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書評(平成19年01月18日)

『遺伝子医療への警鐘』
(柳澤桂子著・岩波書店)

  このコーナーでは、今までにも沢山の遺伝子・分子生物学関係の本を紹介してきた。よってここを訪れる方は、私が遺伝子工学の積極的推進者と思っている人がいることだろう。しかし私はどちらかと言えば、慎重論派である。遺伝子の個々の機能については、まだ全体的な中での相互関係など解明されていない点が多い。いやまだ殆どわかっていないと言った方がいい。少し機能がわかったという程度で闇雲に薬の開発や治療に応用されていく現状には、非常に危惧を抱いている。この書評でも、同様な事を何度か書いた。

 ただ遺伝子の知識は、今ではパソコンや語学などと同様に、現代人に必須の知識となってきた。高校で選択するしないではなく、必須教養として基本的知識は身につける必要があると思う。DNAの知識などが高校で登場するようになったのは、1960年前後で私の少し前の世代からのようである。私より10歳以上年上の人は習っていないらしい。でも習った習わないに限らず社会人でもある程度知っておくべき知識だと思う。そういう考えから、私はこういった方面の本を積極的に読んでいるのである。

 この本は、第1章、第2章、第3章では遺伝子医療を理解するために必要な基礎的な知識を紹介されている。具体的な遺伝子治療は第5章以下で、問題点などもそれ以降で主に述べられている。
 ただしこの本は書かれたのは、1996年である。ヒト・ゲノム・プロジェクトがまだ本格的に動き出す前だ。そのせいか人間のゲノムに含まれる遺伝子の総数を10万と予想しており、現在知られている約3万とは大幅に違う。古いと思うかもしれないが、私が読んだ限りでは、遺伝子工学や遺伝子治療の基礎的な方法論はこの本でかなり勉強できると思う。
 ただPCRなどの説明は、あまり上手くない。以前読んだ『ヒトゲノム』(榊佳之著・岩波新書)などの方がわかりやすかった。

 それでは各章毎に少し紹介していこう。

 第1章の「生命の基本的な単位」では、細胞の発見から、メンデルの遺伝の法則の発見、モーガンやエイブリーの研究を経て、ワトソンとクリックによるDNAの二重螺旋構造モデルの提示の後、急速な展開を迎える。AGTCの塩基が3つ連なったコドン(ただしこの本ではコドンの名は登場せず)が一つの遺伝暗号となり、20のアミノ酸や終始暗号を指定。この設計書により蛋白質が作られることもわかっていく。

 第2章の「塩基配列を読む」では、制限酵素を使って、DNAを一定の塩基配列のある箇所を、例えばパリンドロームと呼ばれるまるで回文のような塩基配列の部分でDNAを一定の塩基配列の箇所を切る方法や、ゲル電気泳動、ベクターDNA、クローニング(クローンを大量につくる)など色々なテクニックが出てくる。クローンニングでは、有名なPCR法や、イン・シトゥ雑種形成法、サザンプロット法、サンガー法など色々な方法も紹介されている。
 
 第3章の「ヒトのゲノムを読む」では、ヒト・ゲノム・プロジェクトが動き出す気運が出てきたようなところまでの動向が書かれている。ヒト・ゲノムを読む計画が起こる前までは、部分的な解読や、ゲノムが読まれた他生物との比較などの動き、そして染色体地図の作成、RFLPs(リフレップス)やSTRPsをプローブとして利用し調べる方法、染色体歩行なぞ様々な解読方法のほか、コンピューターなども駆使して染色体上の塩基配列が次第に解読された話などが紹介。

 第4章の「病因遺伝子の探索」では、前章までで病因遺伝子の染色体上の位置の決め方を受け、病因遺伝子の幾つかについて紹介。デュシエンヌ筋ジストロフィー、ハンチントン病、家族性アルツハイマー病、家族性乳がんなどが出てくる。

 第5章の「遺伝子診断と遺伝子治療」でも、ハンチントン病や、アデノシン・デアミナーゼ欠損症などの遺伝子診断の方法などが詳しく書かれ、それらの問題点なども指摘されている。
 この章では、私も以前から疑問に思っていた点を柳澤さんが指摘していた。それはレトロウイルスをベクターとして使うことについてである。レトロウイルスは、1本鎖RNAを持ったウイルスで、細胞に感染すると逆転写酵素を使って、このRNAを鋳型とした2本鎖DNAを合成し、宿主細胞のDNAにそれを組み込ませて、増えていく戦略をとるウイルスである。レトロは、逆とか反対の意味である。これをベクターとして、ガン抑制遺伝子など治療用の遺伝子を、病気の人の遺伝子に組み込ませるというのだが、どこに組み込まれるかはランダムというのだ。場合によっては、重要な遺伝子の塩基配列を切り取って、そこにその遺伝子が入り込むかもしれないのだ。よってその場合、別の異常が発生する可能性が高い。全く博打のような治療で危ないとしかいいようがないのである。

 遺伝子治療が開始されてから、この本が書かれた年までで10年ほどである。その間、遺伝子治療は、アメリカだけでも五百例以上あるが、これといった成果は殆ど無かったそうです。それにもかかわらず遺伝子治療は増え続けたそうです。マスコミ、企業、社会の遺伝子に対するまなざしは熱いが、現実には基礎研究さえ未熟な状態で、企業の間の特許競争が加熱した結果です。読んでいて空恐ろしくなってしまいました。

 第6章は「農作物と家畜の改良」で、それらに関する遺伝子工学の実態が紹介されています。
 第7章の「遺伝子工学の嵐のなかで」では、このゲノム・プロジェクトが実はアメリカで動き出す前に、日本で先に始動があり、アメリカがこの日本の動きに脅威を感じて、ジェームズ・ワトソンを中心にNIH(アメリカ国立保健研究所)でヒト・ゲノム・プロジェクトが立ち上がったことなど書かれている。この辺の事情は、以前私が紹介した別の本にも確か載っていた。

 人の染色体上の塩基配列を、解読の見返りに特許として金儲けの種にしようとする企業と、ゲノム解読をあくまで、人類共通の財産として役立てていこうという善意の科学者との間の確執なども描かれている。私は、この人間の遺伝子の塩基配列を特許とすること自体、どうしても理解できない。特許権を主張する企業の人には、あなたは神が創り給えたものさえ自分の特許だというのか、と言いたくなる。

 柳澤さんは、地球環境を破壊し、遺伝子環境まで破壊してしまうような現代の状況を憂い、せめて生命の多様性の可能性を保護するために、遺伝子環境の保全を訴えている。そこで紹介されていた「生物種が多様であるほど、生態系は全体として安定する」というエルトンの仮説に興味を抱いた。きっとこれが真実に違いない。今はそれと逆の状況だが、人間の将来にわたっての存続は、そこにキーポイントがあるように思えた。

 第8章は「おわりに」である。著者が病気を押して、それも車椅子の応対で、この本を書かれたことなど書かれている。「二重らせんの私」などの本で名前はかねてから耳にしていたが、闘病していたとは知らなかった。最後の力を振り絞って書いたような事が書かれてある。この本が出版されたから約10年。現在もご闘病中なのであろうか。

(この本は田鶴浜図書館から借りてきた本です。)

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