなものかな、とも考えさせられた作品でした。

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