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書評(平成18年05月27日)

『奇貨居くべし』(宮城谷昌光著・中央公論新社)

  宮城谷さんの本は、久しぶりである。でも、この『奇貨居くべし』と『三国志』以外の彼の作品は、確かほとんど読んでいるはずである。中国史を題材にした小説を、まだ文字も無かった先史時代から、色々と採り上げてきた著者であるが、最近は、秦や三国時代という皆さんおなじみの時代を採り上げるようになってきた。中国の古代にこだわっていては、書けないのかもしれない。私は別に、それを批判するつもりはない。今回の作品も、さすが宮城谷さんだ、といった感じがする。

 この『奇貨居くべし』は、全部で5巻からなる。巻一は「春風篇」、巻二は「火雲篇」、巻三は「黄河篇」、巻四は「飛翔篇」、巻五は「天命篇」である。
 
 主人公は秦の宰相を勤めた呂不韋(りょふい)である。秦の宰相といっても、申不害 、商央、范雎、蘇秦、 李斯などと色々有名な人がいますが、中でも一番有名なのは、やっぱり呂不韋ではなかろうか。本のタイトルともなっている「奇貨居くべし」の諺でも有名であるし、また秦の始皇帝の実の父親ではなかろうか、という謎があるなど話題が多く、今でもそのあたりを題材に小説にされることが非常に多い人物でもある。また『呂氏春秋』を編纂した事でも有名な人物である。

 呂不韋の前半生は、詳細が不明ということもあろう。第3巻の「黄河篇」までは、著者の空想力が自在に発揮され、第4巻以降、やっと呂不韋の歴史上のエピソードも色々盛り込まれてくる。非常に多くの歴史上の有名人が登場する小説である。呂不韋が、この小説の中で逢ったということになっている歴史的有名人をちょっとあげてみよう(小説の中にただ名前が登場する人物は省いた)。

 「春風篇」では、趙の藺相如(りんしょうじょ・後の有名な宰相)、春申君、荀子、秦の宰相・魏ゼン(ぎぜん)。「火雲篇」では、孟嘗君、魯仲連、人相観の唐挙、蔡沢なども登場してくる。「黄河篇」では、鄭国が新たに出てきた。鄭国渠(運河)で今に名を残す人物である。「飛翔篇」では、タイトルの奇貨にあたる秦の昭襄王の子で公子の・異人(後の子楚→荘襄王)、それから華陽夫人や安国君(後の孝文王)、趙の廉頗将軍、秦の白起将軍なども。また孫子(荀子)の行列と遭遇した時には、李斯や韓非子などとも出会う。「天命篇」では、秦の将軍・蒙ゴウ(もうごう)、同じく王コツ(おうこつ)、政(後の秦の始皇帝)等々。

 「飛翔篇」に入って、呂不韋は、やっと商人として活動しだすのであり、その前までは、色々な人物が出てくるが、殆どは作り話であるようだ。その色々な人物との巡りあいであるが、最初の出会いをたとえばちょっと紹介しておこう。「春風篇」では、呂不韋は、鮮乙という従者と旅の途中、楚の宝「和氏の璧」を抱いて死んでいる人物を見つける。その者を追う者の話から、楚から趙へ行く使者が持っていた者と推察し、趙の邯鄲へ行き、そこで、趙の藺相如や、楚の春申国と会う・・・・・といった具合である。何と、呂不韋は、この小説の中では、使者としての藺相如に同行して、秦にまで行ったりもしている。

 「飛翔篇」になって、やっと有名な場面が出てくる。ちょっとだけ「飛翔篇」の粗筋を書く。
 金脈を教えることによって秦の宰相・魏ゼン(ぎぜん)から賈人になる資金を得た呂不韋は、衛の国の濮陽に拠点を構え、また魏ゼンの領地の陶や穣の地の産物を一手に商うこととなり、商人として大きく成長する。その商売は自分のみの利益を追うのでなく、多くの人に益をもたらそうとする信念のもとのやり方で、薄利で堅実に儲けようとするものであった。
 しかし着実に伸びた取引も、魏ゼンの失脚で、後ろ盾を失い、窮地に立たされる。それを何とか乗り越えた呂不韋は、失敗を、糧として人間的にさらに大きく成長する。
 ある日、呂不韋は、趙の邯鄲で秦から送られた人質・公孫・異人(後の子楚→荘襄王)を見た。趙の宮城へ定期訪問の挨拶に登る途中であったが、秦から見捨てられたようで、非常にみすぼらしく哀れな行列であったが、異人に黄金の気が立つのを見た呂不韋は、それを奇貨と感じ、生涯ただ一度の大博打で出る決心をする。・・・・・

 「天命篇」は、呂不韋が、秦の政治を執りだしたあたりからの話である。前巻では、呂不韋と政(後の秦の始皇帝)の関係をさらりと流した感じで、この小説では、政が誰の子供かということにはあまりこだわっていない。その点にはほとんど重きを置いていない感じだ。

 呂不韋も、政を最後まで、自分の子という眼でみておらず、あくまで子楚(昭襄王の子)の嗣子としてみている。それどころか、趙の邯鄲から脱出する際に、呂不韋は子楚しか、ともなわず、政(後の始皇帝)を置き去りにした形になった。そのため、政は父(子楚)も呂不韋対も恨む。この小説の中では、彼の部下を通して、政を匿った鮮芳を援助したのだが、政にはそれがわからない、という筋立てになっている。

 ところで、呂不韋が行った政治については、宮城谷氏は、かなり評価が高いようだ。私は、今まで『史記』の史観に近い本を読んできたのか、呂不韋に対しては、もっと謀略家っぽい感じを抱いていたが、著者は、呂不韋を、かなり理想の政治家と見ているようだ。もっとも、それは宮城谷昌光氏の小説の全般に言えることであって、彼の小説の主人公は、現実(事実は私も知らないが)以上に、理想化されているように思う。

 今までの呂不韋が出てくる歴史小説は、彼が実際に行った政治については、あまり書かれていなかったと思う。彼の政治は、著者が書くように、民衆の心をつかむような思いやりのある政治であったのかもしれない。宮城谷氏によると、呂不韋は、「天下は一人のための天下に非(あら)ざるなり。天下の天下なり。」(「十二紀」の中の「孟春紀」)と言ったという。宮城谷氏は、これは民主主義宣言とも呼べるものだと言っている。確かにあの戦国時代の秦で、これを宣言したなら凄いことである。また「呂氏春秋」という本を編纂した彼であるし、彼の思想も知れば、だいぶ呂不韋像も変わるのかもしれない。実際、この小説で私の呂不韋像はかなり変わった。

 「呂氏春秋」というような立派な本というか百科辞典のような本を編纂したということは、また呂氏がかなり本を読んでいたらしいということは、やはり当時一流の人物で、高潔な人物であったのかもしれない。また賈人出身という人物には、似つかわしくないとイメージの人物だったのかもしれない。歴史上の人物は先入観・偏見で見るべきではない。そういう眼でみては、何も歴史から得られない。私も、今後も呂不韋を色々な観点から見ていこうと思う。

 この本の最後には、著者の「あとがきにかえて」という文章がある。それを読むと、先に述べた「飛翔篇」に入るまでの話はほとんど作り話という私の想像は大体当たっていたことがわかる。呂不韋については、秦の政治を執るにいたるまでの話は、あの「奇貨居くべし」の話以外わかっていないようだ。その不詳の時代を、宮城谷氏が推理と想像を働かせて、この小説を書き上げたようだ。この小説では、呂不韋は、荀子(この小説の中では孫子という名で出てくる)に教えをうけ薫陶されたように書かれているが、実際には呂不韋の思想・業績などから荀子の思想の影響があると想像できるだけで、その想像をもとに、宮城谷氏は荀子をこの小説の中に登場させたらしい。
 荀子だけでなく、これだけ多くの歴史的有名人を彼と遭遇させ、波乱万丈の物語に仕上げた宮城谷氏は、やっぱり大した力量の作家といわざるを得ない。

 私は別に皮肉っぽく批判している訳ではない。これが小説というものだ。それでいいのだ。宮城谷氏が描く理想の人物像というものに、いつも魅惑される。嘘であろうが真実であろうが、この小説の中でも、呂不韋の生き方に、かなり学ぶところがあった。
 人間はやっぱり私利私欲で生きるのではなく、コツコツと徳を積みながら、生きることが、人を活かし自分を活かすことになるのだろう。この生き方は、私の思想というか気持ちにも十分合う。

 皆さんも、お読みになってはいかが。勿論、源さん推薦の一冊です。

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