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書評(平成18年05月18日)

『シナン』(夢枕獏著・中央公論新社)

  昨夜(2006年5月17日〜18日)は眠られなかったので、この『シナン』(夢枕獏著・中央公論新社)を、上下巻とも、一気に読んだ。
 私の事を、速読家だなあと思う人もいるかもしれないが、この夢枕獏氏の作品は、どれも会話の部分が多く、それも一行一単語に近い会話などを多用し、誰でもかなり速く読むことが出来るのだ。一行に何十文字も書いてあるような本と比べると、本の厚さが同じ位でも、1/2か1/3くらいの時間で十分読める。
 それでも、(彼の)本を読んだ人には‘一冊読んだぞ'という征服感を与え、‘俺はこの人の作品が向いているのかな'と思わせるから(私もそう思ったりしたから)、読ませる側としては、非常に上手い方法(文体・作風)かもしれない。

 さて本の内容の説明に入っていこう。
 シナンとは、16世紀オスマントルコ帝国の宮廷建築家の名前である。トルコのエディルネに、セリミエ・ジャーミー(セリミエ・モスク)という世界最大のモスクを建てた男だ。ジャーミーとは、モスクの事でトルコ語らしい。
 1488年トルコのカッパドキア地方のアウルナスというキリスト教の町に生まれ、24歳の時にデヴルシメという少年徴収制度によって徴用され、イェニチェリと呼ばれる兵士団に入団、イスラム教に改宗させられ、スレイマン大帝のもと、工兵から宮廷建築家へと登りつめた。

 そして、何と80歳になってから、それまで1千年以上もの間、世界最大のモスクであった聖(あや)ソフィア寺院の聖堂よりも大きなモスクを造りはじめ、7年という短い年月で完成させ、100歳で亡くなった。オスマン帝国の各地に、80ものモスク(ジャーミー)他、沢山の建築物を造り、生涯に477の建築作品を造った前人未到の建築家であった。それも才能を魅せ始めるのは、40代に入ってからであり、正式な首席宮廷建築家となり建築の指揮を執るようになったのは、50歳になってからであった。

 小説の中では、シナンは、イスタンブールに見習いのイェニチェリとして出てきた頃に、まだ皇帝となっていなかったスレイマンおよび、後の大宰相イブラヒムと出会う。スレイマンが皇帝となった年、シナンと同じ時に徴用され友人となったハサンという男と町を歩いていて、偶然暗殺者から追われていたイブラヒムを助ける。そういう事などから、次第にシナンとハサンは、オスマントルコの内部の勢力争いなどとも関わり、また遠征の際に、優れた工兵の才も発揮したりして、二人とも次第に昇進していく。シナンは、ヴェネツイアへ行く機会なども与えられ、ミケランジェロなどとも知り合い、多くの知識を得る。

 しかしスレイマンの愛妾ロクセラーヌは、陰謀、というかスレイマンを自分に溺愛させる事によって彼を傀儡化し、大宰相イブラヒムの暗殺、友人ハサンの暗殺、スレイマンの息子ムスタファの(スレイマンによる)殺害など行う。それを潜り抜けてきたシナンは、首席宮廷建築家となってから、次々に建築家として仕事をしていき、ついにはセリミエ・ジャーミーを造る、という筋立てになっている。首席宮廷家になってからの話は、実は全体のゴクわずかで、小説としては宮廷建築家になるまでの話を(おそらく記録が少ないだけに、事実に拘束されることもなく、逆に自由に書きやすいのだろう)中心に、冒険譚のように描いている。

 他のレビューなど読むと、‘歴史小説としては、内容が貧弱で深みがない'などという批評もあるようですが、この『シナン』は歴史的人物を登場させてはいても、小説(ノンフィクション)として楽しむべき作品であろう。そういう批評はこの作品には、無意味だ。シナンが建築家として記録が残る時代は、逆に避けてほとんど描かず、どう生きたか不明な時代を、空想で小説化した訳であるから。

 この作品を読んでいて辻邦夫の『フーシェ革命暦』と『背教者ユリアヌス』を、つい思い浮かべてしまった。故・辻邦夫氏と、夢枕獏氏とは全く作風が違うが、なぜ彼を思い浮かべたかと言うと、一つは先ほど言った事である。『フーシェ革命暦』も、フランス革命時の無名時代(つまり有名な政治家となる前)のフーシェにスポットを当て、新しいフーシェ像を自由に作っている所が似ていると思ったのだ。

 もうひとつは、私がイスタンブールに非常に興味を持ち始めたのが、『背教者ユリアヌス』であった。実はイスタンブール(昔はビザンチン、コンスタンチノープルなどとも呼んだ)の町は、ヴェネツイアとともに、私が非常に関心のある2つの町の一つであるのだ。両都市に関する本は何冊も読んだし、自分でも何冊も関連本を持っている。

 感想が、少し脱線してしまった。人によっては、この『シナン』は、歴史小説としては、歴史的事実に沿ったストーリーも少なく、奥行きがないように思えるかもしれないが、それでも小説として十分興奮し楽しめる上に、オスマントルコの歴史やモスク(ジャーミー)などイスラム文化にも関心が沸くようないい作品に仕上がっていると私は思います。
 夢枕氏の代表作の一つに加えてもいい作品だと思います。

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