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書評(平成18年10月11日)

『四千万人を殺したインフルエンザ—スペイン風邪の正体を追って』
(ピート・デイヴィス著・高橋健次訳・文藝春秋)

 1918年から流行りだしたペイン風邪は、第一次世界大戦中に発生した。戦争の戦死者以上の多くの犠牲者を出したことで、有名である。日本でも、約38万人亡くなったといわれている。世界ではこの本では約4000万人の死者を出したとある(これらの数字は勿論本によって異なり、この数字より多いともいわれている)。

 しかしこれだけの犠牲者を出したスペイン風邪だが、今では欧米でも結構忘れ去られてしまっているらしい。若い人になると、黒死病は知っているが、スペイン風邪は知らない人も多いとか。それは、この伝染病が第一世界大戦の最中に流行し、戦争の悲惨さの中で埋没してしまったことが影響したようだ。

 インフルエンザは、現在でも毎年のようにどこかで発生し、あまり報道されることは無いが、アメリカや日本で毎年数千人が亡くなっている病気であり、時には何万人、いや何千何百万人という人々を殺してパンデミック(Pandemic:伝染病の大流行のこと)といわれるような状況を引き起こす病気であるという。最近注目を集めるHIVや他の伝染病に隠れて、陰が薄くなった感じだが、依然として一番多くの人間を殺しているウイルスなのである。

 このインフルエンザを、捕えることができるようになったのは1930年代に入ってからであり、それ以降分析が進んできたが、スペイン風邪はそれ以前に起きた今世紀最大のパンデミックであったので、スペイン風邪の正体が謎であった。

 現在インフルエンザは、A型、B型、C型や、球状のエンベロープと呼ばれる細胞膜の上にある二種類の突起、ヘマグルチニンとノイラミニターゼの型の違いによっても、H1N1とか、H3N2という風に分類される。このスペイン風邪といわれるスペインインフルエンザは、この型が最近までわからなかったのだ。

 このインフルエンザは、鳥インフルエンザに由来し、ヒトインフルエンザと鳥インフルエンザの双方に感染する豚を媒介として、その体内の中で鳥インフルエンザウイルスとヒトインフルエンザウイルスが、遺伝子間の組替えを起こして、種の壁を越え、殺人ウイルスとして変化するのだ。

 1997年以前まで人間に感染しないと言われていたH5N1が、香港で鳥から人間に直接感染し、数名の犠牲者を出した。その後もアジアのほかの地域などで同じような直接感染者が出ている。近年はH9N2の危険も言われている。これらのウイルスが、人間への適応性を増し、ヒトヒト感染を起こすようになると、今までに経験したことがないウイルスの型だけに、パンデミックは間違いないという。予想では死者数が、1億人を超すのではないか書かれている。

 このような中、20世紀の終わりごろから、なぜあのようなパンデミックが起こったのか、型はどの型であったのかなど、それらがパンデミック対策の鍵になると考えられ、スペイン風邪の正体自身を突き止めようという動きが起こる。スペイン風邪で死んだ人の中には、極寒地でなくなった人もおり、その人の遺体が永久凍土の下なら、検体を採取すれば、ウイルスも壊れていない状態で調べることができるのではないかという動きがおこる。

 この本は、そういう人々の姿を追ったドキュメントでもある。当初はアラスカや色々な地で墓地の発掘がなされたがうまくいかなかった。そんな中、スペインウイルスを5年にも亘って一人で追い続けてきたカースティ・ダンカンという若い女性が、スカンジナビア半島の遥か千キロほど離れた北の地・スバールバール諸島で、スペイン風邪で亡くなった7人の鉱夫が亡くなっているという情報を得て、そこで発掘してはどうかと発想する。

 彼女は、ここなら遺体は凍結保存されている可能性が高いと考え、協力や資金提供を呼びかけチームを結成する。その道で知られた多くの専門家なども一員として参加、また多額の資金も獲得してこのプロジェクトは行われた。しかし遺体は、埋葬された位置が浅く、冷凍保存はされておらず腐敗して、失敗だった。この辺の描写、科学者同士の人間関係的な摩擦、マスコミなどからも注目され、失敗がわかってもなかなかその事実を認めようとしない、認められない科学者の苦悩の姿が生々しく印象深かった。

 しかし同じ頃、そのスペインインフルエンザの姿は、全く違った方法で調べられようとしていた。米軍理学研究所(AFIP)にホルマリン漬で保存されているスペイン風邪で亡くなった人々の検体を使って、トーベンバーガーという人物が始めた方法であった。

 病理学者の間では常識的にはホルマリンにつかった検体のウイルスは、時代を経ると変化したり、破壊されたりして、研究の対象にはならないと思われていた。ケリー・マリスがノーベル化学賞を受賞したPCR(ポリメラーゼ連鎖反応法)という方法を利用し、壊れたインフルエンザのRNAを大量複製し、一つ一つ部位を特定して、モザイク絵を組み立てるようにしてある程度までスペインインフルエンザの姿を明らかにした。

 さらにヨハン・フルティンという70代の男性がトーベンバーガーに協力する旨を告げる。彼は1950年にアラスカのシューアード半島で一度スペイン風邪で死んだイヌイットの遺体を発掘して失敗していたが、今なら壊れていて完全でないウイルスでも、再度発掘しその検体を提供することにより、その姿の解明に役立てることができるだろうと考えたのであった。
 このトーベンバーガーとフルティンのコンビによって、ついにインフルエンザの大よその姿が解明される。それはH1N1のウイルスであたこともわかる。

 またインフルエンザに対抗する手段も、新たなものが生まれる。ワクチンや抗生物質ではなく、抗ウイルス薬品である。今までは、抗原を見つけてやっつけようという考えから、ウイルスが細胞にとりつくための、ひっかけ鉤のような役割を果たす突起のヘマグルチミンばかりが注目され、抗体を生成促進するワクチンの製造が、要であった。

 グレーム・レーバーは、ノイラミニターゼに注目した。それを大量培養してから、ある酵素を使ってノイラミニダーゼの突起の先端を切り取り、遠心分離器にかけて分離結晶化させ、さらにそれをX線分析により解析することにより、それまで目にすることができなかったその形を知る。ノイラミニダーゼは、細胞を破壊した後、現場から脱出するためカッターのような役割を果たすので、それの活動部位を働かなくさせれば、ウイルスが増殖すことは抑えられると考えた。結晶の形から、ノイラミニターゼの分子間に出来た裂け目のような溝に注目し、その裂け目を塞ぐプラグとなる薬品を開発することによってインフルエンザが増殖することを防ぐのに成功した。

 プラグ・ドラッグと呼ばれるこの型の薬は、インフルエンザに感染してから36時間以内でないと有効でないし、これだけで万能という訳でもない。またこの薬もいずれなインフルエンザの変化によって、防御の壁を乗り越えられてしまうだろうと予測されている。今のところはワクチンと、このプラグ・ドラッグを双方組み合わせて利用し、インフルエンザの予防・治療にあたるのが望ましいと考えられている。

 長々と本の内容のあらましを書いてしまった。専門家ではないので、誤記も多いと思われる。私としては、スペイン風邪の正体の追求なら、それだけに話を絞った方が良かったように思う。まあ私自身、それ以外にも色々知ったわけであるが、本の面白さとしては、テーマのようなものが曖昧となってしまった感じがする。それでもこの本は、つい10年ほど前から、この本が発刊される1999年の動向が述べられ、いわゆる最新情報でもあり、大変勉強になった。

 この本に出てきた、アラスカやスバールバール諸島の遺体からスペイン風邪の正体を突き止める話は、最近私が紹介した本(『インフルエンザ大流行の謎』(根路銘国昭著・NHKブックス))の中にも、簡単に紹介されていた。実際には、それを突き止めようという執念にもにた人々のこれだけの努力が傾注されていたわけである。科学者たちの競争先着争いの実態もよくわかる。これだからノンフィクション、ドキュメントは、毎度いいなあと思う。小説とは違った面白さを味わえる。

 最後に、この本の紹介に関しては、Amazon.co.jpで異例とも思われる長文のレビュー(ブックレビュー社によるもの)が紹介されている。興味のある人は、こちらも参考にされたはどうだろう。

 お薦めの一冊です。

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