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書評(平成18年07月27日)

『ゼロの焦点』(松本清張著・新潮文庫)

  この本は、私が住む能登が舞台として登場する小説としては、今でも一番有名な作品ではなかろうか。能登の人は、話の内容は知らなくても、ほとんどの人がこの小説の名だけなら大概知っている。金沢や鶴来といった加賀のほか、羽咋や高浜、七尾、和倉なども描かれている。
 この作品は、何度もドラマされたらしい。私(40代)が確か小学生の頃、確かでNHKの銀河ドラマ小説で放映されていた。私の記憶に間違いがなければ、確か夜9時40分から10時までの20分の連続ドラマだったと思う。
 しかし私自身当時は子供だったので、観ようと思っても、この時間帯になると寝かしつけられたので、観ることはできなかった。その後ドラマ化されたものも一本も観ていない。
 だから内容は、今回読んで初めてしった次第である。

 話の前段を少し内容を紹介。
 広告取次業(今で言う広告代理店のことのようだ)のA社に勤め、金沢で営業活動している36歳の鵜原憲一は、見合いで26歳のOLで東京に住む板根禎子と結婚した。禎子はOLを寿退社。鵜原とは、会社の方から、結婚後すぐ東京に戻してもらうという話で、すぐに一緒に暮らす予定だった。信州方面へ新婚旅行に行った後、憲一は辞令で予定通り東京勤務になった。
 そして前任地の金沢へ引継ぎのために、後任の本多良雄と一緒に金沢へ向かった。しかし憲一は、一週間を過ぎ、帰りを伝えてきた日を過ぎても戻らず、突然失踪してしまう。
 禎子は、金沢へ出かけ、憲一の後任の本多と一緒に、夫憲一の行方を捜すことになるが・・・・・

 私は、最初から憲一は自殺ではなく、他殺だと推理したが、犯人は予想とは違っていた。少し意外だった。
 戦後直後の混乱の中、出自に関わらず困窮した多くの子女が、米兵相手の娼婦(パンパン)となったが、そういう暗い世相の時代に、殺人の動機が繋がっていく。

 私は、推理小説では、事件の背景として、こうした重く背に圧し掛かり、ドロドロとしていてまとわりつき逃れようの無い状況から惹き起こしてしまう事件を描いたものが好きだ。小説としても、サスペンスとしてもスリリングな感じとはまた別な風格、重厚感のようなものが出てくるからだ。‘罪を憎みて人を憎まず'ではないが、犯行にいたるざるをえなかった事情を考慮すると、哀切な気持ちにさせられるようなのがいい。利害欲得だけからでの犯罪では、軽い気がする。

 巻末で、解説者も言っているように、この作品は、オキュパイド・ジャパン(「占領下の日本」という意味で、製品などの刻印にもメイド・イン・ジャパンではなく、メイド・イン・オキュパイドジャパンと記された)という未曾有の社会的混乱の中から派生した一つの社会的悲劇といえるだろう。

 自分の過去を知られたくないためにここまでするかと思う人もいるかもしれないが、仮面の下の醜い素顔はやはり見せたくないのが多くの人間の心理であろう。昔「刑事コロンボ」でもそういう動機の犯罪の話が幾つか出てきた。例えば、かつての名闘牛士が、牛に脅えたところをある者に見られて、口外されぬよう殺害するという作品もあった記憶がある。

 つまらぬ動機のようだが、嘘や仮面で他人に自分の暗い面を隠してから、成功したりすると、その成功を守りぬくため、嘘の上塗りをする場合もあれば、時にはエスカレートしすぎて殺人するということも考えられぬことではない。弱い人間(というか弱い者としての人間)が陥りやすい魔の心理である。
 この小説は、戦後の混乱期という暗い時代を地を這うように生き抜いてきた人間が、立ち直り成功したかと思った挙句、そのような魔の心理から陥った事件・悲劇を描いた傑作である。

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