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『日本鉄道物語』(橋本克彦著:講談社文庫) |
この本は、鉄道ファンならまず必ずといっていいほど知っている島安二郎・島秀雄父子のことを書いた作品です。日本鉄道界にとって欠かすことの出来ない二人の技術者を主人公とし、フィクションを交えず、伝記、ノンフィクションといった感じの本です。 では、書評というかいつものように粗筋をまず・・・・ 島安二郎氏(以下全ての登場人物名の敬称省略)は、日本の鉄道事業の草創期の技術者で、“車両の神様”と呼ばれた人物である。明治3年、和歌山市の薬種問屋の(4人兄弟の)次男坊として生まれた。学業優秀であったので、親の意向で医学の道を目指すことになり進学するが、志望を途中で変更帝國大學工科大学機械工学科へ進む。卒業後、最初は関西鉄道に入社し、ピンチ式ガス燈の導入や機関車の改良などで活躍、後、逓信省に移る。ドイツへの2度の留学(うち最初の方は自費での留学)で最新の鉄道事業を見聞調査し、鉄道の国有化、規格の統一、機関車の改良・国産化、自動連結器の導入、空気ブレーキの導入、「あじあ号」の設計などで活躍する。悲願の広軌化については、田健治郎、後藤新平などの広軌化派の理解を得たりして奮闘努力するが、狭軌派の政友会の原敬などの反対などにあい、最後まで政治に翻弄され、実現一歩手前で空しく敗れてしまう。 大正中期、中国情勢などから広軌改築が困難となっていた中、広軌派が鉄道院から一掃されると、大正8年6月、島は鉄道院技監を退職する。その後汽車製造会社社長となる。しかし昭和12年、中島知久平(中島飛行機社長)が鉄道大臣になると、「大陸との連結運輸」が叫ばれ、「幹線構想」が動き出す。昭和14年には鉄道省直轄の「幹線調査会」が設置され、島安次郎が委員長となる。この委員会で「弾丸列車」の俗称で有名になる新幹線構想が発表される。内容を見ると、増設路線は、複線電化、長距離高速度列車の集中運転(貨車列車など走らせない)、広軌(1435mm)などなど、現在の新幹線構想ほぼそのままの構想であった。しかしこの計画も実施に移されるが、着工してまもなく昭和16年12月8日、日本は真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入。計画は中止となる。 その子・秀雄氏は、大正4(1925)、東京帝国大学工学部機械工学科を主席で卒業、鉄道省に入省する。その後C53以降に設計された全ての機関車の設計に関与する。C53の他、D51の名機などを設計する。昭和24年日本国有鉄道が発足するが、2年後の昭和26年6月京浜東北線桜木町駅で電車炎上し、多数の死傷者を出す事故が起き、当時工作局長だった島はその責任をとって辞職する。数年住友金属工業の顧問など勤める。その後も、青函連絡船洞爺丸沈没事故、宇高連絡線紫雲丸の事故などで混乱する国鉄であったが、新たに国鉄総裁に就任した十河信二に度々請われ、技師長として国鉄に復帰することになる。 昭和31年5月に国鉄本社内に「東海道線増強調査会」が設置されると、過去何度も繰り返されてきた広軌狭軌の増設・別線案議論がおきた。この調査会は翌年打ち切られたが、今回はこれが契機となり、その後まもなく「日本国有鉄道幹線調査会」が設置され、新幹線構想に向かって大きく前進することになる。昭和39年に東京オリンピックが開かれることも背景にあったが、もはや鉄道輸送は逼迫しており、可能な限り早く新幹線を完成させることが求められていたのだ。 新幹線のプロジェクトは、は、その後旧陸海軍の多くの技術者を受け入れた。例えば零戦を設計した松平精などが尽力し、航空技術で研究されていた振動理論を応用したりして設計された。その他システム工学的手法を用い多方面の数多くの技術が新幹線に注ぎ込まれ結実することになる。秀雄は、また今までの失敗に鑑み世界銀行から8000万ドル借款したりして、計画の変更や後戻りができないように手を打つ。そして昭和39年10月1日、オリンピック開催の9日前に開業する。 島秀雄は、国鉄退社後には宇宙開発事業団の理事長になり、今度は日本の宇宙開発に携わることになる。また年は前後するが、昭和5年には、「国産標準自動車」の官民一体のプロジェクトに鉄道省の技術陣も島秀雄が中心になって参加し、国産のトラックとバスが設計されたりもした。このトラックが日本車の標準形式となったりもした。この時、父親の島安次郎も並々ならぬ関心を示し、息子からその内容を聞いたという。親子ともども、鉄道だけでなく、交通輸送手段の技術に飽くことのない探究心をもっていたようである。 とにかくこの2人、島安次郎・秀雄は、なんとも凄い親子なのでした。(蛇足ですが現在確か島秀雄氏のお孫さんが、アーチストとして有名になっていたはずです。) ここまで書くと、この2人は、親子鷹の典型で、二人三脚でガッチリと国鉄の技術を継承発展させてきたかのように思えるが、父親の島安次郎は、子の秀雄に特に鉄道の方へ進むよう言ったことはなかったそうである。特に二人で相談して仕事に当たったということも無いそうです。また島安次郎が国鉄を退社して汽車製造会社社長となり、息子の秀雄が国鉄の技師長になって、いわば発注側と請負側の立場になっても、特に安次郎の方から内容に注文をつけることもなかったそうである。秀雄は父親の安次郎宅をよく訪ねて、自分がどんな仕事をしているかよく親子の会話の中で伝えたらしいが、秀雄をそれに対して特に何もいう事は無かったそうである。 ただ印象深い話は、横川-軽井沢間の碓井峠の日本一の急勾配の坂を歯車を使ったアプト式機関車を、蒸気機関車から電気機関車に変更した際、島安次郎は、子の秀雄をその式典に同行させます。この区間を走る電車を初めて見た秀雄はさぞや感動したことであろう。でもこの頃のアプト式電車は歯車が合わずしょっちゅう故障が発生し、安次郎達技術陣を悩ませていたそうです。しかし秀雄は後に、この坂を歯車を使わず急勾配を昇り降りする高性能機を開発し、その問題を解決したりもしています。 秀雄が鉄道省に入省した年も、大正4年の父親の安次郎が音頭をとった“自動連結器への一斉交換の年”というのも、何か運命的なものを感じさせる話でもありました。 お互い協同して仕事をすることがなかったにしても、読んでいても、本当によく似た二人だと思った。そして二人とも、本当にすばらしい技術者、いや科学者だと感じました。技術関係の人には是非一度読んでもらいたい一冊です。ただし、ここでは島秀雄のことも半分近く書きましたが、実際この本の中では、父の安次郎の話が、8割くらい占めていて、秀雄の話は2割程度です。 最後に、実は私が、最初にこの親子のことを知ったのは、内橋克人の『匠の時代 第3巻』で副題が『国鉄技術陣「0」標識からの長い旅』という本でである。この本の第1章の「新幹線前夜」で二人の話が触れられていて、大変興味を持ったのを覚えています(余談だが、ちなみに私はこの『匠の時代』シリーズの影響で大学卒業後、メーカーへ進もうと決心、実際某大手電機メーカーに10年ほど勤めることになる)。 その後、『新幹線をつくった男 島秀雄物語』(高橋団吉著・小学館)も読みました。これはそのタイトルの通り、島秀雄を中心とした本である。 3冊とも非常に面白い本である。読む順序としては、最初に『匠の時代』、次に島安二郎が中心のこの『日本鉄道物語』、そしてその後『新幹線をつくった男 島秀雄』を読むのがいいかもしれません。 |
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