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書評(平成18年12月23日)

『死の起源 遺伝子からの問いかけ』
(田沼靖一著・朝日新聞社)

 最近、「死の生物学」が注目を集めてきている。「死」は「生」の対極としてあるのではなく、生物の基本的な単位である細胞の中に遺伝子としてプログラミングされているという。以下この本の内容の紹介をする。

 生というものが(ゲノムが)2倍体の細胞生物となり、さらに生殖機能による増殖方法を選んだ時に死は生まれた。勿論1倍体の生物にも、死はあるのだが、それは食われたり、何らかの事故により死んだりという死であって、遺伝子の中にプログラムされた死ではない。1倍体の細菌などの生物は、分裂によって増殖しているのである。 

 つい数十年前まで細胞の死というものは、全て壊死(ネクローシス)というもので語られてきたが、最近では受精卵の発生の過程などで発現するアポトーシス(自死)が知られるようになってきた(私もこのアトポーシスに関する本は、以前にもこのブログで何度か採り上げた)。

  胎児の形態形成の途上で、たとえば人の手の形成では、最初アヒルの水かきのようなものができるが、その後に指と指の間の細胞が、アポトーシスによって死に、次第に人間の手れしいものになっていくことは有名だ。また蛹(さなぎ)が蝶になる過程でもアポトーシスが働いて変態していくことも有名である。有性生殖する生物にとって細胞にとって死は必用な事なのである。

 アポトーシスは、先にあげた形態形成に関わる際にも働くが、それだけではなく、日々の新陳代謝でおきる細胞交替や、免疫系などで自己に悪影響な抗体がつくられると自死させるような生体制御としての機能もある。また自己反応性免疫細胞、ウイルス感染細胞、癌細胞などの除去で働く生体防御の機能もある。

 この著者は、またアポトーシスとよく似た細胞の自死機能であるが、細胞の寿命による死をアポビオーシスとなづけ、遺伝子にプログラミングされた死を解説している。そして細胞の死を次のように分けている。

 まずは遺伝子に支配されない細胞死としてネクローシス(壊死)をあげ、これは怪我や外的影響などにより全ての細胞にありうる死とする。
 そして次に遺伝子に支配された死としてアポトーシス(自死)とアポビオーシス(寿死)の2つを挙げている。アポトーシスを再生系細胞(皮膚など)で起きる死とし、アポビオーシスを非再生系細胞(脳細胞、心臓、神経系の細胞など)で起きる死とし、個体の死は、アポビオーシスが影響して死のスイッチが入る事が多いが、かならずしもそれだけではなく、アポトーシスが影響して死のスイッチが入ることもあるという。

 再生系細胞で起こるアポトーシスだが、再生回数にも限度がある。染色体の末端にあるテロメアという部分が、1つの細胞が再生分裂を繰り返すうちに、そのテロメアの部分が短くなり、約半分の長さになるともう分裂できなくなるという。つまり細胞に老化が起こり、再生不可能となるというわけだ。著者はこれを分裂寿命と名付けている。他方、脳や心臓のような細胞のような非再生系細胞では、長年月分裂機能を失ったまま高度の機能を果たしある時期がくると死滅するが、その期限の事を分化寿命と名付けている。

 真核細胞を持つ生物のDNAは、核やその中のタンパク質などに守られている。それでも紫外線やその他の原因で日々変異が生じたり傷害を受けている。このような場合、DNAは修復機能を持っており、自動修復するが、それでも日々それらのことは起こり、時間とともに徐々に遺伝子の変異などが溜まっていく。それが老化の原因ともなっている。

 無性生殖する生物では、分裂増加しか方法がないからその変異・老化した遺伝子をそのまま受け継ぎ増えていくことになり、戦略上あまり上手いとはいえない。有性生殖する生物では、遺伝子組み換えというシャッフルされた後に、減数分裂され、精子が卵子に受精し、新しく再生される。そしてそのように有性生殖によってせきた受精卵さえも、発生の過程で将来悪い影響が出そうだとわかるとアポトーシスして、できる限り変異した遺伝子を後世に残さないような複雑で高等な戦略(ストラテジー)をとっている。

 積極的な細胞死の原型は「性」とともに出来上がったという。生物の進化とともにアポトーシスとアポビオーシスという次元の異なる細胞死の機構を確立された。この性と死が両輪となって、生命は時空を超えて進化することが可能になった。生命の連続を保証するために、個体にとって不連続となる死が組み込まれ、これが生命を、時空を超えて遺し伝える最も有効な手段なのであった。

 生物は全て自ら生じ、自ら形成する自立的な‘自己組織能'をもっているが、それに生物たらしめる‘自己増殖能'が加わり、生命と成り、さらに「死」という‘自己消去能'がそなわり、生命体は有限となると同時に、無限の変成が許されたのであった。

 著者は言う。「死」それ自身は、本来無に還るという以外、何も意味を持たないだろう。死は常に生の前提として捉えるべきものである。「死」は、人間をはじめとして「生」ある物は全て必ず死ぬ物である事を自覚するためにある。そしてそれによって「自分とは何か」を問うことができる。「死」の起源を知り、死のある意味を自然の中で考えることが重要だ。それが有限の「生」を「いかに生きるべきか」という人間の根本的な問題を解決する原点となるのだと。

 数年前から最近にかけて、私は何人もの叔父叔母など亡くなりました。まだ親は健在ですが、かなり老いも目立ち、私自身、色々死について考えさせられることがこの頃多くあります。著者も言うように、現代社会は、死というものをできるだけ忘れ、遠ざけようとする社会になってきました。しかしそのようなあり方ではやはり有意義な生は送れないような気がします。何かそんな最近の心境も影響して、この本を手にしたように思います。
 生と死について、そしていかに生きるべきかについて、非常に考えさせられるいい本でした。

(この本は、中能登町鹿島図書館から借りてきた本です。) 

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