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書評(平成19年01月24日)

『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』
(梯 久美子著・ 新潮社)

  巷で話題のクリントイーストウッド監督による硫黄島の激戦関連の2本の映画は、まだ(1月22日現在)どちらも観ていない。ただしあの映画に触発され、この本を読もうかと思ったのは事実である。
 硫黄島の激戦について私が初めて知ったのは、8,9歳の小学生の頃である。当時テレビで、太平洋戦争を描いた「アニメンタリー 決断」というドキュメンタリーでありアニメでもある番組があった。時々実写のフイルムも挿入していた。この番組から受けた戦争のイメージはかなり強いものがあったように思う。実写でよく覚えているのは、真珠湾攻撃の時、空母から零戦が飛び立っていく映像、硫黄島その他の島での戦いで火炎放射器を米軍が使う映像、神風特攻隊の映像、いまだに映像が焼きついている。大人になってから見た画像も記憶の中で混じったかもしれないが、(あのシリーズは大好きだったので全部見た)子供の時だっただけにインパクトは非常に強かった。あの番組で観た硫黄島やペリリュー島、沖縄戦の苦闘の話は、特に私を惹き付けたように思う。

 この本のタイトルの「散るぞ悲しき」だが、栗林中将が、最後の総攻撃に打って出る覚悟を決めて訣別電報を送った時に、その最後に添えてあった3つの彼の歌の中の句から引用したものである。
 元の歌は、
  国の為重きつとめを果し得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき
  (「果し得で」の「で」は「て」の間違いでなく、古語では否定の意味を表す助詞です。
   つまり「果し得で」は「果たせずに」という意味です。)
 
 この訣別電報を受けた大本営は、しかし彼の訣別電報も、公にすることで戦意が衰えることを心配し、都合の悪い句は削除や改竄をおこなった。上の歌も新聞などに載った際は、最後の「悲しき」が「口惜し」に変えられた。現地の悲惨な実情を伝えるような文章は、後方の参謀本部とかにいる戦争計画者たちが、全て握りつぶしたのがよくわかる。

 栗林は、陸軍の幹部ではあるが、エリートコースの人間ではなかったようだ。陸軍のエリートの普通辿るコースは、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学であった。しかし彼の場合は、彼の地元長野(長野市松代生まれ)の長野中学を卒業してから、陸軍士官学校に入学、そして陸軍大学を出ている。成績優秀で英語が得意だったので、アメリカへ2年間留学している。その際に、アメリカと日本の国力の差の実態や、アメリカを存分に観察してきたらしい。それだけに彼としては、アメリカとの戦争は反対だったようだ。無謀のように思えたのであろう。

 栗林中将は、陸軍の中では幼年学校出身者でないだけに、陸軍大学を出ている割には出世は遅れたようだ。また彼が、生きて帰れぬ可能性が高い硫黄島へ送られたのも、アメリカ贔屓・親アメリカ的と見られ東条英機などから嫌われた可能性があるそうだ。彼は硫黄島への派遣の話があった時、同じ話を受けた多くのものが断ろる動きに出たのに、素直に受けたようだ。

 彼は、この硫黄島が日本防衛の要であることがはっきりと自覚していた。この島が敵の手におちると、東京などへの空襲が不可避となると。また彼にはかなり早くからもう日本の敗戦を予期し、硫黄島に渡れば生きて帰れないこともわかっていたようだ。自分の使命は、硫黄島で出来るだけ長く奮闘することにより、日本への侵攻を遅らせる、と同時に米軍の人的被害を拡大することによって、アメリカの世論を動揺させ、和睦に持ち込めたらという考えがあったようだ。

 自軍の3倍以上もの兵力に囲まれ、制空権も既に奪われ、武器も圧倒的な差にありながら米軍上陸をできる限り阻止するのが使命。上陸前に74日間もの間、艦砲射撃や空爆を受け、かなりダメージを受けたかと思ったら、艦砲射撃を始めた時よりも、陣地を増やしていてびっくりさせたり、上陸前も第二次世界大戦で最大の艦砲射撃を受け、上陸の歳、米軍からもう日本軍はいないのでは思わせたほどの攻撃を受けたが、上陸後ゲリラ作戦などで大きな打撃を与えたという。その後36日間にもわたる激闘を続け、約2万人の米兵の死傷者(死者は約7千人)を出したと言う。この間、硫黄島に落ちた砲弾・爆弾を全部あわせると、全島(面積22k㎡)の表面を厚さ1mの鉄板で覆うに等しい鉄量だったといいます。

 なぜこれほどに持ちこたえたかと言うと、栗林の綿密な現地視察の上に採られたゲリラ作戦による。大本営や海軍は水際作戦にこだわったようだが、南方の島々などでの同様の作戦による失敗から、栗林は水際作戦は愚劣と考え、敵を陸地に揚げさせゲリラ戦で叩く方法を採る。島のあちこちの地下2、30mのところに陣地を築き、神出鬼没の攻撃を行う、まるで彼の地元の真田家のような戦術であった(松代は真田藩の城下町)。真田家の連想はこの本では書かれていなかったが、私はそういう影響も多少なりともあったのではなかろうかとも思った。

 この本で他に印象に残ったのは、やはり栗林の人柄であろう。この本を読む前は、紋切型の日本的陸軍軍人を思いうけべていたが、全く別と言うか反対のタイプの人間だった。
 彼が硫黄島やアメリカの留学先から家族に送った手紙は、家の隙間風の心配から、空襲までの細々とした心配・気配りなどの家族愛に溢れてたもので、非常に好感がもてた。また彼は形式主義的な軍隊的規律は愚かと考えていたのだろう、硫黄島で地下陣地を築いているのを巡視した際、兵士たちが敬礼をとろうとしたのを止めて、そのまま続けるよう言ったり、全兵士の殆どに言葉をかけて励ましたなど・・・・本当に兵士思いの軍人という気がした。それだけに自分の命令で、無駄死にさせないで徹底抗戦という兵士達に苛酷な死に方をさせることには、心痛如何程のものであったろうかと彼の苦衷を思いやったりもした。

 大本営あての電文や、伝言で、彼は何度も、講和の必要性や軍の方針に意見したりした。訣別文などが改竄されたりしたのも、講義批判とも受け取れる文言や現地の窮状実情を恐れず訴えたりしたからのようだ。国の犠牲となって日本本土を守るために、地獄の苦しみを味わいながら戦っている兵士を思いやったら、言わずにおれなかったのであろう。

 日本では、クリントイーストウッドの映画で再び注目が浴びるまで、栗林中将のことは忘れられていたが、アメリカでは日本以上に彼のことは有名で、また硫黄島のことも長く語られていたようだ。栗林中将は、アメリカを徹底的に苦しめただけに、かえってアメリカ人から尊敬さる人物となったようだ。硫黄島で戦った生き残りの捕虜のその後の話も載っていたが、アメリカでどこで捕虜となったかと聞かれ、「硫黄島だ」と答えると相手の兵士が急に姿勢をただし、畏敬のまなざしでその捕虜を見たという話は、いかに当時のアメリカで硫黄島の激戦が語られていたかの証であろう。何とも印象深い話である。

 とにかく硫黄島で困苦に喘ぎながら国の為を思って、必死に戦って死んだ彼らの事を思うと、涙なくしては読めない本です。40過ぎてから、涙腺が緩んだせいもあって、布団の縁を濡らしながら読みました。ぜひ皆様にもお薦めしたい一冊です。

(この本は、中能登町鳥屋図書館から借りてきて読んだ本です)

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