このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

書評(平成18年12月07日)

『北前船の事件 はやぶさ新八郎旅』
(平岩弓枝著・講談社)

 この本は、平岩弓枝さんの「はやぶさ新八郎御用旅」シリーズの第4作目である。勿論今までの既刊は、『はやぶさ新八郎御用帳』シリーズ以来全て読んでいる。

 まずはいつものように、話の粗筋から紹介。
 谷中・感応寺境内で、富突があった夜、桜の木の下で殺人死体が見つかった。調べていくうちに、金助という越後出身の水主だとわかる。その後、彼を見知っているらしい彦三という植木屋の男が、死んだ男に「見覚えがある」という言葉をのこして忽然と姿を消した。また南町奉行・根岸肥前守の侍女お鯉も、親の法事で実家に戻った際、奉行所からの迎えであるとの偽の駕籠に乗せられて忽然と姿を消した。さらに越後の水主で、たまたま江戸見物の折、感応寺でみた死骸が同郷の金助に違いないと申し出てきた信吉という男も、それとほぼ同時に姿を消してしまった。

 そして御番所の目安箱に根岸肥前守宛てに奇怪な書状が投げ込まれた。お鯉を預かっているから、5月15日までに越前出雲崎まで隼新八郎に御奉行代理人として来てほしいというものであった。
 事件は、どうやら根岸肥前守が佐渡奉行をしていた前後の時代に関わるような気配が感じられた。肥前守は、江戸町奉行や勘定奉行を勤める前、18,9年前、新八郎がまだ幼かった頃、佐渡奉行をしていた。彼の父も肥前守の右腕として働き、佐渡で病気で亡くなっていた。その頃、他の奉行は、できるだけ自分の在職中に事件を起こして責任を問われる事態を招きたくなかったので、島内だけに目を向け、島の外海の抜け荷など見逃していた。しかし、肥前守は悪を懲らしめようと、新八郎の父などを動かして取り締まったのだった。
 新八郎は、彼の一の子分と自称する藤助を供として、なつかしくもあり因縁深き、越後に向かうが・・・・・・

 粗筋をこれ以上書くと事件の展開が予想され興味が半減するので、この辺でやめるが、この話にどういった事柄が絡んでくるかだけ、ちょっと述べる。この事件には背後に薩摩が大きく関わる。また越後、佐渡などの湊の様子や当時の北前船の交易の内容のほか、菱垣廻船、樽廻船、弁財船など船の知識もあれこれ述べられ、ホント歴史の勉強にもなる。

 例えば越中(富山県)の薬売りたちが、蝦夷から仕入れてきた昆布や俵物で薩摩と取引していたという知る人ぞ知る話が出てくる。この小説では、薩摩の船がこの越後など北陸まで出向き交易していていたとなっている。私が以前聞いたのは、越中の船が九州で薩摩と交易をよくしていたというものであったが、薩摩の船も北陸にきていたのかもしれない。薩摩の船は藩船の治外法権を利用して、越中の船などと密貿易し、越中には南蛮渡りの薬を渡す替わりに、昆布や煎海鼠(いりこ)などをも仕入れ、それを琉球を通して中国に売って莫大な利益を得ていたのであった。

 この小説の話とは関係ないが、ちょっと思いついた事を記す。幕末金沢の加賀藩は鳥羽伏見の戦いが終わるまで幕府側が当然勝つと信じて疑わず、鳥羽伏見の戦いの頃、幕府側に加勢するために越前あたりまで出向き、途中で結果を知り、あわてて金沢に戻り謹慎するという百万石の大名と言うには何ともお粗末な体たらくを示していた。江戸後期に黒羽織党などという改革派なるものが出るが、その実態は改革派どころか今日の目から見ると保守派もいいところで、加賀藩士はまるで時勢を見る目がなかった。

 それに対して加賀藩の支藩である富山藩は、藩が狭い上に沼地が多く、米の収獲が少なかったが、優秀な藩であった。薬売りを藩の特産物として、その独特の販売方法で全国に売り歩いていた。そしてその者達から他国情報を収集していた。また蝦夷や九州などへ出かけた北前船からも盛んに情報を収集したという。どうやら取引先の薩摩藩などからも情報を得ていたらしい。それで加賀藩とは対照的に、海外情勢も含めて全国有数の情報通の藩であったという。このような話を以前読んだ事がある。

 話が、大分それてしまった。何はともあれ今回は今までとは趣が少し異なり、舞台に何度も海が登場する。その上、この私が住む北陸の歴史とは切っても切り離せない北前船に関しての事件だ。いつもとはまた別の興味も加わって、楽しく読むことが出来た。
 勿論、今回もお薦めの一冊です。

 (この本は中能登町鹿島図書館から借りてきた本です)

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください