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書評(平成18年07月10日)

『聖域』(篠田節子著・講談社文庫)

   凄い作品である。(前に短編を1つ図書館で何気なく読んだことがあるが、ほとんど)初めて作品を読む作家だが、自分を惹きつけるこの作品の引力で、どこか異界へ吸込まれてしまうのではと思うほど、のめりこむように読んだ。
 いつものように粗筋をまず少し書く。

 主人公は実藤(さねとう)という山稜出版という会社の三十間近の独身社員で、同社の週刊誌の編集から、発行部数3千部の季刊文芸誌へと異動になった男。会社を辞めた前任の男が遺していった荷物の中から「聖域」とタイトルのついた古びた原稿を発見し、その世界に魅了される。

 その作品「聖域」は、8世紀末の東北地方を舞台にしたもので、平安京などを築きつつ中央集権化を強化した桓武天皇の御世、蝦夷の反抗に対して、坂上田村麻呂を将軍とする征討軍を送り鎮圧。それに伴い、天台宗の僧が送り込まれる。慈明という僧もその一人で、天台宗の教えを蝦夷の地に弘めようとするが、秋田柵にいたときに起きた冷害による飢饉で、反乱が再び起こる。極楽寺などの大伽藍や家々が焼かれると、勢力拡張と衆派門徒の抗争に明け暮れる教団に不信を抱き、一人蝦夷の奥地へ入って行く。彼の波乱に満ちた人生、稲作文化と狩猟文化、聖と俗、民民俗宗教と組織化された宗教、いくつもの対立を内包しながら進んでいく作品であった。

 しかしこの作品は未完であった。作者は水名川泉という女流作家。作品は勿論発行されておらず、実藤は、こういう優れた作品を埋もれさせてはならぬと、この著者に続きを書かせるために著者を探そうとする。手がかりを追ううちにあることがわかる。会社を辞めた前任者、大御所の作家、校正者など彼女に関わった人間は皆、精神に異常をきたしたり、人生を狂わせているのだった。そのうち死んでしまったりする者も出る。

 実藤は、彼らから彼女に関わるのはよせと忠告されながらも、それでも捜し求める。そして彼女が宗祖をしてい信仰宗教の教団を探し当てる。取材と称し潜入するが、彼女はこの教団から逃げ出してすでにおらず、その上、信徒を怒らす行動に出て、そこから追い出されてしまう。

 それでも追い続ける彼は、ある青森の温泉地で彼女を偶然見つける。そして彼女に続きを書かせようと迫るが・・・・

 後半で、水名川泉が見つかってからの主人公は、私には我執にとらわれた現代人の残酷さを描いているように思われた。

 実藤は、週刊誌時代に一緒に仕事をした女性フリーライター豊田千鶴に想いを寄せるが、彼女は取材先のチベットで亡くなっていた。実藤は、水名川を見つけた最初の出会いの時から、水名川泉を通して、千鶴と再会する。その後も何度か千鶴と再会するが、実藤の心が千鶴の霊をひきつけたりしているのにもかかわらず、水名川泉の術だと考える。水名川が霊に対する対処の仕方を教えるが、彼の意思がはねつける。
 私もこういう世界を全て肯定している訳ではないが、しかしこういう場面をに出くわすと、何か現代人の狭量さを感じてしまい、もっと素直になるところがあってもいいのではと思ってしまう。結局、この狭量さ、残酷さが水名川泉を死際まで追いつめるのだから、凄まじい。

 本の終わりに解説者が、スタニスワフ・レムという哲学者の言葉を引用したりして、小難しく解説し、「なんとも惜しいのは作中作である『聖域』の完結場面が、読者であるわれわれに提示されなかったことであろう」と述べている。
 しかし私には、水名川泉と篠田節子が重なり合い、篠田節子自身も、これ以上書くのは不要と言っているような気がした。

 現代人は、知識・教養がつくとそれを武器に他人に自分の主張を飲ませようと我を貫こうとする。理に適った正しい主張は、我(エゴ)ではないと思い込んでいる。自分は相手より知力は上だと思うと、なおさらその傾向が前に出る。そうでなくとも出来るだけ主張し、自分の思う通りにしようとする。傍から見ると(聞くと)言っていることが、結構コロコロと自分の都合のいいように変わるのだが、本人は気づかない。自分が正しいと思い込んでいる。

 この本の中で実藤が水名川泉を見つけて、「聖域」の続きを書くよう要請するが、断られさらに迫る場面で水名川泉はこう言う。
 「同じなのね、あなたたちというのは、みんな同じ・・・・」
 「ぼくたち編集者が、という事ですか?」と実藤は尋ねる。
 「いえ、そういうことではありません。いつも、より多くの物を手に入れようとして、飢えと渇きに苦しんでいる人々。必要の無い名声、必要以上のお金を求めて、血を流し、心を削り続ける人々。」
 実藤は「金や名声なんかじゃありませんよ」と反論するが、我執にとらわれた人のことを彼女は言おうとしたのだと思う。彼はそれを、金やお金が目的でないからといって、否定し、理解しない。
 
 私の感想は、他のレビューと比べると少し変わっているかな??でも私は、現代人の我執についても、彼女は言いたいことが相当あるのでは、と思ったのだ。

 勿論、他にも日本人の死生観や、宗教心など色々深く考えさせられる作品であった。今後、彼女の他の作品も多く読んでみたいと思っている。

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